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by sasakitosio

伊方原発再稼働 <73年提訴・93年最高裁敗訴。今年3月「大津地裁の運転停止の決定」へと結実!!>

 8月18日付朝日新聞社説下に、「「ザ・コラム」という欄がある。今日の筆者は、編集委員・上田俊英氏だ。
 きょうはこの筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「朝のうちから夏の日差しが照りつけていた。
 11日、愛媛県伊方町。穏やかな瀬戸内の海が眼前に広がる四国電力伊方原発のゲート前に、斎間淳子さん(72)はいた。
 三号機の再稼働反対を訴えるためだ。
 伊方の隣の八幡浜市で生まれ、夫で地域紙を発行する満さん(2006年死去)と原発反対運動を続けてきた。兄が4電にいて運動と距離を置いた時期もあったが、1981年に伊方沖で魚の大量死発生。県の調査グループは放射能の影響を否定したものの、純子さんは恐怖を感じた。
 「海に浮いている魚を見て、わが子のように思ったんよ。子どもや孫が帰るところがなくなってしまう」。
 11年3月11日、不安は福島で現実になる。
 東京電力福島第一原発事故からほどなく毎月11日に、ゲート前で座り込むようになった。
 「反対の声を上げんといかん。そうすれば4電もむちゃくちゃをようせんようになる」という思いからだ。
 最初の座り込みは、自らが88年につくった「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」のメンバーと2人。
 それが3号機の再稼働を翌日に控えたこの日、全国から集まった人たちは80人ほどはいただろう。
 その輪の中で淳子さんは訴えた。「子どもの命を、誰が守ってくれるんですか」」と切り出した。
 つづけて筆者は、「伊方で原発の建設計画が表面化したのは69年。激しい反対運動のなか、8年後の77年に最初の1号機が運転を始める。そして、94年までに3基の原発が並んだ。
 淳子さんの夫の満さんは新聞記者として、当初から取材にあたった。満さんは著書「原発の来た町/原発はこうして建てられた/伊方原発の30年」に記す。
 「原発は決して伊方を豊かにはしなかった。道路や建物は立派になったが、人々の心は傷つき、人間の信頼は失われた」
 それは、まさに今の福島の被災地の姿だ。
 第一原発周辺の広大な避難指示区域。
 人々は分断され、心は傷ついたままだ。
 伊方の反対運動は73年、原発の安全性を争う日本で最初の裁判へ発展する。
 住民が1号機について国の設置許可の取り消しを求めて最高裁まで争い、92年に敗訴が確定した。
 しかし、この裁判は、反対運動に、今につながる道を切り開いていた。
 伊方の最高裁判決は次のように述べた。
 原発の設置許可の判断に不合理な点があるという主張や立証に責任は「本来、原告(住民)だ負うべきだが」原発の安全審査に関する資料を全て国側が持っている点などを考えると、国側に「判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張・立証する責任があり」、それを尽くさなければ「判断に不合理な点があることが事実上推認される」。
 関西電力高浜原発3.4号機(福井県)をめぐり滋賀県の住民が大津地裁に再稼働の差し止めの仮処分を求めた裁判で、地裁が今年3月にだした運転停止の決定もこの最高裁判決を引用した。
 被告が電力会社の場合も原発の安全を立証する責任は電力会社側にあり、関電がそれを尽くしていないなどとして、住民の申し立てを認めた。
 伊方3号機は12日、予定通りに再稼働した。反対する住民は広島、松山、大分の3地裁にそれぞれ運転停止の仮処分を申請。
 いま、司法の力での運転停止を目指す。」と指摘した。
 最後に筆者は、「伊方原発は愛媛の西の針のように突き出た佐多岬半島の付け根にある。
 事故の際、避難の「命綱」となる幹線道路は、半島を貫く国道197号と、そこから分かれて瀬戸内海沿いを走る378号だけである。
 原発を離れて378号を東に向かうとほどなく私が生まれた集落に着く。人口450余。避難路はこの国道1本だ。 道は片側が海、反対側は崖。
 かっては幅が狭く、ガードレールもまばらで「酷道」と呼ばれた。集落の2キロほど東には60年前に路線バスが海に転落し、9人が亡くなったことを伝える「慰霊碑」も立つ。
 集落で知人を見かけた。「事故があったらどう逃げる」と尋ねたら、「みんなあきらめとる」。
 現実かもしれないが、それでは困るので、と言った。
 「なんか声を上げんといかん」。道はその先に開かれる。」として締めくくった。
 読んで凄いなあと思った。
 伊方の隣の八幡浜市で生まれ育った「斉藤淳子さん(72)」が、東日本大震災の「月命日」の毎月11に、ゲート前に座りこむようになった、ことを初めて知った。
 淳子さんの夫の満さんの著書「原発の来た町/原発はこうして建てられた/伊方原発30年」があることも、初めて知った。
 同じ年代で、この活動とその継続に、すごいなあと感じた。
 そして、伊方の反対運動は73年原発の安全性を争う日本で最初の裁判へ発展し、住民が1号機にについて国の設置許可の取り消しを求めて最高裁まで争い92年に敗訴が確定したとのこと。
 伊方の最高裁判決は次のように述べた。
 「原発の設置許可の判断に不合理な点があるという主張や立証の責任は「本来、原告(住民)が負うべき」だが、原発の安全審査に関する資料をすべて国側が持っている点を考えると、国側に「判断の不合理な点のないことを相当な根拠、資料に基づき主張、立証する責任があり」、それを尽くさなければ「判断に不合理な点があることが事実上推認される」。
 16年も前の判決だが、この判決は、画期的な判決だと思った。
 原発が安全だという「基準」づくりも、「判断」も全てが、「原子力ムラ」の中で決まっていた。それを逆手にとって、挙証責任を国側に追わせ、その合理性を原子力ムラの外にある「司法」が納得できなければ、「判断に不合理な点があると事実上推認される」とした。
 日本国憲法の三権分立が生かされたことを、司法が独立していることを、初めて感じた。
 「反対する住民は広島、松山、大分の3地裁にそれぞれ運転停止の仮処分を申請」とのことであるが、伊方の最高裁の「主張・立証の責任」にたいする判断は、原告側の負担を軽くし、いままで無責任できた被告側の負担を乗数的に大きくしたことは間違いない。
 司法の力で、伊方原発の運転停止の見通しは限りなく明るくなったような気がした。
 
 
by sasakitosio | 2016-08-21 16:29 | 朝日新聞を読んで | Trackback