社会の亀裂 つなぐ政治家を
2014年 11月 29日
11月21日付朝日新聞朝刊1面に、「座標軸」と言う欄がある。筆者は論説主幹・大野博人氏だ。今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「日本の社会のあちこちに亀裂が走っている。
たとえば16日の沖縄知事選。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対する翁長雄志氏は「イデオロギーではなく沖縄のアイデンティティーを大切に」と訴えて当選した。
沖縄が不当に重いものを背負わされているという異議申し立てだ。しかし、菅儀偉官房長官は移設を「粛々進めていく」と述べた。
本土と沖縄の深い亀裂がのぞく。
それだけではない、正規と非正規、年配者と若者、富める者と貧しい者、都市と地方・・・・
何本もの亀裂を抱えながら、この国は社会保障や原発、集団的自衛権などの難題に取り組まなければならない。誰もが納得する答えはない。人々のつながりが切れていく中で論争すれば「非国民」「売国奴」といった言葉の氾濫も許してしまう。」と切り出した。
つづけて筆者は、「亀裂に苦しむ社会に、この衆議院解散と総選挙は何ができるだろうか。
「違いを分裂にしてはならない。それに貢献するのが大統領の役割」(オランド仏大統領の就任演説)
「全ての人々、国民全体の利益のために統治する」(ブレア元英国首相の就任演説)
多くの国で選ばれた指導者はまず「国民の統合」に心を砕き、亀裂の修復に力を尽くすと誓う。
選挙戦の間、国民という共同体は異なった立場や意見で割れ、いわば分裂する。けれども、投票で多数派=勝者が決まれば、その結果負けた少数派も「自分たちみんなで決めたことだから」と受け入れる。選挙は国民を一時的に分断し、再び統合するという二つの段階を経て完結する。
だから、選ばれて政権を委ねられたものは「多数派」だけではなく「すべての」国民の代表としてふるまうことを求められる。対立の克服は困難な仕事だが、意見の違う人々には言葉を尽くして説得に努め、時には譲歩や妥協もしなければならない。」と教えてくれる。
最後に筆者は、「「見解の相違です」
今年8月、長崎で被爆者の一人が集団的自衛権に納得できないと話しかけたとき、安倍晋三首相はこう突き放した。この問題では憲法解釈をめぐる国会の論戦でも「(国民の)審判を受けるのは内閣法制局長官ではない。私だ」と強調していた。
重要なのは選挙では多数派になるかどうか。すべての国民を視野に入れれば何も決められない。そんなメッセージに聞こえる。
だが、負担や痛みをどう公平にわかつか、を決めることこそが政治の重要な仕事になっている今、社会が割れたままでは成果を上げるのは難しいだろう。
亀裂に乗じてでも多数派を構築しようとする政治家か、亀裂をはらむ民主主義の危機と向き合う政治家か。選挙戦は、国民統合への政治家たちの姿勢を見極める機会になる。」と締めくくった。
筆者の、「選挙は国民を一時的に分断し、再び統合するという二つの段階を経て完結する。だから、選ばれて政権を委ねられた者は「多数派」だけではなく「すべての」国民の代表としてふるまうことをもとめられる」との指摘は、その通りだと思った。
その点では、今年8月の長崎での安倍総理の被爆者からの質問に対する回答「見解の相違です」は、驚いた。安倍氏は国民の代表・総理大臣の器でない、と思った。相撲でいえば、横綱相撲でなく、横綱が素人に張り手をくらわせるような、ひどい場面を見た思いがした。
また、安倍首相の姿勢を、「重要なのは選挙で多数派になるかどうか、すべての国民を視野に入れれば何も決められない。メッセージに聞こえる。」と、筆者は指摘・想像した。
上記の指摘・想像を読んで、刺激を受け、一つ考えたことがある。
それは、選挙で多数を得たことは、正義の保証でもなければ、真実の保証でもなければ、ましてや何しても許されるとい免罪符でもない、ということである。国権の行使を国民から託されただけのことである。
さらに重要なことは、国民に代わって国権を行使した「人」は、その結果に対し、国民に対し責任を負わなければならないはずではないか?議決に加わるということは、その結果について、国民に責任を自覚しなければいけないのではないか?
ところが、近いところで、第二次世界大戦の結果の責任について、福島の原発事故の結果の責任について、そこへ導いたこと・悲惨な結果になった事に対し、為政者の指導に従って「命や財産」を失った国民に対し、責任を取った「為政者」は何人いたのだろうか?皆無ではないのか?
国権を託された人々が、その行使の結果に対し、自ら責任を感じないで済ませられることが、日本における現代民主主義の大きな欠陥のような気がした。