言論統制へのエッジボール
2015年 06月 23日
今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「ある人に会った。その人が誰なのか、どこであったのかも明かさない約束をした。話の内容をそのまま伝えることはできない。その人と会ったことで、以下の文章を書く。
船は激流にもまれていた。
4歳の子どもを連れた高齢の女性が救命衣を求めて叫ぶ。「孫を助けて」。しかし大慌てで救命衣を着ようとしていた船員たちは相手にしない。見かねた乗客の男性は自分の息子に言った「いいか、お父さんはあの子を助ける。船が沈んだら、お前は自力で逃げろ」―――
中国誌「財経」は6月6日に、事故を起こした客船で、船長や船員が乗客を残して逃亡し事実をネット上で報じた。
といっても、6月1日に起きた、442名が死亡した長江の客船事故のことではない。同誌が伝えたのは、1997年、今回と同じ船舶会社の船が事故を起こした際の報道の引用だった。
書きブリは極めて慎重だ。直接、今回の事故との関連は触れていない。しかし、読む人の頭に浮かぶのは当然、今回の事故についての疑問である。12人しかいない生存者のなかに船長はじめ複数の船員が含まれていたのはどうしてか。そもそも事故はなぜ起きたのか。」と切り出した。
つづけて筆者は、「中国当局は今回、厳しい報道規制を敷いた。果敢に独自の視点で記事を出した中国メデアがごく一部とはいえ存在したことは指摘したい。
財経以外にも「船長はなぜ暴風雨の中で前進をつづけたのか」との謎に迫るネット新聞がでた。すでに削除されてしまっているが・・・・・
メディアとは別に、記者個人の発信もあった。重慶のある記者はネット上で、事故を起こした船舶会社が大量の資料を処分し、証拠隠しをした疑惑を書いた。その後、警察の取り調べを受けたと記し、前日の内容を取り消した。
これに対し、新華社など国営メディアが伝えたのは、政府の救援活動がいかに万全だったかとの報道、そこに家族の悲しみへの同情や、悲劇を生んだ原因を探ろうとの姿勢は感じられない。
あるのは「個」に対する冷たい全体主義である。
ある党幹部はこんな説明をしてくれた。
中国の歴史で、王朝が倒れるのは、大災害などが起き、政権が対応できなかった時。災害は避けられない、問題は政権の対応能力をいかにきちんと示すことができるかだ、と。
同幹部は言った、「だから、これでいいのです」。
とにかく社会の安定が第一。共産党政権は、自分たちが生き残ることしか考えていないかのようだ。」と教えてくれた。
最後に、「「メディアは時にとても無力です」。
冒頭に記した「ある人」が苦しげな表情で言った言葉を反芻する。
たしかにそうか知れない。しかし、私は信じがたい。厳しい言論統におかれながら、中国の記者たちが勇気を持ち、知恵を絞って投げる規制ぎりぎりの「擦辺球(エッジボール)」。いつの日か、それが多くの人日の心を動かし、なにかを変えることを。」と締めくくった。
読んで勉強になった。
「6月1日に起きた442人が死亡した長江の客船船転覆事故」をめぐる中国の国内事情を知ることができた。
中国のネット新聞・記者個人・中国誌「財経」などのメディアが、「12人しかいない生存者のなかに船長をはじめ複数の船員が含まれていたのはどうしてか。そもそも事故はなぜ起きたのか。」の疑問に、知恵を絞って規制ギリギリの「エッジボール」を投げている。その事情が分かった。中国の町歩きで一番近いところで3年前、孔子のふるさと「曲阜」「泰山」を歩き回って、この国はごく近い将来必ず民主化すると思ってきた。その文脈の中で、筆者の記事を読み、中国の民主化は確実に、前進していることがわかった。