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憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

「圧政撲滅」権力に声を上げるとき <「権力者は自分たちに都合のいいように歴史を書いていく!それを私たちがあきらめるか反抗するか!今は権力監視の新聞があり、日本国憲法も選挙も住民投票もある!!>

7月27日付朝日新聞社説下に、「ザ・コラム」という欄がある。筆者は、編集委員・駒野剛氏だ。

 今日はこの筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「7月初旬、ソバ畑は可憐な白い花が咲き競っていた。会津盆地北西に位置する福島県喜多方市を訪ねた。

 江戸期から明治初頭にかけて、侍の町、会津若松に対し、周辺の農産物の流通や隣県・越後(新潟県)との交易を担う商都として発展。

 いまも市街地を水田や畑が囲む商と農の地だ。

 そんな穏やかな風景の所々に「自由万歳圧政撲滅」の幟が上がり、闘いの嵐が吹き荒れた時がある。

 明治15(1882)年、旧薩摩藩士、三島通庸が現在の知事に当たる福島県令に赴任してからである。

 「土木県令」の異名を持ち、道路や大型施設の建設を熱心に進めた。特に道路の建設を熱心に進めた。特に道路は経済発展の起爆剤だけでなく時代の変化を住民に示す役割を期待した。

 会津若松を中心に日光(栃木県)、新潟、米沢(山形県)3方面に延びる「三方道路」を打ち出す。

 費用の集め方が乱暴で強権的だった。

 会津地方6郡の住民15歳以上60歳以下の男女に、毎月1日間、2年にわたり道路建設につくことを求め、できないなら男は1日15銭、女は10𥒎の「代夫銭」を治めよ、と定めた。

 そればかりか、工事開始前にも3か月分の「代夫銭」の負担を命じた。

 米一升で5銭前後の当時、夫婦で75銭は重い。路線から遠い住民から反対の声があがった。

 赴任の翌月、三島は「集会届」を厳達。

 政治談議でない集まりも禁じた。

 政府も「集会条例」を改定、政党員の舞簿提出を義務付け、地方支部の設置を禁止した。

 福島の自由民権運動の拠点、自由党福嶋支部は解消を余儀なくされる。聞く耳持たずの弾圧に、民衆は反発の火種を炎上させる。」と切り出した。

 続けて筆者は、「市北部の久山寺に行く。

 史跡案内は「会津各村の総代74名が日没ころから会合し、自分たちの権利を恢復し、幸福を保全することを盟約」「同盟に加わった4083名には、一人10銭づつ拠出を決め」「民意を無視して強行されつつある三方道路の開削を訴訟で覆そうとはかった」と記す。

 集会届をかいくぐって集まった人たちの怒りと熱気が、今も伝わる。

 元県立高校教諭で自由民権運動の研究家、山崎四朗さん(76)は「寺は住民が集まって話し合う場所でした。会津盆地の東西南北から代表が来ました」と話す。

 三島は反対派住民を拘束させ、代夫銭を拒む家の財産を差し押さえ競売にかけた。

 農民らは警察に財産保護願を出して抵抗したが、逆に誣告罪で告発される始末。

 11月28日、捉えられた農民を心配した人々が、逮捕の理由を問いただそうと、喜多方の南、弾正ケ原にに集結。

 警察に向かうが、何者かの投石をきっかけに抜刀した警官が農民を襲い、暴力沙汰になる。

 事件を聞いた三島は「官民乱暴セシニツイテハ好機会故、関係ノモノ総テ捕縛セヨ」と指令。和解や説得の余地はなかった。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「三島と農民との対立の構図はその後も続く。

 三浦文次、横山信六、原利八の喜多方農民を含む急進的活動家たちは、三島ら政府要人をの暗殺を計画して途中で露見。

 明治17年9月、茨城県の加波山で武装蜂起するが逮捕される。

 三浦、横山は死刑、原も北海道空知の囚人収容施設で獄死する。

 喜多方市熱塩加納町の曹洞宗示現寺の境内には「事件の意義と自由の魁となった志士たちの遺徳や業績を偲び、今後の国づくりや地域づくりへの情熱が呼び起こされることを祈念」して、地元の有志が建てた彼ら3人の顕彰墓が残されている。

 彼らの遺族の一人にお会いした。

 仏間に志士の写真が掲げられていた。

 「権力者は自分たちの都合のいいように歴史を書いていく。それを私らがあきらめるか、反抗するか。自分にできるかどうかわからないが、いいところもあった彼らの思いや行いを、語り継いでいかなければならないと思います」と、静かだが確かな口調で話された。

 私たちは、先人が理不尽な権力、強圧的な政治でも、ずっと従順に服してきたと思いがちだ。

 しかし、最初から敵視し、人として尊重しない相手には、屈せず、抗い闘った民衆がいたことを忘れてはならない。

 真っ当な批判もきちんと受け止めず、逆に「印象操作」と言いつのる権力者と三島がダブって見える。

 私たち、とりわけ新聞人はいまこそ、勇気を奮って、「ならぬものはならぬ」と声を上げるときである。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。 

 筆者は「7月初旬。ソバ畑は可憐な白い花が咲き誇っていた。会津盆地北西に位置する福島県喜多方市を訪ねた」とのこと、

「穏やかな風景の所々に「自由万才 圧政撲滅」の幟があがり、闘いの嵐が吹き荒れた時があった。明治15年(1882)年、旧薩摩藩士三島通庸が現在の知事に当たる福島県令に赴任してからのである」とのこと、

 筆者は「市北部の久山寺に行く。史跡案内は「会津各村の総代74名が日没ごろから会合して、自分達の権利を恢復し、幸福を保全する盟約」「同盟に加わった4083名には、一人10銭づつ拠出を決め」「民意を無視して強行されつつある三方道路の開削を訴訟で覆そうとはかった」と記す」とのこと、

 「三島は反対派住民を拘束させ、代夫銭を拒む家の財産を差し押さえ競売にかけた。農民らは警察に財産保護願を出して抵抗したが、逆に誣告罪で告発される始末。」とのこと、

 「三島と農民との対立の構図はその後も続く。

 三浦文次、横山信六、原利八の喜多方農民を含む急進的な活動家たちは、三島ら政府要人の暗殺を計画して途中で露見。明治17年9月、茨城県の加波山で武装蜂起するが逮捕される。 三浦、横山は死刑、原も北海道空知の囚人収容所で獄死する」とのこと、

 「喜多方市熱塩町の曹洞宗示現寺の境内には「事件の意義と自由の魁となった志士たちの遺徳や業績を偲び、今後の国づくりや地域づくりへの情熱が呼び起こされることを祈念」して、地元の有志が建てた彼ら3人の顕彰碑が残されている」とのこと、等々を知ることができた。

 またまた、知らなかったことで、知っておくべきこと、の一つを教えてもらった。

 いまは、日本国憲法の下で、基本的人権が守られている。新聞も朝日、毎日、東京等々、権力監視を怠らない新聞社がある。

 普通選挙もある、国民投票もある。デモもできる、国会前での集会もできる。多数の国民がその気にさえなれば、内閣はいつでも変えられる時代だ!!

 

 

 


by sasakitosio | 2017-08-02 06:41 | 朝日新聞を読んで | Trackback