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by sasakitosio

理論的、概念的枠組み「21世紀の資本」学習ノート⑮

 はじめにの中、33頁の「理論的、概念的な枠組み」について学習することにした。
 筆者は、「先に進む前に、この研究の理論的、概念的な枠組みについてもう少し述べると同時に、私が本書を書くにいたった知的道のりについて触れておこう。
 私の属する世代は、1989年に18歳になった。この年はフランス革命200周年というだけでなく、ベルリンの壁崩壊の年である。
 私の属する世代は、共産主義独裁体制の崩壊のニュースを聞きながら成人して、そうした政権やソ連に対していささかの親近感もノスタルジアも感じたことはない。反資本主義を謳う、伝統的な怠惰なレトリックに対しては生涯にわたる免疫ができている。そうしたレトリックの一部は、共産主義の歴史的失敗をあっさり無視していたし、その大半はそれを超えて議論を進めるのに必要な知的手段に背を向けていた。格差や資本主義の糾弾をそれ自体を自己目的化する気は全くないーーー特に社会的格差は、正当なものなら、それ自体としては問題ないのだから。つまりその格差が、1789年人権宣言第一条にいうように「共同の利益に基づくもの」であればかまわない。(この社会正義の定義は魅惑的ながら厳密ではないが、歴史に根ざしたものではある。今のところはそのまま受け入れておこう。この点についてはまた後で触れる)。だが一方で、私は社会を組織する最高の方法や、公正な社会秩序実現のために最も適切な制度や政策をめぐる論争に、微力ながらも貢献したいと思っている。さらに私は、正義が有効かつ効率よく法治の下で実現されるのを見たい。その法治は万人に平等に適用され、民主的な論争に基づく普遍的に理解された規則から導かれたものであってほしい。
 わたしがアメリカンドリームを22歳で体験したということもつけ加えておこうか。博士課程を終えた直後に、ボストン近郊の大学に雇われたのだ。この体験は、ひとかたならぬ形で決定的なものとなった。米国に来たのは初めてだったし、自分の研究がこんなにすぐに認知されたのはいい気分だった。これぞ望みどおりに移民をひきつける方法をわきまえた国だ!だがかなりすぐに、自分がフランスとヨーロッパに戻りたいことにも気が付くことになり、25歳で帰国した。その後は、短い旅行を除けばパリを離れたことはない。この選択を行った重要な理由は、本書にも直接関係したものだ。米国の経済学者たちによる研究に、完全には納得できなかったのだ。たしかにみんなすごく知的だったし、当時からの友人はたくさんいる。でも何か奇妙なことが起こったのだ。私は自分が世界の経済問題について何も知らないことを痛いほど思い知ったのだ。私の博士論文は、いくつかのかなり抽象的な数学理論についてのものだった。
 それなのにこの業界は私の仕事を気に入ったのだ。私はすぐに、クズネッツ以来、格差の動学に関する歴史的データを集めようという大きな試みがまあったく行われていないことに気がついた。それなのに経済学会は、どんな事実をせつめいすべきかさえ知らないくせに、純粋理論的な結果を次々に吐き出し続けていた。そして私にもそうするよう期待していた。フランスに戻ったとき、私はこの欠けているデータの収集に乗り出したのだった。
 率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー的偏向を伴った憶測だのにたいするガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究や他の社会学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学もんだいにばかり没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるためにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題に答えずにすませているだ。フランスで経済学者をよると大きな長所がひとつある。ここでは、経済学者は学術界でも知的な世界でも、政治や金融エリートたちによっても、さほど尊重されない。だから経済学者も他の学問分野への侮蔑や、自分たちの方が科学的正当性が高いなどという馬鹿げた主張を抑えねばならない。
 実をいえば経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。いずれにしても、それこそが経済学、さらに社会科学一般の魅力なのだ。みんな振り出しから始めるので、おおきな進歩を実現する希望が少しはある。フランスでは、経済学者は自分たちがやっていることがおもしろいのだということについて、歴史学者や社会学者を説得しようと少しは努力するし、また学問業界以外の人も納得させようという努力が少しはある。(必ずしも成功するとは限らないのだが)。私がボストンで教えていたときの夢は、パリの社会科学高等研究院で教えることだった。その教授陣には、リュシアン・フェーヴル、フェルナン・ブローデル、クロード・レヴィ=ストロース、ピエール・ブルデュー、フランソワ・エルティエ、モーリス・ゴドリエをはじめとする導きの光りが多数存在していた。こんなことを言うと、社会科学の面でナショナリズム的に見られかねないのだが、あえて認めてしまおう。私はたぶん、ロバート・ソローやサイモン・クズネッツと比べてすら、こうした学者のほうをもっと崇拝しているのだ。とはいううものの、社会科学がおおむね富の分配や社会階級の問題について、1970年代以降はほとんど関心さえ失ってしまったという事実は残念だと思っている。1970年代以前は、所得、賃金、物価、富に関する統計は、歴史研究や社会学研究で重要な役割を果たしていたのに。いずれにしても、あらゆる分野の専門的な社会科学者たちやアマチュアたちが、本書で何かしらおもしろい部分を見つけてくれることを願いたい。中でも、「「経済学については何も知らない」と言いつつも、所得や富の格差について極めて強い見解を持っている人々(そうした見解を持つのは自然なことだ)には特に読んでほしい。
 本当のことを言えば、経済学は他の社会科学と自分を切り離そうなどとは決して思うべきではなかったし、経済学が進歩するには他の社会科学と連携するしかないのだ。社会科学全体として、くだらない縄張り争いなどで時間を無駄にできるほど知識など得られてはいない。富の配分や社会階級の構造の歴史的動学についての理解を深めたいならば、当然ながら現実的なアプローチを採って、経済学者だけでなく、歴史学者、社会学者、政治学者の手法も活用すべきだ。根本的な問題から出発してそれに答えようとすべきだ。分野同士の競争や縄張り争いは、ほとんど何の意義もない。私から見れば、本書は経済学の本であるのと同じくらい歴史研究でもある。
 すでに説明した通り、本書はそもそも所得や富の分配に関連した歴史的な情報源を集め、時系列データを確立するのが出発点だった。本書が進むにつれて、時には理論、あるいは抽象モデルや概念に頼ることもあるが、なるべく避けるようにはするし、その理論が目に見える変化の理解を深めてくれる場合にかぎるようにしよう。たとえば、所得、資本、経済成長率、資本収益率は抽象概念だーー数学的に確立されたものというよりは理論的構築物となる。それでも、こうした概念が歴史的な現実をおもしろい形で分析できるようにすることを示そう。ただし、こうしたものを計測する時の精度の限界について忘れないようにして、批判的な視線を保たなければならない。また、数式もいくつか使う。たとえばα=r×β(これは、国民所得に占める資本の割合は、資本収益率と資本/所得比率の積だと言っている)などだ。あまり数学に馴染みのない読者は、ちょっと我慢してほしい。すぐに本を閉じたりしないでほしい。これはごく基本的な数式だし、単純で直感的な形で説明できるし、特殊な専門知識がなくても理解できるものものなのだから。何よりも、この最小限の理論的枠組みだけで、誰もが認める重要な歴史的発展について、明確な記述が十分に行えることを示せればと思う。」と教えてくれる。
 読んで勉強になった。
 筆者は、「社会的格差は、正当なものなら、それ自体としては問題ないのだから。つまりその格差が、1789年人権宣言第一条に言うように「共同の利益に基づくもの」あれば構わない」とし、「社会を組織する最高の方法や、公正な社会秩序実現のために最も適切な制度や政策をめぐる論争に、微力ながら貢献したいと思っている」とのこと。
 さらに筆者は、「正義が有効かつ効率よく法治の下で実現されるのをみたい。その法治は万人に適用され、、民主的な論争に基づく普遍的に理解された規則から導かれたものであってほしい」としている。等々、筆者の思考方向を知ることができた。
 また筆者は、「本書は、経済学の本であると同じぐらい歴史研究である」とし、「本書はそもそも所得や富の分配に関連した歴史的情報源を集め、時系列データを確立するのが出発点だった。」としている。
 為か、面白くて、「21世紀の資本」の本がまるで歴史書を読むように、一気に「黙読・目読」し、それに飽き足らすワードで「写読?」し、それでも飽き足らず「ブログにオン読?」をしている。その歴史も、多くは自分の生きてきた歴史であることも、興味深く読める理由かもしれない、と思っている。
青年の頃、マルクスもケインズも、著書を買っても、読み続ける意欲が全くわかず、年を取ってから手持ちの全ての著書を清掃工場へ運んだことを思いだす。
by sasakitosio | 2015-07-06 10:51 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback