憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

カテゴリ:今日の出会い( 46 )

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手賀沼の草原散歩。今日は数日前から捨ててある網、ところどころ穴が開いている網、を使って水路の端に伸びている草の下を、引網をした。田んぼの排水路のあちこちでヘラブナが産卵をしていたのは、連休前に確認していたので、稚魚が誕生していることは想像していたが、ステ網、破れ網、稚魚が3匹とモエビが数匹入った。モロコは背びれが釣り針に引っかかったのか赤く血がにじんでいた。稚魚とモロコとモエビに驚かせてゴメン!と言いながら、写真を撮ったらすぐ元の水路に放流した。元気でなーと声をかけながら!!

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by sasakitosio | 2017-06-08 14:12 | 今日の出会い | Trackback

<講釈話のように臨場感を漂わせて、経験話を語る―五島幸雄講師>
 東京司法書士会主催の刑事裁判実務研修の勉強会だ。
 第一回目は、8月27日「犯罪捜査と真実の発見」、第三回目は、9月10日「告訴・告発状の作り方~具体的な事例を基に!」。二回目は地元での準公務のため欠席。
 聴講生という立場だが、刑事事件の深さ、真実追求ぬの大変さを少し知ることができた気がした。
 犯罪被害者の無念を晴らすことになる捜査・起訴・処罰。
 犯罪被害者の泣き寝入りを防ぐ為の、告訴・告発。
 仕事と直接関係ない分野だが、社会理解の教養としていい勉強になった。
 また、テレビドラマのファンの一人として、現代版必殺仕置き人「ハングマン」が欲しくなった。
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by sasakitosio | 2016-09-10 19:44 | 今日の出会い | Trackback
 2月24日午後、「再び戦争させない1000人員会」の記者会見に同席した帰り、県庁記者クラブからJR千葉駅まで歩いた。健康のために往復歩いたが、帰りに信号待ちをして、ここは海抜3.5Mという電柱の看板が目に入った。道路のはす向かいには、デパート三越があった。
 こんなに駅に近い所が、海抜3.5Mしか高さがないことに驚いた。東京湾直下型地震で3.5Mの高さの津波がきたら、ここは水浸しになるのかもしれない。
 その時、12月15日付東京新聞の社説を思い出した。中で、「平均気温が4度上がると、東京、大阪、名古屋だけでも1700万人以上の居住地域が、海面下に沈むという研究成果もある」との記載を見て、にわかには信じがたいと思った。が、千葉駅近くの標高3.5Mの標識を見て、あらためて「かの研究成果」が大げさな数字でないような気がして来た。
 ちなみに、自分の住居にごく近い「一等水準点」の標高は21.67Mであった。
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by sasakitosio | 2016-02-25 20:27 | 今日の出会い | Trackback
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  再び戦争させない千葉県1000人委員会は、千葉県内の市民運動や労働組合と一緒に、「戦争法を使わせない・廃止を求める2.27千葉県民集会を、2月27日(土)14時から、千葉市中央公園で、開催します。
 応援に、評論家の佐高信氏も来て、激励のあいさつをされる予定です。

 
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by sasakitosio | 2016-02-15 17:27 | 今日の出会い | Trackback
 原子力ムラの対極、熊取6人組の安全ゼミ終わる。
 2月14日、YAHOO!ニュースで、「原子力ムラの対極」の見出しに引かれて、記事を読んだ。
 筆者は、ネットジャーナリストで元新聞記者・団藤保晴氏だ。今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「福島原発事故で原子力ムラが見せた狼狽と無責任の対極にある存在が、京大原子炉実験所を拠点とした批判科学者集団「熊取6人組」でした。
 2月10日、彼らが35年余り続けてきた原子力安全問題ゼミが幕を閉じました。グループ最期の実験所職員、助教の今中哲二さん(65)が定年退官するためです。
 最後の講演で今中さんが「行政の意思決定や政策実行にかかる人々、つまり役人や政治家に間違いや不作為があった場合には個人責任を問うシステムが必要だ」と締めくくりました。世界の原子力史で未曾有の惨状を招きながらぬくぬくとしている原子力ムラの政治家・官僚・学者への痛烈な非難です。
 <中略>
 その飯館村の今について今中さんは「除染という環境破壊が進み、惨憺たる有り様です。国は来年には村民を返す方針ながら、村民一人当たりで何千万円という無駄な除染費用を使っています」と主張します。
 個人の生活再建こそが目的のはずなのに、村の再建に目標がすり替わり、除染しても放射能レベルは半分にしかならないのですから多くの村民は帰村しないでしょう。
 <中略>
 この112回安全ゼミの最期で小出さんが厳しい発言をしています。「福島原発事故で出された原子力緊急事態宣言は5年経ってもまだ解除されていません。この宣言があるために放射線防護関連法令が停止され、これから何十年もこのままでしょう。それなのに経済優先の安倍内閣は「アンダーコントロール」と嘘をついてオリンピックを誘致しました。こんな国なら私は喜んで非国民になります」。他の地域なら放射線管理区域並びに汚染として禁じられる場所に、福島では人が住み、飲食して寝ているのです。
 <後略>
 読んで勉強になった。
 最期の講演での今中さんの「行政の意思決定や政策実行に関わる人々、つまり役人や政治家に間違いや不作為があった場合には個人責任を問うシステムが必要だ」との締めくくりの言葉は、原発事故で今明らかになり、過去の戦争でも当たっていると思った。
 戦争根絶請負法案なるものの話を聞いたことがある。その中身は、戦争に賛成した総理以下指導者及その家族を、前線へ直ちに派遣する、という中身であった。自分が痛い目に遭わない、自分は結果に対し無責任でおれる、ならどんな「危険・リスク」も気楽に決断できる。だから、リスク回避の最善の策は、直接の決定者に直接にリスクを負わせることではないか。
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by sasakitosio | 2016-02-15 13:52 | 今日の出会い | Trackback
 
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 2015.1.1午前のベルリンの日本大使公邸
2016年1月1日(金)ベルリン快晴、冷たし、歩く人まばら。
 前の夜、細かく予定を立てていたのだが、朝起きてまた気が変わった。
 6時前から朝の散歩。ホテルの前の大通りをまっすぐ歩くことにした。薄暗らがりのなか、歩道にはいろいろな花火の筒が散乱していた。
 道沿いに「桜」という名のレストランがあった。カウンター席とテーブル席で約50席あった。帰るまでに開いていたら、客になるつもりであったが、正月はお休みらしく、その希望はかなわなかった。
 7時近くにホテルで8時過ぎまでゆっくり食事。
 ①パン数種    全部少しづつ食す。
 ②ヨーグルト数種 全部少しづつ食し、2回目は気に入ったものだけ。
 ③ハムの数種 全て一切れづつ試し食べ。
 ④ジュース数種 少しづつ全部飲んでみる。
 ⑤果物 スイカ、パイナップル、ミカン、リンゴ、 
     バナナ等満足。
 ⑥甘味  蜂蜜、イチゴジャム、チョコレート、バ
      ター。
 ⑦コーヒー ボトルで、ミルク、砂糖。
  毎日、これで、朝食は今まで数カ国・数都市訪れたが、ベルリンのホテルが一番よかったような気がした。
 8時過ぎ、携帯、拡大鏡、腕時計、電子時計、電子辞書、タブロイド、お金・パスポートを、身に付けて、帽子は手賀沼歩きで使っているものをかぶり、出かけた。
 ちなみに、昨日はロシア(モスクワ)で買った、ヤクの毛皮の耳に覆いのある、モンゴル風で出かけた。
ホテルの前の道路を右折し、べルリンホテルの在る交差点を左折して、戦勝記念塔の手前の信号を右折して、林の中の道を歩く。まっすぐ行けば、ポツダム広場への道だ。
 途中、日本を含む、数カ国の大使館が右の林の中にあった。
 外国へ行って、ほっとするのは、日本の国旗と、日本の会社の支店の看板を見た時だ。また、何となく嬉しいのは、日本製の商品を街中で見る時だ。外国へ出ると、なぜか愛国者になってしまうから不思議だ。
 ところが、なぜか、1月1日の午前、大使公邸の菊の紋章のうえのポールには、日の丸が翻っていなかった。大使館の入り口はどうなっているかと、好奇心で行ってみたら、受付には明かりがついていて「外国人が2人」いてニコリともしなかった、受付の建物の後ろに、風になびく、一階くらいの高さで、日の丸がちらちら見えた。ほっとした。
 大通りを先に進むと、トルコの大使館(帰国後、国旗を調べて分かった)の中にある「数本の石碑」に全て落書きがされていた。現在は柵があって、中に入らなければ書くことも消すこともできない状態だ。不思議に思って、写真を撮ったり、何回も行き来していたら、警官二人がやってきて、質問を受けた。まず、警官のひとりが英語ができるかと質問してきた。少しできると答えて、大使館の中の石碑の落書きは、なぜかと質問した。そしたら、ドイツの統一前からあるとの答えであった。1987年ころとのことなら、今の警官が分かるわけはない、と勝手に納得して、バイバイ。
 先に進むと、黄色いユニークな建物が見えてきた。
 ベルリンフィルハーモニーの建物だ。入り口の柱を触りまくり、周りの写真を撮りまくった。
 近くに、ソニーセンターの高いガラス張りで半円形の建物が見えた。一体がショッピングモールになっていた。ガイドブックによると、年間数百万人が訪れる名所らしい。
 そこの十字路を左折すると、十字路に「ベルリンの壁の本物」が数ピースになって立っていた。そこに説明書きや壁の存在していた頃の、西側からのブランデンブルグ門の写真も掲示してあった。
 過去に壁があり、今撤去されたところは、道路に石が埋められ「ベルリンの壁の位置と方向」が分かるようになっていた。
 先に歩いて、ブランデンブルグ門を見て触りたいと思っていた。途中、道路の右側に「ホロコースト記念碑」が見えてきた、近づくと信号のところの標識に「Hannah-Arendt-Straʩe」を発見。ただ、どこの若者知らないが、ホロコーストの記念の石の上を敷石のように飛びながら歩いていた、のには驚いた。
 その近くに、ヒットラーが自殺した「地下壕の跡」を埋めた遺跡があった。掲示板風の看板が立っていた。それには、取り壊す前の建物の写真、当時の建物の配置図、ヒトラーの写真等が掲示してあった。
 周りには高層のアパートが囲み、ぽっかりと空いた空間には、大きな一抱えもあるポプラが一本立って、空き地は少し、おおくは駐車場になっていた。
 若もの一団にガイドらしき人が話をしている光景も1.2見ることができた。
 周りの灌木の写真、駐車所の写真、空き地の写真、と撮りまくって、ゆっくりここで時を過ごした。
 ポプラの大きさから言って、ヒトラーの姿と所業を見つづけていたのでないか、との思いで、木の幹にしっかり、何回も触ってきた。
 そこでトイレに行きたくなって、昨日確かめておいたデパートのトイレへ向かった。案内標識を頼りに、トイレを探し、やっとたどり着いたら、トイレの入り口のドアに鍵がかかっていて、使用不可。オーゴッド。
 仕方ないので、ヒトラーの自殺した「地下壕」近くの、有料トイレが開いていたのは、確認しておいたので、そこへ直行。公共トイレは50セントなのに、そこは1ユーロ請求された。
 トイレが済んで、ブランデンブルグ門まで、ベルリンの壁の跡をたどりながら。
 ブランデンブルグ門についてみると、昨日と今朝のカウントダウンの舞台や簡易トイレの片付けの最中で、昨日同様、門柱に触ることが出来ない。残念。
 ただここで気づいたのは、壁の跡を目で追うと、壁の跡はブランデンブルグ門の中ではなく、西ベルリンの方に回っているではないか。だから、ドイツ統一前は、ブランブルグ門は東ベルリンにあったことに、はじめて気づいた。
 そこで、ブランデンブルグ門を後にして、ポツダム広場前駅からU2(地下鉄)でウッテンベルグ駅を下車して、ホテルへ。ホテルで少し休んで、昨日調べておいた「ポツダム駅へ」行くことにした。切符は、ABC一日切符を買ってあるのでOK。
 そこで、午後2時3分頃、ウッテンベルグ駅からU2で動物園前駅へ、そこで近郊電車S7に乗り換えポツダム駅へ。ポツダムは日本が無条件降伏した「ポツダム宣言」の出された街だ。
 会議が開かれた「お城」までは、時間の関係で行けなくとも、せめて「ポツダム駅」を降りて、駅の周りを見たかった。
 子ども頃の遠足のように、ワクワクする気持ちで電車に乗った。林の中を、霧に包まれて、電車は走る。
 たまたま、貸しきり状態の電車で、前にいた若い女性(美人)が、私のはしゃぎ様を見て、ニコッとした。
 くしゃみをして、またニコッとした。
 終点のポツダム駅のいくつか前で、下車するときに又、ニコッと。
 その時、ふと思った。
 笑顔は世界の共通語。
 勝手に、A smiling face is world common speech.と考えた。
 ポツダムの駅を降りて、駅の内外を写真に撮りまくり、帰りはポツダム駅(U7)で動物園前駅下車。歩いて
ホテルへ。日が暮れた帰り道、照明で輝く「カイザー・ヴィルヘルム記念教会」の前に、夜店が沢山出ていたので、寄り道した。屋台の店を覗いたり、教会に入って、モザイクや壁画を見た。
 暗い夜空に、ベンツのマークが白く光っていた。その奥に、ホテルの建物が昼間なら見えたはずだ。
 ホテルに帰り、日本から持参した、非常用の食料を全て食べつくす。明日、午後はホテルのチェックアウトだ。
 
 
 
2016年1月1日(金)ベルリン快晴、冷たし、歩く人まばら。
 前の夜、細かく予定を立てていたのだが、朝起きてまた気が変わった。
 6時前から朝の散歩。ホテルの前の大通りをまっすぐ歩くことにした。薄暗らがりのなか、歩道にはいろいろな花火の筒が散乱していた。
 道沿いに「桜」という名のレストランがあった。カウンター席とテーブル席で約50席あった。帰るまでに開いていたら、客になるつもりであったが、正月はお休みらしく、その希望はかなわなかった。
 7時近くにホテルで8時過ぎまでゆっくり食事。
 ①パン数種    全部少しづつ食す。
 ②ヨーグルト数種 全部少しづつ食し、2回目は気に入ったものだけ。
 ③ハムの数種 全て一切れづつ試し食べ。
 ④ジュース数種 少しづつ全部飲んでみる。
 ⑤果物 スイカ、パイナップル、ミカン、リンゴ、 
     バナナ等満足。
 ⑥甘味  蜂蜜、イチゴジャム、チョコレート、バ
      ター。
 ⑦コーヒー ボトルで、ミルク、砂糖。
  毎日、これで、朝食は今まで数カ国・数都市訪れたが、ベルリンのホテルが一番よかったような気がした。
 8時過ぎ、携帯、拡大鏡、腕時計、電子時計、電子辞書、タブロイド、お金・パスポートを、身に付けて、帽子は手賀沼歩きで使っているものをかぶり、出かけた。
 ちなみに、昨日はロシア(モスクワ)で買った、ヤクの毛皮の耳に覆いのある、モンゴル風で出かけた。
ホテルの前の道路を右折し、べルリンホテルの或る交差点を左折して、戦勝記念塔の手前の信号を右折して、林の中の道を歩く。まっすぐ行けば、ポツダム広場への道だ。
 途中、日本を含む、数カ国の大使館が右の林の中にあった。
 外国へ行って、ほっとするのは、日本の国旗と、日本の会社の支店の看板を見た時だ。また、何となく嬉しいのは、日本製の商品を街中で見る時だ。外国へ出ると、なぜか愛国者になってしまうから不思議だ。
 ところが、なぜか、1月1日の午前、大使公邸の菊の紋章のうえのポールには、日の丸が翻っていなかった。大使館の入り口はどうなっているかと、好奇心で行ってみたら、受付には明かりがついていて「外国人が2人」いてニコリともしなかった、受付の建物の後ろに、風になびく、一階くらいの高さで、日の丸がちらちら見えた。ほっとした。
 前にはイタリアの大使館があった。
 大通りを先に進むと、トルコの大使館(帰国後、国旗を調べて分かった)の中にある「数本の石碑」に全て落書きがされていた。現在は柵があって、中に入らなければ書くことも消すこともできない状態が。不思議に思って、写真を撮ったり、何回も行き来していたら、警官二人がやってきて、質問を受けた。まず、警官のひとりが英語ができるかと質問してきた。少しできると答えて、大使館の中の石碑の落書きは、なぜかと質問した。そしたら、ドイツの統一前からある都の答えであった。1987年ころとのことなら、今の警官が分かるわけはない、と勝手に納得して、バイバイ。
 先に進むと、黄色いユニークな建物が見えてきた。
 ベルリンフィルハーモニーの建物だ。入り口の柱を触りまくり、周りの写真を撮りまくった。
 近くに、ソニーセンターの高いガラス張りで半円形の建物が見えた。一体がショッピングモールになっていた。ガイドブックによると、年間数百万人が訪れる名所らしい。
 そこの十字路を左折すると、十字路に「ベルリンの壁の本物」が数ピースになって立っていた。そこに説明書きや壁の遇った頃の、西側からのブランデンブルグ門の写真も掲示してあった。
 過去に壁があり、今撤去されたところは、道路に石が埋められ「ベルリンの壁の位置と方向」が分かるようになっていた。先に歩いて、ブランデンブルグ門を見て触りたいと思っていた。途中、道路の右側に「ホロコースト記念碑」が見えてきた、近づくと信号のところの標識に「Hannah-Arendt-Straʩe」を発見。ただ、どこの若者知らないが、ホロコーストの記念の石の上を敷石のように飛びありていた、のには驚いた。
 その近くに、ヒットラーが自殺した「地下壕の跡」を埋めた遺跡があった。掲示板風の看板が立っていた。それには、取り壊す前の建物の写真、当時の建物の配置図、ヒトラーの写真等が掲示してあった。
 周りには高層のアパートが囲み、ぽっかりと空いた空間には、大きな一抱えもあるポプラが一本立って、空き地少し、おおくは駐車場になっていた。
 若もの一団にガイドらしき人が話をしている光景も1.2見ることができた。
 周りの灌木の写真、駐車所の写真、空き地の写真、と撮りまくって、ゆっくりここで時を過ごした。
 ポプラの大きさから言って、ヒトラーの姿と所業を見つづけていたのでないかと、との思いで、木の幹にしっかり、何回も触ってきた。
 そこでトイレに行きたくなって、昨日確かめておいたデパートのトイレへ向かった。案内標識を頼りに、トイレウィ探し、やっとたどり着いたら、といれの入り口のドアに鍵がかかっていて、使用不可。オーゴッド。
 仕方ないので、ヒトラーの自殺した「地下壕」近くの、有料トイレが開いていたのは、確認しておいたので、そこへ直行。公共トイレは50セントなのに、そこは1ユーロ請求された。
 トイレが済んで、ブランデンブルグ門まで、ベルリンの壁の跡をたどりながら。
 ブランデンブルグ門についてみると、昨日と今朝のカウントダウンの舞台や簡易トイレの片付けの最中で、昨日同様、門柱に触ることが出来ない。残念。
 ただここで気づいたのは、壁の跡を目で追うと、壁の跡はブラんでンブルグ門の中ではなく、西側ベルリンの方に回っているではないか。だから、ドイツ統一前は、ブラんでンブル門は東ベルリンにあったことに、はじめて気づいた。
 そこで、ブランデンブルグ門を後にして、ポツダム広場前駅からU2でウッテンベルグ駅を下車して、ホテルへ。ホテルで少し休んで、機能調べておいた「ポツダム駅へ」行くことにした。切符は、ABC一日切符を買ってあるのでOK。
 そこで、午後2時3分頃、ウッテンベルグ駅からU2で動物園前駅へ、そこで近郊電車S7に乗り換えポツダム駅へ。ポツダムは日本が無条件降伏した「ポツダム宣言」の出された街だ。
 会議が開かれた「お城」までは、時間の関係で行けなくとも、せめて「ポツダム駅」を降りて、駅の周りを見たかった。
 子ども頃の遠足のように、ワクワクする気持ちで電車に乗った。林の中を、霧に包まれて、電車は走る。
 たまたま、貸しきり状態の電車で、前にいた若い女性(美人)が、私のはしゃぎ様を見て、ニコッとした。
 くしゃみをして、またニコッとした。
 終点のポツダム駅のいくつか前で、下車するときに又、ニコッと。
 その時、ふと思った。
 笑顔は世界の共通語。
 勝手に、A smiling face is world common speech.と考えた。
ポツダムの駅を降りて、駅の内外を写真に撮りまくり、帰りはポツダム駅(U7)で動物園前駅下車。歩いて
ホテルへ。日が暮れた帰り道、照明で輝く「カイザー・ヴィルヘルム記念教会の前が夜店が沢山出ていたので、寄り道した。屋台の店を覗いたり、教会に入って、モザイクや壁画を見た。
 暗い夜空に、ベンツのマークが白く光っていた。その奥に、ホテルの建物が昼間なら見えたはずだ。
 ホテルに帰り、日本から持参した、非常用の食料を全て食べつくす。明日、午後はホテルのチェックアウトだ。
 
 
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by sasakitosio | 2016-01-24 18:07 | 今日の出会い | Trackback
 12月31日(木)、快晴。
 朝の4時30分日本からのメールが届いた。日本との時差が8時間だから、日本では、午後8時半のはずだ。返信メールを送った。
 それから、電車の地図を調べて6時に食堂へ行ったら、オープンは6時30分とのこと。ならば、そとの寒さと地理を調べるため外出。まだ薄暗い街の中をきょろきょろ歩くと、いろいろのものが見られて楽しい。
 6時半にホテルに戻り、一時間半かけてゆっくり、よく噛んで、十分食べる。薄いが固いパンを食べていて、歯が1本折れた。後で気が付いたことだが、入れ歯の前歯がおれた。
 入れ歯だから折れても全く痛まないが、見た目が悪いし、上唇がひっかっかて、具合が悪い。入れ歯の予備を持ってきていたので、さっそく取り替えた。しかし、噛み合わせが悪くて食べられない。入れ歯とは、そんなものだった。
 8時半頃、ホテルの前の道を、まず左に行けるだけ行って戻ってきて、こんどは右に行けるだけ行って戻ってくる。ならば、まず同じ場所に戻ってこれる。知らないところで、道に迷わない「方法」で、外国歩きではいつも実践している。
 つもりで、ホテルを出たが、歩いているうちに、ZOO駅(動物園駅)のU2の駅についてしまった。
 途中、道の左側に、カイザー・ヴィルヘルム記念教会があった。振り返れば、ホテルの宣伝の文字が高いホテルの上部に見られた。そうか、それだけ近いところに、ZOO駅があったということだった。地図では大分遠くだと思えたが、歩けばすぐの距離であった。
 遠出をする予定ではなかったので、地図とタブレット、携帯、電子辞書、拡大鏡、お金、パスポートは持ったが、薬類はまったくもっていなかった。
 しかし、予定を急きょ変更。一人の気まま旅ならではの急変だ。
 ZOO駅から、ポツダム広場駅に下車し(ソニーセンター、モール等を見ながら)歩き回り、ポツダム広場から地下鉄に乗って、アレキサンダー広場駅で下車し(テレビ塔、赤の市庁舎等を見ながら)歩き回り、またアレキサンダー広場駅から地下鉄に乗って終点の「PANKOW」の駅まで行き、駅周辺を歩き回り、田舎の写真をとって、ZOO駅に引き換えし、ホテルへ午後一時ころ着いた。ホテルでしばし休憩し、2時過ぎに歩いて、戦勝記念塔をの下を通って、ブランデンブルグ門までいくことにして出発。高い塔が目標になって、道には全く迷うことはなく、大きな森の間の広い通りを歩く。ブランデンブルグ門までの片道3車線、歩道ありの広い道路が、歩行者天国のようになって、クルマは通行止めになっていた。ブランデンブルグ門までの2キロ足らずの間に3か所も検問があり、一車線分もある左右の歩道に、臨時のトイレが数えきれないほど設置されていた。ちなみに、第一検問所で、通行許可の「紙のリング」は、今もタブレットの袋の紐に付けてある。
 ようやく、ブランデンブルグ門の近くについても、門前には大きな舞台が設置され、制止テープがはりめぐらされ門に近づき、触ることはできなかった。やむを得ず写真で我慢。
 年末年始、ベルリンのカウントダウンという、祭りらしい。
 やむをえず、あるいて、ホテルへ4時頃着いた。外はもう薄暗い。
 お湯を貰って、ホテルの自室で、日本から持ってきた「食材」で、自炊だ。
 明日はヒトラーの自殺した「地下室」のあった跡をぜひ見たいと思っている。
 
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by sasakitosio | 2016-01-21 06:59 | 今日の出会い | Trackback

 ベルリン着いての二日目(12月30日)は、日本語ガイドを一人、9時から14時まで確保し、ベルリンに行く目的の一つ「ザクセンハウゼン強制収容所」へ、公共交通機関を使って、行く予定になっていた。
 ホテルで朝食(極めて豪華なメニュー)を6時半から約1時間で済ませ、ホテルのロビーで待っていると、ほどなく、日本人の男性が、来てくれた。
 後でわかったことであるが、ベルリン滞在、35年のベテランガイドであった。ラッキー!!
 ホテルの前から、バスに乗って「ポツダム広場」まで、それからSバーン(近郊電車)の1番に乗って、約45分で、終点のオラーニエンブルグ駅に着く。
 ここから徒歩20分とガイドブックに書いてあったが、バス、地下鉄、近郊電車全ての交通機関に、一日乗り放題の切符を買ったので、バスで行くことにした。バス停は、外国人観光客であふれていたが、事情を知っている「日本人ベテランガイド」の段取りよろしきを得て、二人とも終点まで座っていけた。
 終点が、目指す、ザクセンハウゼン強制収容所前だ。
 建物の入り口には、ドイツ語で「労働は自由にする」の標語が刻まれていた。
 この収容所は、「ハインリヒ・ヒムラーの命によってたてられた1936年から45年までの間に、政治犯やユダヤ人、第二次世界大戦開始後は他のヨーロッパ諸国からの捕虜など20万人もの人々がここに収容され、飢えや強制労働、SSの組織的な虐殺などで、数万人が命を落とした」と、ガイドブックに書いてあった。
 日本人ガイドの話では、時間を十分取っての「視察」であるため、日本からの団体さんの案内では案内しきれない「場所」も案内できてよかった、とのことであった。 
 確かに、ガイドブックに書いてあった、「オリジナルの状態で残る数少ないバラック38.39や独房棟」、「銃殺が行われた壕や、火葬場」、「東ドイツ時代に建てられた、警告碑」、等々をつぶさに、思いを過去に馳せながら、じっくりと時間を気にせず見てきた。ガイドが教えてくれた、収容所の塀の外側に、手つかずに残っている壊れかかっている「建物」が、 当時の生き証人として、建ち続けている様な気がして、手を合わせ、写真機を柵の外に向けて撮り続けた。
 予定の時間をオーバーしたが、ガイドは気にせず、次の予定地「テロのトポグラフィー」という情報センターに案内してくれた。
 この施設に入る前に、今も残されている「ベルリンの壁」に案内され、その壁に触って、写真を撮った。
 その場所が「ゲシュタポ本部や親衛隊保安部、帝国保安中央局など、国家のテロ機構が集中していた」場所であった、とガイドブックに書いてあった。
 「テロのトポグラフィー」のパネルの中には、ヒトラーやヒムラー、熱狂的にヒトラーに敬礼する人々、強制収容所女性看守たちの笑顔が見られる。また、カラフルなカードが立体的に浮き上がったコーナーは、裁判にかけられた人と有罪判決が下った人のカードだ。ごく普通の人たちのようだ。日本ではありえない光景だと思った。
 予約した時間を2時間もオーバーしてのガイドの案内であった。充実した、視察が出来たので、失礼を承知で、お礼を「気持ち」支払った。
 ガイドブックに書いてあった「カレーソーセージ」が名物らしいが、ガイドにすすめられて、ポツダム広場の屋台の店で買って、二人で、ガス灯のような上からの火の暖かい「ストーブ」の横で、「カレーソーセージ」を食べた。大して辛くなかったので、辛いのが苦手な自分には、助かった。
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by sasakitosio | 2016-01-15 06:44 | 今日の出会い | Trackback
 成田からフィンランド航空AY074便で、11時55分発、ヘルシンキ15時20分着の予定。行きは27A席、窓側だ。
 沈まぬ太陽を見ながら、シベリアの地上を見ながら、約11時間のフライトだ。機内に日本人女性の添乗員がいてくれた事は、大変心強かった。
 一年前にベルリンと決め、ガイドブック3冊、現地地図を八重洲ブックセンターまで行って一部購入、ドイツ語の学習本を2冊、ネットで調べ、ブラデンブルグ門に触る、ザクセンハウゼン強制収容所、ホロコースト、ヒトラーの地下壕跡、等に立つ、それらを目指しての一人旅。昨年の1月ベルリンを訪れた人から、街はスッポリ冷凍庫の中のように、寒かったと聞いていたので、その点緊張していた。
 初めての、ドイツでもあり、日程もごく短いので、効率よく回るために、日本語のできるガイドを日本で予約し、準備おさおさ怠りなし。機内では、隣に若い日本人らしい人と隣り合わせた。若い女性は、じじいと話をしたがらないはずだと決めつけて、何時間も会話なしで、ドイツのガイドブックを読んでいたが、機内食の受け渡しで始まった会話で、彼女はMAJAさんと言って年は20歳、生まれ中国{中国人}国籍はフィンランド人、日本に語学留学に来ていて、正月休みに実家のフィンランドに帰るとのこと。ちなみに父親はフィンランド人で母親も北欧の人とのことで、養子になったとのこと。そして兄もコロンビア人で養子とのこと。きいて、びっくり。その家族に、人類は皆兄弟の実践を見るようで、別れ際に、お父さんお母さんは素晴らしい人だ、よろしくお伝えくださいと、言ってしまった。
 予定よりヘルシンキへ40分ほど早く着いた。機長の話では、時速100キロの追い風があったとのこと。
 ヘルシンキ空港ははじめて、しかも、成田でもらった航空券には、ターミナル番号は書いてあるが、GATE番号は書いてない。どうしたものかと、ボードを探しながら歩いていたら、日本人の女性が曲がり角にいて、ゲート番号を教えてくれた。服装からして、日航の職員らしい。実に、ありがたかった。
 ヘルシンキ空港に待つこと約4時間。空港をたって、約2時間、ベルリンのテーゲル空港へ無事ついた。
 出口に、HISのボードを持った中年の女性が、私の顔を見てニコニコ。見渡せば、日本人は、私ひとりであった。
 ハイヤーでホテルへ。ホテルのチェックインを済ませて、彼女はバイバイ。思ったより、いいホテル。市の中心街にあり、交通の便もよかった。後の祭りであったが、出迎えの日本語ガイド実に気が利いていた。その中年女性ガイドが切符の買い方、ブランデンブルグ門のカウントダウンの通行禁止の様子を教えてくれ、30日に行った方がいいと、貴重なアドバイスがあった。そのことの意味が後でわかった。31日午前、1日午前、2日午後、三回ブランデンブルグ門へいっても、通行禁止の囲いが解かれていなくて、念願の門の柱に触ることが出来なかった。写真は十分とったが。 妻に、ホテルに無事着いた旨のメールを送る。
 明日は九時に、日本語ガイドが迎えに来て、一緒にザクセンハウゼン強制収容所に行くことになっている。
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by sasakitosio | 2016-01-09 07:13 | 今日の出会い | Trackback
ブランデンブルグ門は、カウントダウンの準備と後片付けで、31日、1日、2日とも囲いで触れず!!ものすごく、残念だった。でも、たくさんの笑顔に出会えた、楽しく、充実した年末年始の一人旅であった。
 昨日(1月3日)日本時間で午後5時頃成田に着いた。29日からたった6日の旅だったが、日本でのすべを忘れ、思いっきりベルリンを電車に乗り、地下鉄に乗り、バスに降り、朝も暗いうちから歩き回り、ベルリンとドイツでのすばらしい出会いであった。
 飛行機での若者たちとの隣席、搭乗待ちでの赤ちゃんたちとの出会い、ポツダム駅へ(終点)のガラガラで電車で前の席に座った「若い女性」、帰りのJALメンバーの女性たちの、日本語通訳の三人の男女、それぞれの笑顔と出会った。
 笑顔は、世界の共通語!!
 スマイリーフェイス、イズ、ワールド、コモン、ワード!!和製英語ならぬ私製英語?
 驚いたことは、1月1日、日本大使館の前の道、大きな森の反対側の道を歩いて、白い大きな宮殿の様な建物に「日本大使公邸」と銘が刻んであり、その建物の屋根の天辺にポールが立っていたが、見たいと思ていた「日本の国旗」がない。
 国旗も正月休みかと、一瞬がっかり。しかし、大使館の入り口・受け付けは、どうなっているか確かめたく、迂回したら、低く「日本の国旗」は旗めいていた。受け付けを覗くと、二人の日本人の若者でない男性がいた。めったに人が訪れないのか、変な日本人だと思ったのか、ニコリともしなかった。こここそ、笑顔が欲しいところのような気がした。
 も一つの驚きは、ブランデンブルグ門が、私が体験しただけで3日間立ち入り禁止なっていたことだ。手順が悪いのではないかと、希望が実現されなかった腹立たしさもあって、つい愚痴がでた。
 感心したのは、ナチに対して、いまだに徹底した批判がベルリンの町中にあることであった。
 日本との違いは、何だろうか?
 結果だけ見ると、ナチ体制を革命的に、徹底的に、社会の隅々までに、指導者から命令に従っただけのものまで含め徹底的に、ドイツ社会から一掃した、一掃できた、いや一掃しなければならなかった、ドイツの歴史をかいま見た気がした。
 そんな旅であった。
 
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by sasakitosio | 2016-01-04 07:51 | 今日の出会い | Trackback