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by sasakitosio

原発ゼロへの再出発

1月10日付東京新聞社説に、「原発ゼロへの再出発」との見出しで、原発問題が載った。今日ははこの社説に学ぶことにした。

 まず社説は、「3.11以前にも勝る原発過保護が始まったのか。福島の事故など、なかったように。後ろ向きに時代の坂を駆け下る。そんな新年にしてはいけません。

 やっぱりゼロが焦点でしょう。

 新年6日、東京電力の広瀬直己社長が新潟県庁を訪れ、泉田裕彦知事と1年ぶりに会いました。

 柏崎刈羽原発の再稼働に理解を求める廣瀬社長に、泉田知事は、政府の事故調査・検証委員会による調書のうち、勝俣恒久会長ら当時の東電役員分を公開するよう要求した。

 廣瀬社長は「同意するかどうかは個人の問題」と、それをはねつけました。

 勝俣氏らは、なぜ、かたくなに公開を拒むのでしょう。口を閉ざせば閉ざすほど、原発の安全性に疑念が募るというのに、です。

 泉田知事は、「それでは、安全性の議論はスタートラインに付けない」と断じています。

 事故のさなかに、東電トップが何を考え、どう判断を下して、どのような指示を出したか。そんなことも分からないまま、知事として県民に、原発の安全性を説明できるわけがありません。再稼働に同意できるわけがない。

 安全性の議論は、まだ始まってもいないーー。

 泉田知事の立ち位置は、新潟県民だけでなく、国民の多くが抱く不安の代弁だと言えるでしょう。」と切り出した。

 つづけて社説は、「原子力規制委員会は、九州電力川内原発や関西電力高浜原発が、3.11後の新たな規制基準に適合するとは言いました。しかし、安全を保障してくれるという人は、まだ誰もいないのです。

 政府は原発から30キロ圏内の自治体に、避難計画を策定するよう義務付けました。

 どこへどうやって逃げるのか。ほとんどの市や町が、苦慮しています。そもそも、本当に安全なら、どうして避難計画が必要なのか。原発事故は二度と起こしてはならないものではないですか。

 昨年夏の電力需要期は、原発なしで支障なく乗り切った。この冬も電気が不足する気配はありません。それなのに、政府と電力業界は、再稼働への道のりをひたすら急ぎます。年末の衆院選の前後から、その足取りは加速しました。

 4月に閣議決定された国の新たなエネルギー基本計画は、原発を「重要なベースロード電源」と位置づけた。一方で「原発依存については、可能な限り低減させる」と明記しました。将来的には、できるだけゼロに近づけるという意味ではなかったでしょうか。」と指摘した。

 さらに社説は、「ところが自民大勝に終わった衆院選後、「重要なベースロード電源」だけが独り歩きし始めます。

 原発ゼロをめざすどころか、原発神話の復活と永続を意図したような、政府のあからさまな“原発びいき”が目立ちます。

 暮れに開かれた原子力政策の方向性を議論する経済産業省の小委員会では、老朽原発を廃炉に導く一方で、敷地内で建て替え(リプレース)をすすめるべきだとの意見が多く出ました。

 40年を超えて原発を運転するには、規制委の特別点検を受ける必要があり、安全対策を含めて1基1千億円以上の費用がかかるとされています。電力各社は、日本原電敦賀原発1号機など、5基の廃炉を検討してます。出力35万キロワットから55万キロワットという小型のものばかりです。

 安全配慮というよりも、もうけの少ない小型を整理して、大型に置き換え、効率よく利益を生み出そうとの考え方が基本にある。その先に新増設さえ見え隠れしはじめました。これでは原発依存を解消できるはずがありません。

 このほかにも原発の優遇策は、小委員会の話題になりました。たとえば価格保証です。

 来年、家庭用電力の小売りが自由化され、原発を擁し、地域独占を謳歌してきた電力会社も競争にさらされる。原発の電気が消費者に支持されず、市場価格が一定の水準を下回った場合には、差額を補てんする仕組みを設けるべきだという。原発の運転コストは安いはずではなかったか、なりふり構わぬ原発過保護ではないか。」と指摘した。

 最後に社説は、「3.11の被災者の悲哀を忘れ、福島の事故など初めからなかったかのような原発依存への急旋回はいったい誰のためでしょう。

 逆流する時間を止めて、私たちは何をすべきでしょうか。

 泉田知事の言うように、まずは事故原因の徹底的な究明です。そして情報公開です。それに基づく科学的判断と国民的議論です。安全か、安全ではないのか。最後に決めるのは、私たち国民です。

 人は痛みを忘れることで過ちを繰り返す。新しい年を忘却と後戻りの年にしてはなりません。」と締めくくった。

 読んで勉強になった。

 泉田知事が「政府の事故調査・検証委員会による調書のうち、勝俣恒久会長ら当時の東電役員分を公開するよう要求した」とのこと。東電広瀬社長は「「同意するかどうかは個人の問題」とそれをはねつけた」とのこと。

 これに対し、社説は「勝俣氏らは、なぜ、かたくなに公開を拒むのでしょう。口を閉ざせば閉ざすほど、原発の安全性に疑念が募るというのに、です。」と指摘した。まったく社説の指摘の通りだと思った。
 不思議なことに、いまだに、当時の東電幹部は誰も原発事故の責任を、株主に対しても、消費者に対しても、国民一般に対しても、原発被害者に対しても、経済的・道義的な責任を取っていません。泉田知事の指摘した「調書」の公開で、天下りした「経産省含め高級官僚」にももちろん責任追の炎が燃え上がることへの、恐怖が、彼らをして口を閉ざさせている究極・最大の原因のような気がしてならないが?

 社説にある「奥田知事の言うように、まずは事故原因の徹底的究明です」は、原発事故の責任を明確にする「一丁目一番地」のような気がするが?

 また、それができれば、戦後体制からの、戦後民主主義(戦争責任をあいまいにしてきた)からの脱却ができるような気がするが?

 さらに、事故原因の究明が、支配階層の権力の実像を、主権者・国民の前にさらけ出してくれるような気がするが?


by sasakitosio | 2015-01-14 19:07 | 東京新聞を読んで | Trackback