憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

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 10月29日付東京新聞朝刊27面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、作家・楊逸氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「先週のオーストリアのソポトカ内相は、今も同国のブラウナウに残る、ナチス・ドイツの独裁者、あのヒトラーの生家を取り壊す方針を明らかにした。生家がナチス支持者の「聖地」になることを防ぐためなのだという。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「このニュースを知る直前のちょうど、ワシントンDCにあるホロコースト記念博物館を見学したのだった。映画「シンドラーのリスト」や「戦場のピアニスト」をはじめ、「アンネの日記」などの文芸作品を読んでいたので、ヒトラーやナチスによるユダヤ人への迫害ないし虐殺について、分かっていたつもりだった。にもかかわらずその凄惨さにとんでもなくショックを受けた。
 ナチス兵の連れた殺人犬、
 ユダヤ人を収容所に輸送した貨物列車、
 死体を焼却炉などのようなかってユダヤ人を惨殺に用いた恐ろしい「道具」よりも、「写真の壁」に心が引き裂かれた。それは一人で写ったものもあれば、家族や友人と一緒のものもある。平和の中、ささやかな幸せをかみしめるという、ユダヤの人々と、彼らの人生が光った数えきれない瞬間。なぜ奪われたのか・・・。」と指摘した。
 最後に筆者は、「つい70年前までに起きていたこと。どんな血なまぐさい歴史でも、時間が経てば色あせて、やがて忘れさせられてしまう。
 一方で危険なナショナリズムは周期的に起きている。歴史とは時々振り返らなけれならないものだ。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「先週オーストリアのソボトカ内相は、今も同国のブラウナウに残る、ナチスドイツの独裁者、あのヒトラーの生家を取り壊す方針を明らかにした。」とのことを知った。
 で、思い出した。ヒトラー終焉の地がベルリンにあることを旅行誌で知り、今年の正月行ってみた。掘り返されて、公園と駐車場になっていた。そこに、幹回り2メートルはありそうなプラタナスの樹が立っていた。もしかしたら、ヒトラーやその側近を見ていたかもしれない「樹」の根元に落ちていた(小枝)を拾ってきた。ヒトラーの終焉の地の建物を地下室ごと掘り返したのは、その地がナチス支持者の「聖地」になることを防ぐ為らしかった。
 ただ、建造物を取り壊しても、ナチス支持者にとっては「聖地」がこの世から「消失」したことにはならないのではないか、と言う疑問がわいてきた。。
 
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by sasakitosio | 2016-10-31 06:39 | 東京新聞を読んで | Trackback
 10月28日付東京新聞朝刊29面に、「本音のコラムという欄がある。筆者は、作家で元外務省主任分析官・佐藤優氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「25日、配達証明をつけて、大阪府の松井一郎知事にこんな手紙を送った。
 <はじめてお便りします。私は、佐藤優という作家です。以前は外務省で対ロシア外交とインテリジェンス業務を担当していました。/今回、私が貴知事に手紙をしたためたのは、貴知事の沖縄に関する認識が間違っていると共に差別的だからです。
 大阪府内には、沖縄にルーツを持つ我々の同胞沖縄人も多数居住しています。あなたの無神経な発言は、あなたの権力基盤事態を弱体化させるものであることを認識していただきたいと思います。
/10月2日の「琉球新報」に掲載された拙稿の写しを同封します。読んでいただけると幸甚です。
/私は、あなたの沖縄に関する公的発言を注視していきます。大民族のあなたたち日本人と比較すると、私たち沖縄人は少数派です。沖縄人はあなたや「土人」発言をした大阪府警の機動隊員から見れば、微力かもしれませんが、無力ではありません。
/今後、貴知事に公開書簡を送ることになるかもしれません。
/末筆になりますが、貴知事のご健勝とご発展をお祈り申し上げます。>」と切り出した。
 つづけて筆者は、「差別が構造化されている場合、差別者は差別を指摘されると自分がいわれない非難を受けていると勘違いする。松井氏が「土人」発言をした機動隊員を擁護したのはその典型だ。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 筆者が「25日、配達証明をつけて、大阪府の松井一郎知事に手紙を出した」とのこと。偉いものだとおもった。
 「差別が構造化されている場合、差別者は差別を指摘されると自分はいわれのない非難を受けていると勘違いする」とのこと。確かに、筆者の指摘の通りだと思った。ただ、わたし的には、沖縄出身の優秀な同級生を知り、長寿の沖縄のニュースを聞き、沖縄の人も自然も素晴らしいと思っているが。
 
 
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by sasakitosio | 2016-10-30 07:06 | 東京新聞を読んで | Trackback
 10月28日付朝日新聞社説下、「社説余滴」という欄がある。筆者は、政治社説担当・坪井ゆづる氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「この一カ月の国会を見て、あの時のイヤな感じがますます募る。
 衆院本会議場で先月、自民党議員が次々立って拍手したあの光景だ。
 安倍首相が領土、領海、領空を守る決意を語り、海上保安庁、警察、自衛隊への「心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけた。
 演説にあった通り、現場は「極度の緊張感に耐え」ているに違いない。
 でも、なぜ、あそこで起立なのか。
 拍手なのか。
 野党からの批判に、首相は「どうして問題になるのか理解できない」と答えた。
 米国の議会でスタンでングオベーションを受けた人らしい感想だ。同じ思いの読者も多いかもしれない。」と切り出した。
続けて筆者は、「だが、そうだろうか。三つの点で引っかかる。
 第一は原則論だ。
 首相は行政府の長であり、自衛隊の最高指揮官だ。
 国会は立法府で、議員は国民の代表だ。両者は三権分立の緊張関係のもとで並び立つ。
 首相が部下である自衛官たちへの敬意を、野党を含むすべての国会議員に促すのは緊張感に欠けていないか。
 気持ちのどこかで、立法府を一段下に見ていないか。
 それも無理からぬ現実がある。今首相は「一強」だ。
 国政選挙で4連勝し、国会でも「数の力」で野党を圧倒する。だから、自民党総裁の任期も最長9年まで延びる。
 首相は「私は立法府の長」と言ったことがある。
 その後、「言い間違えたかもしれない」と述べ、議事録は修正されている。だが、実は国会を牛耳っている実感のこもった本音ではなかったか。
 第二の光景の見え方だ。
 起立して手をたたく議員の視線の先に、拍手しながら議場を見下ろす首相が立っていた。多くの議員が首相を礼賛するかのようだった。
 討論の場の議場を、首相がみずからの権力を誇示する舞台に変えたように見えた。
 第三は将来の話だ。
 政権に戻って4年近くになる。特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の緩和、解釈改憲での集団的自衛権の行使容認、そして安全保障法制。
 首相はきっちり布石を打ち、いまや自衛隊は世界中で他国軍を支援できる。」と指摘した。
 最後に筆者は、「この先いずれ、首相は憲法違反の疑いのある自衛隊の海外活動にも「敬意」求めないだろうか。安保法制は違憲だとの批判を、議場の規律と拍手でかき消そうとするかのように。」、として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 先月の衆院本会議でのスタンでングオベーションについて、筆者の引っかかった3点を知ることができた。
 まず筆者は、国会と行政府は三権分立の対抗関係にあるのに、首相は気持ちのどこかで、立法府を一段下にみていないか、と指摘した。
 また、筆者は、多くの議員が首相を礼賛するかのようだった、と指摘した。
 この点が、私も異様な風景を見た気がした。
 映像でしか見ないヒトラーと安倍首相の言葉のリズムに何故か共通性を感じ、起立して手を叩く議員が首相を礼賛するかのような風景が、ヒトラーの演説に「ハイルヒトラー」と手を挙げて叫ぶ「ドイツの大衆」と2重写しになって、わたしも筆者と同じように「イヤな感じ」を持った。
 さらに、筆者は、「この先、首相は憲法違反の疑いのある自衛隊の海外活動にも「敬意」をもとめないだろうか。」と危惧している。
 筆者の危惧は当たるような気がしている。首相の行為が、海外での自衛隊員の「災禍」を事前に「美化・礼賛」しようとしているような気がしてならないが?ここは落ち着いて考えれば、自衛隊を海外に派遣し、災禍にさらすのは、政府そのもの、その法律を作ったのは与党そのもの、であることを忘れてはならないはずだ。
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by sasakitosio | 2016-10-30 06:39 | 朝日新聞を読んで | Trackback
 10月21日付朝日新聞朝刊15面に、「月刊 安心新聞」という欄がある。
 筆者は、千葉大教授・神里達博氏だ。
 今日はこの筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「最近巨大プロジェクトの見直しに関するニュースが,紙面をにぎわせている。
 一つは、高速増殖炉「もんじゅ」。
 投じた予算は今年度末での累計で1兆円を超す。その内訳は建設費が6千億円弱、そして運転・維持費が4500億円だ。
 もう一つは豊洲市場の問題である。
 今年春の段階で、施設整備も含めた全体の費用は、6千億円に迫る。
 言うまでもなく、施設の目的や責任の主体、また問題の大きさやタイプなど、あらゆる点で両者の性格は異なる。また今後両プロジェクトがどうなるかは基本的には未確定、それぞれ議論の最中である。
 しかし少なくとも、永い時間と関係者の膨大な労力によって完成あるいはほぼ完成したプロジェクトが、無駄になるかもしれないという点では、よく似ている。
 施設本体の予算規模が似通っているのも共通点だろうか。
 結論がどうなるにせよ、今はこれらの混乱の根本的な原因について、私たちはの社会が考え直すチャンスであるのは間違いない。当然、様々な見方があろうが、ここでは以下の角度から問うてみたい。それは、いずれのプロジェクトも、行政が専門家集団と分かちがたく結びついており、広範な利害関係者の合意を得る前に、ある意味で「見切り発車」されたことが、本質的な問題ではないか、という視点である。 たとえばもし、問題が純粋に政治の問題であるならば、民主的に決めさえすれば、結果については「社会全体で責任を負う」ということで決着するかもしれない。
 しかし、現代の政治問題は、単に皆で議論をして決めれば良い、というものはまれである。多くは、それぞれの「専門家の判断」の強い影響下で決定・推進されているからだ。
 ただし、ここで言う専門家とは、研究や調査を生業とする人々だけを指すのではない。研究者や学者のみならずさまざまな種類の技術者やコンサルタント、さらには行政組織で働く技官なども含めた、プロジェクトを分担する専門家的なスタッフ全体を「専門家」と呼ぶべきである。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「専門家の判断と、民主的な議論の結論は必ずしも一致するものではない。判断の基準やプロセスが異なるからである。当然、簡単に優劣がつけられるものでもない。
 ここで問題となるのは、専門家の判断というものが、社会全体から見て,必ずしも中立的とは限らなう点だ。
 たとえば、ある組織に属する専門家は、その組織の利益が損なわれるような技術的決定を推奨しづらいだろう。それが、社会一般の利益に相反するケースもある。
 例えば安全性の確保などは、少なくとも短期的には、そういう傾向がある。
 これに対しては、個々の専門家の倫理の問題だという声もあるかもしれない。だが個人の資質に期待しすぎる「精神論」は危険だろう。適切な制度と人材があいまって、システムは健全に機能するものだ。
 そうだとすれば、専門的な場面に「専門知識を備えた第3者」が分け入って、技術的なことも含めて精査する仕組みを導入すべきだろう。
 むろん、さまざまな安全規制や基準などは、元々は、そのような観点から整備されてきたとも言える。
 また、全ての技術的な決定において、外部の監査を導入するのは現実的ではない。基本的には専門家に委任しなければ、物事は動かないからだ。」と指摘した。
 最後に筆者は、「だが一方で、従来の民主的な手続だけでは見過ごされてしまうような、いわば「重要なディテール」が議論の俎上にのぼらなかったからこそ、「もんじゅ」も「豊洲市場」も、政治的・社会的な問題になったともいえるのではないか。結局、問題の核心は、民主主義と専門主義の本質的な緊張にこそある。
 従って、そろそろ抜本的な改革を行うべき時期に来ているかもしれない。とりわけ、今回の二つのプロジェクトのような、社会的な影響力が大きい行政の決定には対しては、新しい仕組みが必要ではないか。
 以上のような状況に対して、欧米ではこれまで、「議会の力」を高める方法を模索してきた。
 当然ながら、行政を監視するのが議会の役割である。
 しかし、行政と専門家集団が結び付いて運営されているプロジェクトを、市民の代表者である議員が読み解くことは、専門的な知識が壁になって容易ではない。
 もちろん、独自の調査で技術的な本質に切り込む議員もいるだろうが、制度的な支えを作ることは重要だろう。
 そこで生まれたのが、議会が独自に、高度の専門家から成る組織を擁するというアイデアだ。
 最初は1970年代の米国議会に設置され、後に欧州に広がった。国によって異なるが、たとえば英国には、博士号を持った複数の専門家が議員を支援する、「議会科学技術局」という組織がある。その他にも、議会活動の実効性を高めるためのさまざまな工夫が試みられている。
 私たちの社会はいまだに、政治的判断と専門的判断は明確に切り離せるもの、と考えがちだ。
しかし、これはもう、過去のものの見方かもしれない。
 巨額のコストやリスクを伴う大きなプリジェクトを行政が始めようとするとき、専門性を高めた議会が冷静に評価する。それは、一見すると遠回りに感じられるかもしれないが、長期的には十分に元が取れるはずだ。
 今、大切なのは、失敗から学び、後悔しないために良い制度を作ることである。私たちの社会の理性をもう一度信頼したい。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「行政の行為を監視するのが議会の役割である。しかし、行政と専門家集団が結びついて運営されているプロジェクトを、市民の代表者である議員が読み解くことは、専門的な知識が壁になって容易ではない」との指摘、
 「議会が独自に、高度の専門家家から成る組織を擁するというアイデアだ。最初は1970年代の米国議会に設置され欧州に広がった」とのこと、等等を知ることができた。
 筆者は「巨額のコストやリスクを伴う大きなプロジェクトを行政が始めようとするとき専門性を高めた議会が冷静に評価する」と提案している。
 筆者の提案を是としたうえで、専門家集団の提案を理解し発展させる「能力」を、個々の議員が持てるようにするために、国家公務員の試験と同等以上の試験の合格者に、被選挙権の資格を与えるという「仕組み」が必要ではないか?
 また、巨額なコストやリスクを伴う大きなプロジェクトは、すべて、国民投票にかける「仕組み」を考える時期に、民主主義は到達したのではないか?
 提案するものも、それを審議するものすべてが、同質(能力的に)であるという前提の民主主義が、社会の発展を支えられなくなったのではないか?
 
 
 
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by sasakitosio | 2016-10-29 17:03 | 朝日新聞を読んで | Trackback
 10月25日付朝日新聞社説に、中国退役軍人のデモのことが載った。
 今日はこの社説に学ぶことにした。
 まず社説は、「中国の国防省など軍中枢は、北京の中心部で周囲を威圧する巨大なビルの中にある。
 その周りを、大勢の迷彩服姿の退役軍人が取り囲むという前例のない出来事が今月あった。
 その規模は数千人に達したともいわれ、彼らは軍歌を歌い、待遇改善を要求した。
 軍備の拡張など対外的に国の威信を高めることには巨費が投じらるのに、それを支える一人ひとり暮らしと尊厳は軽んじられている。そんな訴えのように聞こえる。
 軍人は若返りのため毎年数万人規模で退役させうえ、習近平政権が旗を振る軍改革のもとで陸軍を中心に兵員の大幅削減が進み、綱紀の締め付けも厳しい。」と切り出した。
 続けて筆者は、「一方で再就職のあっせんや年金支給などは脆弱だ。
 これまで基本的に地方政府に対応を委ねていたが、財政に余裕がなく、国有企業など再就職先を用意するのも難しくなっている。不満が噴き出すのは自然の流れだろう。
 もちろん純粋な抗議行動とも言い切れない。各地から一せいにに集まり、統率のとれた行動をしていた点から見れば、高いレベルの軍関係者が関与している可能性が考えられる。
 軍の内部は必ずしも一枚岩ではない。
 習政権の軍改革をよく思わない勢力が仕掛けた反撃、との見方は成り立つ。
 しかし、かりに権力闘争の要因があったとしても、多くの退役軍人が生活苦に直面している事実は変わらない。
 これらは軍人に限った問題ではないだろう。
 社会保障の制度は不十分で、所得の差を縮めるための税制による再分配も弱い。最近の大都市でのでの不動産価格の高騰は、持つものと持たざる者との格差の再拡大を助長している。」と指摘した。
 最後に社説は、「「社会主義市場経済」の名のもと、経済的な公正さへの取り組みにおいて、歴代政権はほぼ無策に等しかった。
 そもそも街頭に出て公然と団体行動を取るのは、自らの訴えを代弁する者がなく、政策に反映させる回路がほかにないからだ。実はこれまでも国内の各地方都市では、同様の抗議活動が繰り返されていた。
 大胆な宇宙開発やアジアインフラ銀行の設立など、国内外に躍進ぶりを宣伝する中国だが、その足元では、幅広い国民の生活不安と格差が社会の不安要因として、くすぶり続けている。
 退役軍人による集団行動は、中国が抱え続けている国内問題の根深さを物語っている。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「中国の国防省など軍の中枢のある北京の中心部の巨大なビルの回りを「大勢の迷彩服姿の退役軍人が取り囲む」という前例のない出来事が今月あった」、とのこと、
 「「社会主義市場経済」の名のもと、経済的な公正さへの取り組みのおいて、歴代政権はほぼ無策に等しかった」とのこと、
 「大胆な宇宙開発やアジアインフラ投資銀行の設立など、国内外に躍進ぶりを宣伝する中国だが、その足元では、幅広い国民の生活不安と格差が社会の不安定要因として、くすぶり続けている。」とのこと、等等を知ることができた。
 一党独裁の共産党の行う「市場経済」。中国は、先行き不透明な歴史的実験を行っているのではないか?
社会が安定し、国民が豊かになっても、共産党の一党独裁は継続できるのだろうか?
 ソ連が崩壊したように、中国の崩壊も必然のような気がしてならないが?
 中国崩壊後は、ソ連崩壊と同じように、共通の「民族や宗教や文化」ごとに国家が複数誕生するのではないか?
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by sasakitosio | 2016-10-29 16:01 | 朝日新聞を読んで | Trackback
 10月26日付東京新聞朝刊25面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、文芸評論家・斎藤美奈子氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「27日から11月9日までの2週間は恒例の読書週間だ、今年の標語は、「いざ、読書。」。
 そうか、とうとう読書も鎌倉時代の武士よろしく満を持して「いざ」と挑なけtればならない一大事になったのか・・・。
 野外で読むのを私は二宮金次郎にちなんで「二宮読み」と呼んでいるのだが、街では目にするのは「 二宮スマホ」の人ばかり。紙メディアの衰退は著しい。」と切り出した。
 続いて筆者は、「最も紙の本には紙の優位性があって、それは知識の量が目で見えることである。
 枕になるほど分厚い本、何十冊にもわたる全集などは紙の本でないとその物量が分からない。図書館や書店の存在価値も「世の中にはこんなに本があるのだぞ」と見せつけることにあるとすらいえる。
 背表紙を見て何冊もの本を出したり引っ込めたりすることが、本に親しむ第一歩だからね。
 大手書店のジュンク堂が主催する「ジュンク堂に住んでみる」ツアーはその意味でも面白い試みだと思う。一泊二日で書店に泊まって自由に過ごすのだそうだ。」と教えてくれる。
 最後に筆者は、「この時期には全国の図書館でたくさんのイベントが行われるけれど、概してアイデア不足。それは本は読む者、読み聞かせるものと思っているからだ。
 図書館を宝探しのフィールドと考えればいいのに。必要なのは「いざ」の前段階。「読む」のなんか後でいいよ。」として締めくくった。
 読んで為になった。
 「恒例の読書週間が27日から始まり、その標語が「いざ、読書」とのこと、
 紙メディアの衰退は著しいが、「紙の本には紙の本の優位性があって、それは知識の量が目で見えることである。」とのこと、等等を知ることができた。
 確かに、調べ物には、ネット情報がすごく便利だ。
 昔は大百科事典を見に図書館に行ったが、今は自宅のパソコンで用が足りるようになった。本を読まなくなったが、その何倍も東京新聞と朝日新聞の社説や学者の論文やコメント記事を学習している。毎日、筆者の学識の深さ、感覚の鋭さに、感じ入って満足している。
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by sasakitosio | 2016-10-29 15:04 | 東京新聞を読んで | Trackback
 10月27日付東京新聞朝刊27面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、法政大教授・竹田茂夫氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「バブル期に日本の大手銀行は、大企業の銀行離れの中で金融業・不動産業への融資を競い合った。土地担保融資で銀行の審査はまひ状態。
 国重惇史著「住友銀行秘史」は、この貸し出し競争を先導して裏社会との関係を深めた当時の磯田一郎会長と側近を引きずり降ろすまでの暗闘を描く。
 決定打となった一連の内部告発は国重氏によるもので、最大規模の経済犯罪、イトマン事件の謎の最後の一片が明かされたわけだ。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「MOF担(旧大蔵省担当)として政官界やマスコミに人脈を築いた筆者は、これを銀行内部の権力闘争に駆使する。内部告発もこの経路に流す。
 綿密な計画、
 情報収集力、
 裏のフィクサーとも付き合う懐の深さ、
 一升瓶をもって運転手詰所まで訪れる人心掌握術は田中角栄元首相の東大卒版といったところか。
 関係者の保身や裏切り、思わぬ展開などは小説以上との評判だが、銀行上層部や大蔵省・検察・警察などの公権力や大手紙記者らの「互恵の輪」が異物を排除して共生関係を再生する物語として、いわば権力の生態系の参与観察として読むこともできる。」と指摘した。
 最後に筆者は、「腑に落ちないのは、職を賭けた闘争に著者を駆り立てた正義感の中身だ。
 銀行が裏社会と絶縁すべきことは当然だが、大企業・国家官僚・マスコミの共生とは国家レベルの談合ではないのか。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「国重惇史著「住友銀行史」」があるとのこと、
 「決定打となった一連の内部告発は国重氏によるもので、最大規模の経済犯罪、イトマン事件の謎の一片が明かされた」とのこと、等等を初めて知ることができた。
 また、「銀行上層部や大蔵省・検察・警察などの公権力や大手記者らの「互恵の輪」が異物を排除して共生関係を再生する物語として、いわば権力の生態系の参与観察として読むことができる」との筆者の指摘で、この本を読んでみたくなった。
 そして、またまた、自分の知らないことで、恐ろしい現実が存在していたことに驚いた。
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by sasakitosio | 2016-10-29 07:05 | 東京新聞を読んで | Trackback
 10月23日付東京新聞朝刊4面に、「時代を読む」という欄がある。筆者は、哲学者・内山節氏だ。
まず筆者は、「「強い国家」という言葉を用いるとき、「強い」とは何を意味している言葉なのだろうか。 
 今の政権にとっては、強い経済力や強い軍事力を持つ国家が、強い国家なのだろう。それは明治時代の国家が追い求めた道であり、この点でもいまもなお日本は明治からの延長線上にある。
 だがそれが、本当に強さの基準になるのだろうか。
 例えば戦前の日本を見れば、確かに日本は大きな経済力と軍事力を確立した。
 だがその帰結は、敗戦による国家の崩壊であり、壊滅的になった敗戦直後の社会であった。
 強い経済力と軍事力を追求した結果は、国家と社会の崩壊だったのである。
 とすると、それは強い国家ではなかったということになる。
「 強い」とは、経済力や軍事力が指標になるものではない。そうではなく、持続するということなのである。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「強い企業とは、持続性を持っている企業のことだ。日本には千年を超える持続を実現してきた企業が存在するが、長期にわたって風雪に耐えられる体質をもっている企業は強い企業である。
 いっとき売り上げを伸ばし大企業化しても、たちまち経営危機を迎えるようでは、強い企業とはいえない。
 持続的な友人関係のあることが強い友人であり、経済的危機などに直面しても維持できる家族が強い家族であるように、持続できることが強さなのである。
 とすると、戦前の国家は、強い国家をつくることに失敗したということになる。
 わずか数十年で崩壊してしまう国家が、強い国家であるはずがない。
 強い社会、強い国家を作ろうとするなら、私たちは持続性のある社会、持続性のある国をつくらなければ
いけないのである。」と指摘した。
 さらに筆者は、「このような視点に立つならば、現在の日本は強い経済力や軍事力を作ろうとして、持続性を交代させてしまっていると言った方がいい。
 企業は利益を追求して非正規雇用を増やしてきたが、こうして生まれた格差社会が持続的な社会なのだろうか。
 環太平洋連携協定(TPP)によって農村社会や医療制度が大きく損傷したら、社会は持続性を後退させてしまうだろう。
 原発が社会の持続性に危機をもたらすことは、福島の経緯が明らかににしたはずだ。持続のためには平和が必要であり、軍事力に頼らない世界をつくる構想力こそが、平和の持続に取っては必要なはずだ。
 環境が破壊されたら、持続的な社会はつくれない。
 子育てが大変な社会が、持続的であるはずがない。
 結びつきのない社会が持続的だろうか。
 強い社会や国をつくっていきたいのなら、持続を基準にして、これからのあり方考えていくことが必要である。」と指摘した。
 最後に筆者は、「今の日本は、むしろ、弱い社会や国家をつくる方向で動いているのではないだろうか。
 アベノミクスもそうなのだが、いっときの強い経済をつくろうとして、持続性のない経済をつくり出してしまっている。
 強い軍事力に依存しようとして、持続的平和を考える構想力を喪失させている。
 にもかかわらず、このような政治がまかり通るのは、明治以降の路線があたかも強い国家への道であったかのごとくとらえられているからであろう。
 戦前の日本は、持続性のない弱い国家をつくったのだということを、私たちは認識しておかなければならない。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 筆者は、「強い企業とは持続性を持っている企業のことだ」と指摘、
 、「持続的な友人関係のあることが強い友人であり、経済的な危機などに直面しても維持できる家族が強い家族であるように、持続できることが強さなのである」と指摘、
 「持続のためには平和が必要であり、軍事力に頼らない世界をつくる構想力こそが、平和の持続にとっては必要なはずだ」と指摘、
 「環境が破壊されたら、持続的な社会は作れない。子育てが大変な社会が、持続的であるはずがない。
 結びつきのない社会が、持続的なのであろうか。」と指摘、等等を知ることができた。
 そして、「強い社会や国をつくっていきたいのなら、持続を基準にして、これからの在り方を考えていくことが必要なのである」との筆者の指摘は、ストンと腑に落ちた。
 ただ、個人的には、万事「自分を勘定に入れずに」行動することを旨とする日々で、あっという間に古希を過ぎた。古希から始まった「新聞を読んでの自習」も、早くも3年半が過ぎた。持続する「人生」にするために、適度な運動、適度な学習、そこそこの仕事、周りの全てに感謝と感動、の日々を送っている。
 そして、今が人生で一番充実してした日々だ、と思っている。
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by sasakitosio | 2016-10-28 20:09 | 東京新聞を読んで | Trackback
 10月24日付朝日新聞社社説に、原発裁判のことが載った。今日はこの社説を学習することにした。
 まず社説は、「東京電力の株主が原発事故を招いた旧経営陣に対し、会社に損害を賠償するよう求めた訴訟が大きなヤマ場を迎えている。
 焦点は、政府の事故調査・検証委員会が関係者から聞き取りを行った調書の扱いだ。
 株主側が裁判の証拠にしたいと申し立てた。
 政府は、責任追及に使わない前提で聴取したこと、同意を得たものは一部黒塗りりをして既に公開していることをあげ、これ以上の開示は政府の仕事に「著しい支障」が出ると反対している。東京高裁は黒塗りをされる前の調書を裁判官だけで見て、このいい分に理があるかどうかを判断することになった。
 政府の主張で事足れりととせずに、中身を見極めたうえで提出を命じるか否かを決めようという姿勢は評価できる、
 公正な裁判を実現するには必要かつ十分な証拠が出そろうことが肝要だ、」と切り出した。
 つづけて社説は、「理解できないのは、一部の東電関係者や官僚の調書について、存在するかどうかすら明らかにしないという政府の態度である。聴取に応じたと知られるだけで、嫌がらせをや報復を受ける可能性があるという。
 「調書はあるが本人が開示を了承していない」といった説明ならともかく、こんな抽象的な恐れを言い立てて、一体何を守ろうとしているのか。
 原発事故を巡っては、ほかにも腑に落ちない話が多い。
 当時、国会にも民間人でつくる事故調が置かれた。
 報告書はつくられたものの、集めた記録類を公開する動きは止まったままだ。
 国会に第三者機関を設け、引き続き原発を巡る諸問題の調査・検討に当たるべきだという提言も宙に浮いている。
 事故を繰り返さないために、しっかり総括しなければならないという、発生直後の危機意識や責任感は薄れ、情報を囲い込み、議論を再燃させる動きを封じる。そんな方向に政府も国会も流れている。
 だがそれは、原発政策に対する国民の不信と不安を深めるだけだ。
 あらためて思うのは、原発に限らず、様々な事象が重なって大きな事故が起きたとき、原因の究明・共有と責任の追及を両立させる難しさである。
 責任を問わない代わりに調査に協力させ、再発防止を図るという考えが唱えられて久しい。
 政府事故調もその方針にたって究明に取り組んだが、作業を終えた後、裁判や自治体の独自検証によってあらたな事実が判明するなどの限界を露呈した。
 どんな仕組みをつくり、実行をあげるか。これもまた課せられた重い宿題である。」と締めくくった。
 読んで勉強になった。
  見出しに、「原発事故裁判 原因究明に迫れるか」とあるが、期待を込めて原発事故の原因究明をしてほしいと切に願っている。
 8月18日付朝日新聞社説下の「ザ・コラム」に、92年敗訴が確定した「伊方の最高裁判決」の内容が載った。それには次のような記述があった。
 「原発の設置許可の判断に不合理な点があるという主張や立証の責任は「本来、原告(住民)が負うべき」だが、原発の安全審査に関する資料を全て国側が持っている点などを考えると、国側に「判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づいて主張、立証する責任があり」、それを尽くさなければ「判断に不合理な点があることが事実上推認される」。
 此の原発の安全性に対する「挙証責任」が、国側、東電側にあるという最高裁の判断は至極わかりやすい結論だ。しかも、原告の住民側にとっては、株主にとっては、負担がものすごく軽減され、勝訴の可能性が極端に増した、と思った。
 社説によれば、「東京電力の株主が原発事故を招いた旧経営陣に対し、会社に損害を賠償するように求めた訴訟がヤマ場を迎えている」のこと 、
 「焦点は、政府の事故調査・検証委員会が関係者から聞き取り調査して作った調書の扱いだ」とのこと、
 「政府は、<中略>、これ以上の開示は政府の仕事に「著しい支障」が出ると反対している」とのこと、
 「東京地裁は黒塗りされる前の調書を裁判官だけで見て、この言い分に理があるかどうかを判断することになった」とのこと、
 「理解できないのは、一部の東電関係者や官僚の調書については、存在するかどうかすすら、明らかにしないという政府の態度である。聴取に応じたと知られるだけで、嫌がらせや報復をうける可能性があるという」とのこと、
 「当時、国会にも民間人でつくる事故調が置かれた。報告書はつくられたものの、集めた記録類を公開する動きは止まったままだ」とのこと、等等を知ることができた。
 社説の指摘や疑問を読んで、特に「これ以上の開示は政府の仕事に「著しい支障」が出る」、また一部の東電関係者・官僚にたいし「聴取に応じたと知られるだけで、嫌がらせや報復を受ける可能性がある」、とのくだりは、調書の全面公開に、政府・一部東電関係者・官僚が怯えている程、お化けのような「超大型爆弾=原爆」級の威力があるることを、逆に示唆しているような気がした。
 原発政策を破壊するような「超大型爆弾」を裁判官だけで見て、判決内容にその概要や詳細が反映されるのだろうか?必ずや、敗訴した側から、裁判官批判が出る、と思われるが。いずれにしても、調書を見た裁判官が、原発事故の原因究明につながる、判決を出すことを期待したい。
 そうすれば、電力幹部の頭から、原発再稼働の夢が消えること、必然のような気がした。
 
 
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by sasakitosio | 2016-10-28 06:02 | 東京新聞を読んで | Trackback
 10月25日付東京新聞朝刊27面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、ルポライター・鎌田慧氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「沖縄にいるので、大阪から派遣された機動隊員が、沖縄県人に向かって「土人」とののしった件を、東京の新聞がどのくらいのスペースで扱っているか分からない。松井一郎知事が「命令に従って職務を遂行している」と警官を擁護しているのは驚きだ。人権無視の暴君で、恐ろしい。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「沖縄の報道の自由について、「国境なき記者団」が「安倍首相就任以来、報道の自由への配慮が大幅に後退している」と警告している。
 沖縄2紙の記者を機動隊員が拘束したり、「つぶしてしまえと」とNHK前経営委員の作家が暴言を吐いたり、沖縄の新聞が嫌がらせを受けているのは、よく闘っているからだ。
 台湾中央通信社の楊明珠東京支局長は「日本のメディアは怯えすぎている。報道することで政権と堂々と対峙すればいい」「新聞社、テレビ局の幹部が定期的に首相と会食していることに驚く、権力の監視役であるべきメディアにとって、恥ずかしい行為」(新聞労連10月1日)と批判している。」と指摘した。
 最後に筆者は、「沖縄の新聞は沖縄の人たちから、自分たちの代弁者として支持されている。
 安倍首相や松井知事と会食したりはしない。
 どんな政権でも批判すべきは批判する。これが民主主義社会の常識だ。
 日本の新聞が世界から批判されるほどにおとなしいのは、日本は民主主義が満ち足りているからなのか。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「沖縄の報道の自由について「国境なき記者団」が「安倍首相就任以来、報道の自由への配慮が交代している。」と警告している」とのこと、
 「台湾中央通信社の楊明珠東京支局長は「日本のメディアは怯えすぎている。報道することで政権と堂々と対峙すればいい」と批判している」とのこと、等等を初めて知った。
 「沖縄の新聞は沖縄の人たちから、自分たちの代弁者として支持されている。」と、筆者は指摘する。
 半世紀近く朝日新聞を購読し、あわせて原発・反戦平和への一貫した姿勢をみて4年来東京新聞を購読している。新聞を買って、新聞を応援し、記事を読んでブログにアップして応援することにした。
 新聞社、テレビ局の幹部が定期的に首相と会食していることは、必ずしも悪ではないだろうが、「梨花に冠・瓜田にくつ」の戒めをメディアのトップこそ守るべきとは思っている。
 
 
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by sasakitosio | 2016-10-27 06:30 | 東京新聞を読んで | Trackback