未来のリスク 「都合の悪いこと」を語ろう <地震と国のシステミック・リスクを!!>
2016年 05月 24日
まず筆者は、「前回のコラムで、「ここのところ個人へのバッシングが目立つが、その陰で私たちは、より大きな問題から逃げていないか」と問いかけた。
その原稿が確定した直後、熊本で大きな地震が発生した。まさに地震は「より大きな問題」の典型であろう。49人もの尊い命が奪われ、いまだに一人の若者の行方が分からない。1カ月あまりが経過した現在も、約1万人が避難所で生活を続けている。災害はいまだ進行形であり、被災者の視点にたった支援を、国全体で粘り強く続けていく必要があるだろう。
一方、今回の地震では、これまでにない特徴も目立つ。まず、本震と思われた14日の地震の28時間後に、さらに大きな地震が襲ったことだ。
2月の本コラムでも予知の難しさに触れたが、一つの地震が起きた後の経過を予測することは、一種の地震予知である。普通は徐々に余震の規模が小さくなりが、今回は経験則と一致しなかった。
又強い揺れが立て続けに起こったことで、最初の地震には耐えたが、二度目で倒壊した建築物もあった。防災上、大きな課題を残したといえるだろう。」と切り出した。
続けて筆者は、「依然として、私たちは地震について知らないことが多々ある。だがはっきりしていることもある。
まず、地球上で地震の発生する場所には大きな偏りがあり、日本は世界有数の「地震の巣」であること、これは日本列島が存在する限り、残念ながら今後も変わることはない。
また地震の被害は、人間の社会と自然現象の相互作用で決まるという点も間違いないことだ。
たとえば、今回の熊本地震と21年前の阪神大震災は、本震のエネルギーはほぼ同じで、どちらも最大深度7を記録している。
しかし、犠牲者の数は100倍以上の開きがあった。
これはさまざまな要因が関わっていると考えられるが、少なくとも人口密度が大きなファクターであるのは確かだ。
日本では三大都市圏に人口が集まり、とりわけ首都圏への集中が著しい。
しかし、いずれは首都圏にも巨大地震が襲うだろう。さまざまなシュミレーションもあるが、今回の地震のように経験則を逸脱した事態が起これば、「想定外」の巨大な被害が出る可能性も十分ある。
緊密の結び付いた金融システムにおいて、その一部の機関などに機能不全がおこり、金融システム全体に悪影響が広がることを経済用語で「システミック・リスク」と呼ぶ。
それと同様に、これだけ大規模で複雑化した首都圏が、大地震によって一定以上のダメージを受けた場合、社会システム全体で複雑な連鎖反応が生じるだろう。
場合によっては、世界中を巻き込む巨大なインパクトとなるかもしれない。どれだけ多くの命と富が失われるか。想像するだけで恐ろしい。
この議論に対し、少し不快な気分になった読者も居られるかもしれない。
「そんなことを言ったって、どうしょうもないだろう」、そういう声も聞こえてきそうだ。
確かに解決は容易ではない。」と指摘した。
さらに筆者は、「ここで少し異なる角度から考えてみよう。一般に不吉な未来について語ることを、好まない人は多い。
だがそれはもしかすると、「言霊思想」の影響かもしれない。
これは、かってどの文化圏にも見られたものだが、要するに「言葉にすると、それが現実に起こる」という信念である。現在の欧米では、この種の考え方はほとんど見られない。その理由はおそらく、他の呪術的な要素とともに、言霊思想もキリスト教によっていわば「漂白」され、その土台の上に西洋近代社会が構築されたためであろう。
さて、この信念が共有されている社会において 、未来リスクについて語ることは、別の意味で「危うい」行為となる。
なぜなら、リスクを語る者は、「リスクをもたらそうとしている」とみなされるからだ。
もちろん、多くの現代人はそんな迷信めいたことは考えいないと自認しているだろう。
それでも、「縁起でもないことを言うな」と私たちが告げる時、ある種の言霊思想的な圧力の影響下にあると考えられないか。だとすれば、社会がリスクと向きあう上で、それが障害となっている可能性は否定できない。
問題を認識しながら対処ができず追い込まれる企業も多いが、「都合の悪いことは口に出せない」と言う思想の影響もあるかもしれない。
わたしたちの生きるこの「近代」と言う時代は、科学の知によって未来を予測し、それに基づく技術によって諸課題を解決してきた。
その達成は目を見張るものがあった。
しかし、「出来るこ」とが増えれば増えるほど、「出来ないこと」が目立ってくるものだ。
地震は、近代の成功物語からこぼれ落ちた難問であろう。そのような厳しい現実を前にした時、近代以前から続く古い心性が、不意に頭をもたげてくることはないか。
実際、私たちの社会につい最近まで、首都を移転するつもりでいた。
1992年には「国会等の移転に関する法律」が成立し、候補地も選定などが動きだしたのだ。
しかしいつの間にかその勢いは衰え、東日本大震災を経験したにもかかわらず、事実上、東京一極集中は続いている。
首都機能の分散化は、政治的にも経済的にも困難な課題であることは確かだ。
しかし日本列島が地殻の活動期に入ったと考える専門家も少なくない。
巨大リスクから目をそらさない健全な理性を、私たちの社会が備えているか。今まさにそのことが試されている。」として締めくくった。
読んで勉強になった。
「地球上で地震の発生する場所には大きな隔たりがあり、日本は世界有数の「地震の巣」であること。これは日本列島が存在する限り、残念ながら今後も変わることはない」との指摘、
「地震の被害は、人間の社会と自然現象の相互作用で決まる」との指摘、
「これだけ大規模で複雑化した首都圏が、大地震によって一定以上のダメージを受けた場合、社会システム全体で複雑な連鎖反応が生じるだろう。場合によっては世界中を巻き込む巨大なインパクトになるかもしれない」との指摘、
等々は理解し納得した。
確かに、「私たちの社会はつい最近まで、首都圏を移転するつもりでいた」が、いつの間にか沙汰やみになっている。忘却とは忘れ去ることなりを、国ぐるみ社会ぐるみで、実践しているようだ?
また、「言霊思想」というのは、「言葉にすると、それが現実に起こる」ということも教えてもらった。その延長線上に、「願い事は願い続けることによって必ず実現する」という、「念力思想」なんてあってもいいのではないか、と思った。