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憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

国民を代表しているというなら<政治家は「国民の代表」を自認するならば、毎日こう自問しなければ時代のはずだ!自分は本当に代表しているか!?自分は報酬に値する仕事をしているか!?>

 3月17日付朝日新聞朝刊3面に、「日曜に想う」と言う欄がある。筆者は、編集委員・大野博人氏だ。

 今日は、この筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「「国民の代表」とは選挙で選ばれた国会議員だーーー。

 首相官邸が東京新聞記者の質問を制限した問題をめぐり、官邸側がこんな見解を示した。

 記者が会見に出るているのは民間企業である新聞社内の人事の結果だとも。国民の代表たりえないという主張のようだ。

 この見解について重ねて問われた菅義偉官房長官の言葉には迷いがない。

 「見解って、事実は事実じゃないでしょうか」

 よく似た考えの持ち主が19世紀のフランスにもいた。ナポレオン3世だ。あまりにも有名な英雄のおいということもあって大統領に当選し、さらにクーデターで皇帝になった人物である。

 報道機関についてこう言い放ったそうだ。

 「私は選挙で選ばれた。だが、記者たちは選ばれたわけではない。報道を制限するのは、民間企業が権力を持つのを防ぐためだ。代表として選ばれた者たちによって表明される人民の声だけで政治をするためだ」

 この理屈が今の民主主義もむしばんでいると指摘するのはフランスの歴史家、ピエール・ロザンヴァロン氏だ。

 やはり、選挙で選ばれたトルコのエルドアン大統領やロシアのプーチン大統領を例に挙げる。

 「彼らも新聞を締め付ける時に「メディアは正統で民主的な制度や仕組みを批判するからだ」と言います」

 日々行われるべき政治家の正当性の有無を、選挙の結果だけに押し込めようとする病理。

 ふらつく民主主義の「松葉杖」としてカウンターデモクラシーという考え方を提唱している。」と切り出した。

 続けて筆者は、「「地元の議会に誰かを送り出さないのですか」

 大山礼子・駒沢大学教授は若者たちに尋ねてみた。2月に総務省地方制度調査会メンバーとして山陰の街を視察した時のことだ。

 行政といっしょに高齢化などによる課題に取り組んで成果を上げている若者たちで、都会からのIターン組も多い。帰ったきた答えは「考えたこともない」だった。

 「新しい若者から見ると、おじいちゃんたちがやっている自分たちとは関係がない組織と映るようです」と教授。

 「行政と連携すれば新しいこともできる。議会のチャンネルは不要という感覚では。でも、議会がなければ首長はやりたい放題になる。議会を拠点にすればもっと広い地域全体の活性化にも取り組めるはずなんですけどね」

 代表機能を問われているのは「おじいちゃん」ばかりの地方議会だけではない。国会もそうとうあやしい。

 たとえば女性議員がたった1割である衆議院が国民を代表しているといえるだろうか。

 沢山の世襲議員が議席を占め、その間で次の政権の担い手を争っている舞台が、今の日本の社会を反映した場所だととも思えない。」と指摘した。

 最後に筆者は、「多くの国で民主主義が迷走している。排他的な大統領が選ばれたり、ポピュリズム政治家が支持を拡大したり、国民投票が混乱をもたらしたり、民主的な仕組みが問題を解決するよりも深刻化するような例が続く。

 ロザンヴァロン氏ら内外の識者が原因と考えるのは「代表制」の機能不全だ。

 人々は自分たちが議会が自分たちを代表していると感じられない。

近年の各国での世論調査でも、議会や議員、政党への信頼度は極めて低い。

 代表されないことにいら立つ人々は建設的というより

破壊的な主張の政治家に1票投じて憂さを晴らす。あきらめた人々は投票所に足を運ぶことをやめる。

 「国民の代表」が代表できていない現実。にもかかわらず、選挙で選ばれたのだから民主的な正当性を独占できるという政治家のナイーブで傲慢な認識。それが危機を招いている。

 政治家は「国民代表」を自任するならば、毎日こう自問しなければならない時代のはずだ。

 自分は本当に代表しているか。

 官邸の反応には、その苦悩がまったく見えない」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「「国民の代表」とは選挙で選ばれた国会議員だーー。首相官邸が東京新聞記者の質問を制限した問題を巡り、官邸側がそんな見解を示した」とのこと、

 「よく似た考えの持ち主が19世紀のフランスにもいた。ナポレオン三世だ」とのこと、

「私は選挙で選ばれた。だが、記者たちは選ばれたわけではない。報道を制限するのは、民間企業が権力を持つのを防ぐためだ。代表として選ばれた者たちによって表明される人民の声だけで政治をするためだ。」」とのこと、

 「この理屈が今の民主主義をむしばんでいると指摘するのはフランスの歴史家、ピエール・ロザンヴァロン氏だ」とのこと、

 「日々問われるべき政治家の正当性の有無を、選挙の結果だけに押し込めようとする病理。ふらつく民主主義の「松葉杖」としてカウンターデモクラシーと言う考え方を提唱している」とのこと、

 「多くの国で民主主義が迷走している。<中略>ロザンヴァロン氏ら内外の識者が原因と考えるのは「代表制」の機能不全だ。人々は自分たちで選んだ議会が自分たちを代表していると感じられない。」とのこと、

「近年の各国での世論調査でも、議会や議員、政党への信頼度は極めて低い」とのこと、

「「国民の代表」が代表できていない現実。にもかかわらず、選挙で選ばれたのだから民主的な正当性を独占できるという政治家のナイーブで傲慢な認識。それが危機を招いている」との指摘、等々の指摘をしり、その内容はよく理解できた。

 そして、「政治家は「国民の代表」を自任するならば、毎日こう自問しなければならない時代のはずだ。自分はほんとうに代表しているか。」との指摘は、その通りだと思った。

 また、「ふらつく民主主義の「松葉杖」としてカウンターデモクラシーという考え方を提唱していた」との指摘も、なるほどと理解できた。

 その上で、ふと考えた。 議員は高額な報酬を受けているが、その報酬はすべて国民の血税である。そのことを深く自覚すれば、日々「自分は、報酬に見合う、いやそれ以上の仕事をしているだろうか」と、自問すべきではないか、とも思った。

 またふらつく民主主義の「松葉杖」としてのカウンターデモクラシーが、権力者の無知や横暴によって、機能不全になった時はどうすればいいのだろうか。

 いわば、「転ばぬ先の杖」としてのカウンターデモクラシーと、その先に「転んだあとの智恵」が今は必要な時代ではないか、と思った。 


by sasakitosio | 2019-03-20 15:18 | 朝日新聞を読んで | Trackback