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by sasakitosio

米騒動と新聞の役割 <1918(大正7)年7月、富山県の魚津や滑川など日本海沿岸の漁村に住む女性たちが、米穀商などに押しかけ、コメの船積みをやめ、安く売るよう求めて声を上げた!「女一揆」だ!!>

8月12日付東京新聞朝刊社説に、「米騒動と新聞」のことが載った。

 今日はこの社説に学ぶことにした。

 まず社説は、「明治150年の今年は「米騒動」から百年の節目でもあります。富山県で始まり、内閣を退陣に追い込んだ大衆運動に、新聞が果たした役割を考えます。

 1918(大正7)年7月のことでした。

 富山県の魚津や滑川など日本海沿岸の漁村に住む女性たちが、米穀商などに押しかけ、コメの船積みをやめ、安く売るよう求めて、声を上げました。

 米価は、日本軍のシベリア出兵を見越した米穀商の投機的買占めや売り惜しみで急騰。、男性たちが出稼ぎで向かった北洋は不漁で残された女性たちは生活難に陥っていました。

「女一揆」と呼ばれた米騒動の始まりです。」と切り出した。

 続けて社説は、「この動きをまず報じたのは地元紙の「高岡新報」でした。続いて大阪朝日、大阪毎日、が伝えて、全国に発信されたのです。

 新聞報道とともに騒ぎは西日本中心に全国368市町村に広がります。

 工場や農村、炭鉱地帯で争議や暴動が起こり、示威行動は一カ月半以上も続きました。

 名古屋で延べ数万人が暴動に加わり、東京・日比谷公園では数百人の人々が騒動を起こしています。

 こうした動きに危機感を覚えたのが当時の寺内内閣でした。

 民心をなだめようと外米の緊急輸入や白米の廉売政策で米価の安定を図るとともに、救済のために天皇家や財閥、富豪などから寄付金を募ります。

 一方、騒乱鎮圧には警官隊に加え、軍隊も出動させました。2万5千人以上を検挙、7700人以上を起訴し、死刑2人、無期懲役12人など、厳罰で臨みます。

 寺内内閣は、騒動を報じる新聞にも圧力をかけます。

 8月7日付の高岡新報を発禁処分としたのに続き、14日には水野錬太郎内相が全国の新聞に対して、米騒動の報道を一切禁じます。」と教えてくれた。

 さらに社説は、「これに激しく憤ったのが、当時の新聞記者たちでした。

 本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ、名古屋新聞の小林橘川(のちの名古屋市長)は米騒動を「米価内乱」と位置づけ、寺内内閣の一連の措置を批判。「無能、無知、無定見の政府」に一刻も早い退陣を迫りました。

 もう一つの前身、新愛知新聞で編集、論説の総責任者である主筆の桐生悠々も筆を執り、8月16日付新愛知朝刊は「新聞紙の食糧攻め、起てよ全国の新聞!」との見出しの社説を掲載します。

 「現内閣の如く無知無能なる内閣はなかった。彼らは米価の暴騰がいかに国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的な救済法を講ぜず」「食料騒擾の責を一にこれが報道の責めに任じつつある新聞紙に嫁し」「今や私どもは現内閣を仆さずんば、私ども自身がまず仆れねばならぬ」

 悠々は寺内内閣の打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。

 8月20日には愛知、岐阜、三重三県の新聞、通信各社の記者に呼びかけて、名古屋市内で「東海新聞記者大会」を開き、内閣打倒と憲政擁護、言論の自由を決議しました。

 悠々の社説に呼応するかのように、内閣弾劾の動きは大阪や東京などにも広がり、報道禁止令は実質的に撤回されました。

 寺内首相は9月21日辞表を提出し、次に組閣を命じられたのは原敬です。爵位を持たない平民宰相、初の本格的な政党内閣の誕生です。

 米騒動の始まりは女性たちの非暴力的な抗議行動でした。

全国に広がるにつれて一部暴徒化しましたが、背景にあったのは第一次世界大戦による好景気を実感できず格差に苦しむ民衆の不満です。

 戦後、首相の座に就いた石橋湛山は当時、米騒動に関し、東洋経済新報の社説で「政府がその第一任務たる国民全体の生活を擁護せずしてかえってこれを脅かしこれを不安に陥れた」と時の寺内内閣を厳しく批判し、一連の騒動について「時の政治機能が旧式、不適、行き詰まりに陥れば、イツでも必然的に起こらねばならぬ重大なる性質、深甚なる意味を有する」と分析します。(「石橋湛山評論集」岩波文庫)」と教えてくれる。

 最後に社説は、「米騒動は、人々の不満がジャーナリズムと結びついて、時代の歯車を大きく動かした大衆運動でした。

 後に、「大正デモクラシー」と呼ばれる動きの中心的な出来事であり、納税額に関係なく選挙権の獲得を目指す「普通選挙運動」にも勢いを付けました。

 それから戦争の時代をはさんで百年が経過し、私たちは今、政権に批判的な新聞との対決姿勢を強める安倍晋三政権と向き合います。

 成長重視の経済政策で一部のものだけが富み、格差が広がる時代状況は米騒動当時と重なります。そうしたとき、私たち新聞は権力におもねることなく、国民の声を伝え続けなければなりません。その覚悟も問われる米騒動百年です。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「この動きをまず報じたのは地元紙「高岡新報」でした。続いて大阪朝日、大阪毎日両新聞が伝えて全国に発信された」とのこと、

 「新聞報道と共に騒ぎは西日本を中心に全国368市町村に広がります。工場や農村、炭鉱地帯で争議や暴動がおこり、示威行動は一カ月半以上も続きました。」とのこと、

 「名古屋では延べ数万人が暴動に加わり、東京・日比谷公園では数百人の人々が騒動を起こしています」とのこと、

 政府は「騒乱鎮圧に警官隊に加え、軍隊も出動させました。2万5千人以上を検挙し、7千7百人以上を起訴し、死刑2人、無期懲役12人など、厳罰で臨みます」とのこと、

 「寺内内閣は、騒動を報じる新聞にも圧力をかけます。8月7日付の高岡新報を発禁処分としたのに続き、14日には水野錬太郎内相が全国の新聞に対して、米騒動の報道を一切禁じます」とのこと、

 「名古屋新聞の小林橘川(のちの名古屋市長)は米騒動を「米価内乱」と位置づけ、寺内な一交を批判。「無能、無知、無定見の政府」に一刻も早い退陣を迫りました」とのこと、

 「愛知新聞で編集、論説の総責任者である主筆の桐生悠々も筆を執り、8月16日付新愛知朝刊は「新聞紙の食糧攻め、起てよ全国の新聞紙!」との見出しの社説を掲載します。

 「現内閣の如く無知無能なる内閣はなかった。彼らは米価の暴騰がいかに国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的の救済法を講ぜず」

「食料騒擾の責めを一にこれが報道の責めに任じつつある新聞紙に嫁し」

「今や私どもは現内閣を仆さずんば、私ども自身がまず仆れねばならぬ」」とのこと、

 「悠々は寺内内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。8月20日には愛知、岐阜、三重三県の新聞、通信各社の記者に呼びかけて、名古屋市内で「東海新聞記者大会」を開き、内閣打倒と憲政擁護、言論の自由を決議しました」とのこと、

 「悠々の社説に呼応するかのように、内閣弾劾の動きは大阪や東京などにも広がり、報道禁止令は実質的に撤回されました。」とのこと、

「寺内首相はは9月21日辞表を提出し次に組閣を命じられたのが原敬です」とのこと、

 「石橋湛山は当時、米騒動に関し、東洋経済新報の社説で「政府がその第一任務たる国民全体の生活を擁護せずしてかえってこれを脅かしこれを不安に陥れた」と、時の寺内内閣を厳しく批判し、一連の騒動について「時の政治機能が旧式、不適、行き詰まりに陥れば、イツでも必然的に起こらなければならぬ重大な性質、深甚なる意味を有する」と分析します(「石橋湛山評論集」岩波文庫)」とのこと、

 等々たくさんたくさん教えてもらった。

 改めて、米騒動は第一次世界大戦の最中であったことを知った。

 そして、桐生悠々という人物の識見と度胸の良さを知った。

社説は「成長重視の政策で一部のものだけが富、格差が広がる時代状況は米騒動当時と重なります」と指摘する。その指摘が当たっていると思うが、いまだ平成の「桐生悠々」の姿が見えないのはなぜか?

 現憲法下では報道禁止令は出されず、また大手の御用新聞もこれあり、世界に戦争もなく、当時とは社会の緊張状態が全く違うからか?

 はたまた、戦後の平和な70余年のなかで、相対的に国民生活が豊かになったのか、戦前に比べて社会保障・社会保険等国民生活の安全装置が出来たせいか、いま、国民は怒らなくなったような、気がする。

 


by sasakitosio | 2018-08-13 07:30 | 東京新聞を読んで | Trackback