憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

面会拒むオウム・浅原死刑囚 罪と向き合う時間を< 麻原死刑囚は10年近く誰とも面会に応じていない!戦後最大級の事件の首謀者の精神状態は長い間、ブラックボックスの中にある!!!>

 2月16日付東京新聞朝刊4面に、「視点」という欄がある。筆者は、瀬口晴義氏だ。

 今日はこの筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「目の前で突然、両手をぱちんとたたかれたら、大抵の人は驚くか、怒り出すだろう。

 実際にやってみた人がいる。

 作家の加賀乙彦さん(88)が2006年、オウム真理教元代表麻原彰晃=松本智津夫=死刑囚(62)と接見した時のことだ。

 アクリル板をはさんだ約30分間の接見の間,車いすに座った麻原死刑囚はどんな質問にも反応せず無表情で、せわしく体をこすっていた。20分くらいたった時だった、加賀さんが突然パンッと手をたたいてみた。

 8畳ほどの広さの部屋で良く響き、看守も同席した弁護士もびっくりして体を震わせたが、麻原死刑囚は反応を示さなかったという。

 精神科医の加賀さんは若い時、東京拘置所で2年ほど医官を務めた。その時の経験を基に、死刑囚の心理を克明に描いた傑作小説が「宣告」だ。

 拘禁反応(自由を奪われた環境によるストレスに起因する人格反応)の患者76人を診察。

 その経験から昏迷状態だった4人と状態はそっくりだと感じたという。

 カエルなどが危機に遭遇したときに死んだまねをするような一種の反射を意味する医学用語だ。

 04年2月の一審の死刑判決後、後退した弁護団は、意思疎通できないことを理由に訴訟能力はないとして公判停止を求めた。東京高裁が依頼した精神科医は訴訟能力は失っていないという結論を出した。

 弁護側はその検証のために6人の精神科医に面会を依頼、加賀さんもその一人だった。

 麻原死刑囚の裁判は、弁護側が期限内に控訴審趣意書を提出しなかったことを理由に、二審の審理に入る前に打ち切られた。

 極めて異例のな展開だった。

 「(混迷状態)の4人は精神科病院に移したら治った。(麻原死刑囚も)場所を移して治療すれば、3日で治るかもしれない。」

 加賀さんが治療の必要性を感じた時から、すでに10年以上の年月が過ぎた。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「地下鉄サリン事件の送迎役を務め、殺人罪などに問われた高橋克也被告の上告が棄却され、オウム事件の裁判は終結した。

 極刑が確定した麻原死刑囚ら13人の死刑執行に注目が集まる。

 1996年5月、東京拘置所で開かれた破壊活動防止法の弁明手続きで、麻原死刑囚が「絶好の瞑想の機会を得ている」と豪語した姿を思い出す。その麻原死刑囚は10年近く誰とも面会に応じていない。戦後最大級の事件の首謀者の精神状態は長い間、ブラックボックスの中にある。

 遺族の気持ちを考えると、難しいかもしれないが、罪と向き合わせるため、麻原死刑囚に治療を施し正気をとりもどさせる時間を与えることは一考に値しないだろうか。

 「殉教者」に祭り上げさせないためにも。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「作家の加賀乙彦さん(88)が2006年、オウム真理教元代表麻原彰晃=本名・松本智津夫=死刑囚(62)と接見した」とのこと、

 「アクリル板をはさんだ約30分間の接見の間、車いすに座った麻原死刑囚はどんな質問にも反応せず無表情で、せわしく体をこすっていた。」とのこと、

 「20分ぐらいたった時だった。加賀さんは突然パンッと手をたたいてみた。

 八畳ほどの広さの部屋で良く響き、看守も同席した弁護士もびっくりして体を震わせたが、麻原死刑囚は反応を示さなかった」とのこと、

 等々麻原死刑囚の様子を知ることが出来た。

 「精神科医の加賀さんは若いとき、東京拘置所で2年ほど医官を務めた。その時の経験を基に、死刑囚の心理を克明に描いた傑作小説は「宣告」だ」とのこと、

 「拘禁反応(自由を奪われた環境によるストレスに起因する人格反応)の患者76人を診察。その経験から昏迷状態だった4人と状態はそっくりだと感じた」とのこと、

 「昏迷とは、カエルなどが危機に遭遇した時に死んだまねをするような一種の反射を意味する医学用語だ」とのこと、

 「混迷状態の4人は精神科病院に移したら治った。(麻原死刑囚も)場所を移して治療すれば、三日で治ることもあるかもしれない」。加賀さんが治療の必要性を感じた時から、10年以上の年月が過ぎた」とのこと、等々も初めて知ることができた。
 筆者は、「罪と向き合わせるため、麻原死刑囚に治療を施し正気を取り戻させる時間を与えることは一考に値しないだろうか」と提案している。麻原死刑囚が正気に戻るかどうか、正気に戻って罪と向き合うだろうか、等々不確定の要素はあるが「治療とその結果」を見てみたいとは思った。

 ただ、エルサレムを訪ね、ユダヤ教、イスラム教の聖地を訪ね、ブッタガヤを訪ね、ソクラテスのアテネを訪ね、孔子の曲阜を訪ね、その結果私なりの気づきは、手を合わす「対象」は違っても、真摯な「祈る姿」は共通であった。

いま、宗教とは何か、死刑判決とはなにか、根本的に考えなければならない時期に来ているのかもしれない、と思った。

 

 

 


[PR]
トラックバックURL : https://sasakitosi.exblog.jp/tb/26514293
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by sasakitosio | 2018-02-24 15:20 | 東京新聞を読んで | Trackback