学者という肩書<私(筆者)は学者には、二つの条件を求めたい!一つは、ある領域について、学術的な知見をふまえた思考ができること!二つ目はその領域の専門家として、求められる倫理観を持っていること!>
2019年 01月 15日
1月14日付東京新聞朝刊21面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、看護師・宮古あずさ氏だ。今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「社会学者、国際政治学者、心理学者・・・。何か事件があると、学者と呼ばれる人が解説を行う。
デジタル大辞泉によれば、学者とは「1学問の研究を仕事としている人。2学問のある人。豊富な知識のある人」。
私は学者には、二つの条件を求めたい。」と切り出した。
続けて筆者は、「一つは、ある領域について、学術的な知見をふまえた思考ができること。専門領域の研究動向、最新の成果。これらの知識を踏まえた発言ができてこそ、学者の論評に価値がある。
二つ目は、その領域の専門家として、求められる倫理観を持っていること。
例えば看護学であれば、多くの学会が倫理規定を持ち、人権への配慮を強く求めている。
こうした二つの条件に照らすと、肩書に学者とあっても、学者と言えない人もいる。
専門外のお話なら与太もいい。
しかし、専門領域については、知識の裏付けを持って語ってほしい。また、求められる倫理性を意識した発言を求めたい。」と指摘した。
最後に筆者は、「例えば、社会科学系最大の学会である日本社会学会は、その倫理綱領に「会員は、思想信条・性別・性的指向・年齢・出自・宗教・民族的背景・障害の有無・家族状況などに関して差別的な取り扱いをしてはならない」との一文がある。
学者の解説も玉石混交。私たち自身が、肩書に惑わされず、その人の価値を判断する必要がある。」として締めくくった。
読んでためになった。
「私(筆者)は、学者には二つの条件を求めたい。一つは、ある領域について、学術的な知見をふまえた思考ができること、<中略>二つ目は、その領域の専門家として、求められる倫理観を持っていること。」との指摘
「二つの条件に照らすと、肩書に学者とあっても、学者とは言えない人もいる」との指摘、
「学者の解説も玉石混交。私たち自身が、肩書に惑わされず、その人の価値を判断する必要がある」との指摘、等々の指摘はよく理解できた。
「何か事件があると、学者と呼ばれる人が解説を行う」たびに、日本には学者がどこにでもいるんだな、といつも感心している。
最近朝8時からの国際ニュースを見ていると、外国ではあまり学者が解説を行っていない。逆に、物足りなさを感じている。
そして、「学者の解説も玉石混交。私たち自身が、肩書に惑わされず、その人の価値を判断する必要がある」との筆者の指摘通りの日常生活だ。
それにしても、自分が年をとったのかもしれない。
昨今の学者はじめ、世の指導者がなんと幼稚に見えることか。中身の話ではない、外観だ。子どもや孫の世代が、堂々と物事を解説してくれる。喜ぶべきなのだろうな、と自分に言い聞かせる毎日だ。