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by sasakitosio

カテゴリ:「21世紀の資本」学習ノート( 18 )

 今日は、おわりにの内、「政治歴史経済学にむけて」を学習することにした。
 筆者は、「最後に、経済学と社会科学についても一言述べておきたい。「はじめに」ではっきり述べた通り、私は経済学が社会科学の下位分野だと思っており、歴史学、社会学、人類学、政治学と並ぶものと考えている。それがどういうことか、読者が本書を読んで理解していただけたと期待するものだ。私は「経済科学」という」表現が嫌いだ。この表現はとんでもなく傲慢に聞こえる。経済学が他の社会科学に比べてもっと高い地位を実現したかのような含みがあるからだ。私は「政治経済学」という言い方のほうがずっと気に入っている。これはいささか古風に聞こえる構知れないが、でも私にとっては経済学を他の政治科学から区別する、唯一の点を伝えるものなのだ。その点とは、それが待つ政治的、規範的で、道徳的な目的だ。
 誕生のときからずっと、政治経済学は科学的に、あるいは少なくとも合理的に、系統的に、一貫性を持って、経済的、社会的なまとまりにおける国家の理想的な役割を研究しようとするものだった。そこで問われた問題とは次のようなものだった。
 どんな公共政策や制度が私たちを理想社会に近づけてくれるのか?
 どんな市民でも一家言を持っている善と悪について研究しようという慎み知らずの野心を見て、笑ってしまう読者もいるだろう。
 たしかに、この野心はしばしば実現されないままだ。
 でもそれは、必要であり、本当に不可欠な目標でもある。
 というのも社会科学者たちにとっては、公共論争から引っ込んで政治的対決を避け、他人の見解やデータに対する評論家や脱構築屋の役割だけに安住してしまうというのはあまりにも安易だからだ。
 社会科学者たちは、あらゆる知識人、あらゆる市民と同様に、公共論争に参加すべきなのだ。正義だの民主主義だの世界平和だの、壮大ながら抽象的な原則を持ち出すだけで事足れりとしてはならない。自分で選択をおこない、具体的な制度や政策について何らかの立場をとらねばならない。それが社会国家であれ、税制であれ、公的債務であれ。万人は独自のやり方で政治的だ。
 世界は、政治的エリートと、(4.5年に一度投票用紙を投票箱に入れるだけの責任しかない)評論家や野次馬の軍団とに二分されるわけではないのだ。学者と市民が別々の道徳宇宙に住んでいて、前者は手法を考え、後者は目標を考えるというのは幻想だと私は信じている。気持ちは分かるのだが、それでもこの見方は最終的には危険な発想ではないだろうか。
 あまりに長きにわたり、経済学者たちは自分たちを、その科学的と称する手法で定義づけようとしてきた。実はこうした手法は、数学モデルの過剰な使い過ぎに依存したものでしかない。過剰な数式モデルはしばしば、単なる埋め草であり、内容の空疎さを隠す口実でしかなかった。あまりに多くのエネルギーが、これまでも今でも、純粋に理論的な考察に無駄遣いされ、そこで経済学者が説明しようとしているけいざいてきな事実認識も明確でないし、解決しようとしている社会問題や政治問題の実情すら明確にされていない。今日の経済学者たちは、対照実験に基づく実証手法にえらく夢中だ。適度に使うなら、こうした手法は有益なこともあるし、一部の経済学者の目に具体的な問題と、その分野の直接的な知見に向けたという点(こうした展開はすでに遅すぎるくらいだ)では賛美すべきものだ。でもこうした新しいアプローチ自体も、ときにある種の科学性の幻想にしがみついてしまう。たとえば純粋かつ本物の因果関係の存在を証明するのに多大な手間暇をかけつつ、その問題がそれほど興味深いものではないことを忘れてしまうことだってあり得る。
 新手法はしばしば歴史の無視につながり、歴史的な経験こそが今でも主要な知識の源泉なのだという事実も見失わせてしまう。第一次世界大戦がまったく起らなかったことにしても20世紀の歴史を繰り返すことはできないし、所得税とペイゴー方式年金が創られななかったことにして歴史を再現することもできない。たしかに歴史的な因果性は常に、まったく疑問の余地なく証明するのはむずかしい。ある政策がこれこれの効果を待っていたか、本当に確信できるだろうか。それともそこに何か別の因果関係が作用した可能性はあるのか?それでも、歴史から導ける不完全な教訓、特に20世紀を観察して得られる教訓は、計り知れない比類なき価値をもつものであり、どんな対象実験をしてみても決してそれにかなうはずもない。経済学者たちが役に立とうと思えば、まず自分の手法的な選択においてもっと現実主義的になり、手持ちのあらゆるツールを活用して、他の社会科学の分野ともっと密接に強力することを学ばければならない。
 逆に、他の分野にいる社会学者たちは、経済的な事実の研究を経済学者たちに委ねたままではいけないし、数字が出てきただけで震えあがって逃げ出したり、あらゆる統計など社会的構築物でしかないなどというだけで満足したりするようではだめだ。もちろん社会構築物だというのは事実であるが、それでは不十分なのだ。逃げるのも社会構築物だと言うのも、根っこでは同じでしかない。それはその分野を他人に明け渡すということだからだ。」と教えてくれる。
 読んで、勉強になった。 
 筆者は、「誕生の時からずっと、政治経済学は科学的に、あるいは少なくとも合理的に、系統的に、一貫性を持って、経済的、社会的なまとまりにおける国家の理想的な役割を研究しようとするものだった。」、
 また筆者は、「社会科学者たちは、あらゆる知識人や脱構築屋と同様に公共論争に参加すべきなのだ。」、
 「自分で選択を行い、具体的な制度や政策について何らかの立場を採らなければならない。それが社会国家であれ、税制であれ、公的債務であれ。」、等々とも教えてくれる。
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by sasakitosio | 2015-08-25 19:56 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback

 今日は、おわりにの中の「資本主義の中心的な矛盾――――r>g」を学習することにした。
 著者は、「これまで、18世紀以来の富と所得の分配動学をめぐる歴史的知識の現状を示して来たし、この知識から今後の世紀のための教訓もいろいろ引き出そうとして見た。
 繰り返そう、本書が利用した情報源は、これまでの著者の誰がまとめたよりもずっと包括的だが、それでも不完全だし不十分だ。私の結論はすべて、本質的に仮のものであり、疑問視して論争すべきものだ。社会科学研究の目的は、各種の意見がすべて代表された、オープンな民主論争にとって代わるような数学的確実性を作り出すことではない。」と述べた上で、[資本主義の中心的な矛盾―――r>g]についての項目を書き始めた。
 まず筆者は、「本研究の総合的な結論は、民間財産に基づく市場経済は、放置するなら、強力な収斂の力を持っているということだ。これは特に知識と技能の拡散と関連したものだ。でも一方で、格差拡大の強力な力もそこにある。これは民主主義社会や、それが根ざす社会正義の価値観を脅かしかねない。
 不安定化をもたらす主要な力は、民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期にわたって大幅に上回り得るという事実と関係がある。
 不等式r>gは、過去に蓄積された富が産出や賃金より急成長することだ。
この不等式は根本的にな論理矛盾を示している。事業者はどうしても不労所得生活者になってしまいがちで、労働以外のなにももたない人々に対してますます支配的な存在となる。いったん生まれた資本は、産出が増えるよりも急速に再生産する。過去が未来を食い尽くすのだ。
 これが長期的な富の分配動学にもたらす結果は、潜在的にかなり恐ろしいものだ。特に資本収益率が、当初の資本規模に直接比例して増えるということまで考慮するとその懸念は高まる。
そして、この富の分配の格差拡大は世界的な規模で起こっているのだ。
 この問題は巨大だし、単純な解決策はない。もちろん教育、知識、非公害技術などに投資することで成長を促進はできる。でもこのどれも、成長を年率4――5%に引き上げたりはしない。歴史的に見て、そんな勢いで成長できるのは先にゆく経済に追いつこうとしている国だけだ。――たとえば第二次世界大戦後30年間のヨーロッパや、現在の中国など新興国だ。世界の技術最前線にいる国にとってーーーそしてつまりいずれ全世界にとってーーーどんな経済政策を採用しようとも、成長率が長期的には1-1.5%を超えないだろうと考えるべき理由はたくさんある。
 平均資本収益率4――5%だと、21世紀にはまたもやr>gが普通になる可能性が高い。第一次世界大戦前夜までは、それが歴史を通じてずっと普通だったのだ。20世紀になって、過去をぬぐい去り資本収益率を大幅に引き下げ、資本主義の根本的な構造矛盾(r>g)が克服されたいう幻想をつくり出すには、2回の世界大戦が必要だった。
 たしかに、資本所得に重税を賭けて、民間資本収益率を成長率より下げることはできる。でもこれを無差別かつ強硬に実施したら、蓄積の原動力を殺しかねず、成長率をさらに引き下げかねない。すると事業者たちは不労所得者になる暇がなくなる。もう事業者もいなくなってしまうからだ。
 正しい解決策は資本に対する年次累進課税だ。これにより、果てしない不平等スパイラルを避けつつ、一時貯蓄の新しい機会を作る競争とインセンティブは保持される。たとえば、私の本書で100万ユーロ以下の財産に0.1から0.5%、100—500万ニューロの財産には1%500—1000万ユーロに対しては2%、数億や数十億ユーロの財産には5か10%という資本税率表を支持した。これは世界的な富の格差の無制限な拡大を抑える。この格差増大は、今や長期的には持続不可能な率で高まっているし、、これは自律的な市場の最も熱狂的な支持者ですら懸念すべき水準だ。さらに歴史的な実例を見ると、こうしたすさまじい富の格差は、起業精神などとはほとんど関係ないし、成長促進にも全く役に立たない。またそれは、本書の冒頭で引用した1789年フランス人権宣言にある「共同の利益」などいっさいもたらさない。
 むずかしいのはこの解決策は、つまり累進資本課税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。これは、すでに社会的な同意への基盤が存在する国民国家を超えた問題だ。多くの人々は。たとえばEU内などでさらなる協力と政治的統合に向けて動けば、既存の成果(その筆頭は20世紀のショックへの対応としてヨーロッパ各国が構築した社会国家だ)をダメにするだけなのではとしんぱいしているし、それだけの犠牲を払っても生まれるのは、ますます純粋で完全な競争から予測される広大な市場以外に何もないのではと懸念している。でも純粋で完全な競争は不等式r>gを変えられない。これは市場の「不完全性」のせいで生じたものではないからだ。その正反対だ。たしかにリスクはあるが、私にまともな代替案が思いつかない。資本主義のコントロールを取り戻したいのであれば、すべて民主主義に賭けるしかない。――そしてヨーロッパでは、それはヨーロッパ規模の民主主義であるべきだ。米国や中国などもっと大きな政治コミニティにはもっと広い選択肢があるが、ヨーロッパの小国はいずれも世界経済から見て本当に極めて小国になってしまうだろうし、自国に引きこもれば現在EUに対するよりもはるかにひどい不満と失望が待っているだけなのだ。各種の社会財政政策を現代化し、新しいガバナンス形態を開発して、民間所有と公共所有権を創るにはーーーこれはこれからの世紀において大きな課題のひとつだーーやはり国民
国家が適正な規模となる。でも21世紀のグローバル化した世襲資本主義に対する有効な規制につながるのは、地域的な政治統合だけなのだ。」としている。
 読書の習慣は人によって異なるだろうが、自分はまず「はじめに」を読んで、次に「おわりに」を読み、それから「第一章から終章」へと進むことにしている。
 そこで前回までが、「はじめに」を項目ごとにオンし、これからが「おわりに」の項目を追ってゆくことにする。
 読んで、大変勉強になり、理解が進んだ。
 筆者は、「本研究の総合的な結論は、民間財産に基づく市場経済は、放置するなら、強力な収斂の力を持っているということだ。これは特に知識と技能の拡散と関連したものだ。
 でも一方で、格差拡大の強力な力もそこにはある。これは民主義社会や、それに根ざす社会正義の価値観を脅かしかねない。」とし、
 「不安定化をもたらす主要な力は、民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期にわたって大幅に上回るという事実と関係がある。」と教えてくれる。
 また、筆者は、「不等式r>gは、過去に蓄積された富が産出や賃金より急成長するということだ。」といい、
 「この富の分配の格差拡大は世界的規模で起っているのだ。」といい、
 「この格差増大は、いまや長期的には持続不可能な率でたかまっている。」といい、
 「正しい解決策は資本に対する年次累進課税だ」といい、
 「むずかしいのはこの解決策、つまり累進資本税が、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とすることだ。」と教えてくれる。よく分かった。
 筆者がむずかしいという「高度な国際協力」と「地域的な政治統合」の実現は、世界平和の構築にとっても不可欠なことだと思った。
 
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by sasakitosio | 2015-08-11 18:12 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 はじめにの中、36頁の「本書の概要」という項目を学習することにした。
 著者は「この先の本書は全16章で、それが4部に分かれる。第Ⅰ部「所得と資本」は2章構成で、本書で何度も使われる基本的な概念を紹介する。細かく言うと、第一章では国民所得、資本、資本/所得比率の概念を紹介し、世界の所得分布と産出がどう推移してきたかを大ざっぱに描き出す。
 第2章はもっと詳細な分析で、人口増加率と産出の成長率が産業革命以来どう推移したかを示す。この第Ⅰ部には目新しいことは何も書いてないのでこうした概念や18世紀以来の世界経済の成長史を知っている読者は、ここを飛ばしてすぐに第Ⅱ部にとりかかってかまわない。
 第Ⅱ部「資本/所得比率の動学」は4章構成で、資本/所得比率の長期的な推移の見通しと、21世紀に国民所得が労働と資本の間でどう分配されるかを世界全体で検討する。第3章は18世紀以来の資本の変容を切る。長期的なデータが最もそろっているイギリスとフランスの例から始めよう。第4章ではドイツと米国を検討する。第5章と6章は分析の地理的な範囲を情報源の許すかぎりの全世界に広げ、こうした歴史的体験すべてから教訓を引き出すことで、今後数十年にわたる資本/所得比率の動向、および資本と労働の構成比率を予想できるようにしよう。
 第Ⅲ部は「格差の構造」は、全6章から成る。第7章は、労働からの所得の分配による格差がどのくらいで、資本所有の格差と資本所得による格差が実のところどのくらいなのかという規模感を読者に理解していただくものだ。第9章と10章は、その分析を歴史的データのそろっている(WTIOにデータのある)すべての国に拡大し、労働に関わる格差と資本による格差を分けて検討する。第11章は、長期的にみた相続財産の重要性の変化を検討する。そして最後に第12章は21世紀最初の数十年における世界的な富の分配見通しを検討する。
 これまでの3部は、事実を確立してそうした変化の原因を理解しようとするものだった。4章構成となる第Ⅳ部「21世紀の資本規制」の狙いは、第Ⅰ部から第Ⅲ部までから得られる規範的、政策的な教訓を引き出すことだ。第13章は、現在の状況に適した「社会国家」がどんなものかを検討する。第14章は、過去の経験と最近の傾向に基づいて累進所得税の見直しを提案する。第15章は、21世紀の条件に対応した資本への累進課税がどんな形になりそうかを描き、この理想化されたツールを、政治プロセスから生じそうな他の各種規制と比べてみる。そうした規制としては、ヨーロッパにおける富裕税から、中国における資本規制、米国での移民制度改革、多くの国での保護主義復活などといろいろある。第16章は、目下重要となりつつある公的債務の問題と、それに関連して自然資本が劣化しつつある時代における公的資本の最適な蓄積という問題を扱う。
 最後にひと言。1913年に「20世紀の資本」という本を刊行するのはかなり無謀だっただろう。フランス語で2013年、英語で2014年に刊行された本書を「21世紀の資本」と名付けたことについては、読者のご寛容をお願いするものだ。2063年や2113年に資本がどんな形を取るかについて、自分が全く予測できないことは十分に自覚している。すでにのべたように、私はこれからの本書でしばしば、所得と富の歴史は常に根深く政治的であり、混乱に満ち、予想外のものだと示すことになる。
この歴史がどう展開するかは、社会がどのように格差をとらえ、それを計測して変化させるために、社会がどんな政策や制度を採用するかに左右される。今後数十年の間に、そうしたものがどう変わるかを予見できるものは誰もいない。それでも歴史の教訓は有用だ。というのもそれは、これからの1世紀でどんな選択に私たちが直面するか、そしてそこにどんな力学が作用するかを、もうちょっとはっきり見通すのに役立つからだ。本書は論理的に言えば「21世紀の夜明けにおける資本」という題名をぬすべきだっただろうか、その唯一の目的は、過去からいくつか将来に対する慎ましい鍵を引き出すことだ。歴史は常に自分自身の道筋を発明するので、こうした過去からの教訓がどこまで実際に役立つかはまだ分からない。私はそれを、その意義をすべて理解してなどと想定することなしに、読者に提示しよう。」としている。
 読んで勉強になった。
 本書の全体の構成が分かったことはもちろんだが、筆者は「その唯一の目的は、過去からいくつか将来に対する慎ましい鍵を引き出すことだ。」としている。筆者の謙虚な人柄がしのばれる。
 また、「歴史は常に自分自身の道筋を発明する」との指摘は、歴史から学ぶ者にとっては、きわめて大切な視点だと思った。
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by sasakitosio | 2015-07-12 15:09 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 はじめにの中、33頁の「理論的、概念的な枠組み」について学習することにした。
 筆者は、「先に進む前に、この研究の理論的、概念的な枠組みについてもう少し述べると同時に、私が本書を書くにいたった知的道のりについて触れておこう。
 私の属する世代は、1989年に18歳になった。この年はフランス革命200周年というだけでなく、ベルリンの壁崩壊の年である。
 私の属する世代は、共産主義独裁体制の崩壊のニュースを聞きながら成人して、そうした政権やソ連に対していささかの親近感もノスタルジアも感じたことはない。反資本主義を謳う、伝統的な怠惰なレトリックに対しては生涯にわたる免疫ができている。そうしたレトリックの一部は、共産主義の歴史的失敗をあっさり無視していたし、その大半はそれを超えて議論を進めるのに必要な知的手段に背を向けていた。格差や資本主義の糾弾をそれ自体を自己目的化する気は全くないーーー特に社会的格差は、正当なものなら、それ自体としては問題ないのだから。つまりその格差が、1789年人権宣言第一条にいうように「共同の利益に基づくもの」であればかまわない。(この社会正義の定義は魅惑的ながら厳密ではないが、歴史に根ざしたものではある。今のところはそのまま受け入れておこう。この点についてはまた後で触れる)。だが一方で、私は社会を組織する最高の方法や、公正な社会秩序実現のために最も適切な制度や政策をめぐる論争に、微力ながらも貢献したいと思っている。さらに私は、正義が有効かつ効率よく法治の下で実現されるのを見たい。その法治は万人に平等に適用され、民主的な論争に基づく普遍的に理解された規則から導かれたものであってほしい。
 わたしがアメリカンドリームを22歳で体験したということもつけ加えておこうか。博士課程を終えた直後に、ボストン近郊の大学に雇われたのだ。この体験は、ひとかたならぬ形で決定的なものとなった。米国に来たのは初めてだったし、自分の研究がこんなにすぐに認知されたのはいい気分だった。これぞ望みどおりに移民をひきつける方法をわきまえた国だ!だがかなりすぐに、自分がフランスとヨーロッパに戻りたいことにも気が付くことになり、25歳で帰国した。その後は、短い旅行を除けばパリを離れたことはない。この選択を行った重要な理由は、本書にも直接関係したものだ。米国の経済学者たちによる研究に、完全には納得できなかったのだ。たしかにみんなすごく知的だったし、当時からの友人はたくさんいる。でも何か奇妙なことが起こったのだ。私は自分が世界の経済問題について何も知らないことを痛いほど思い知ったのだ。私の博士論文は、いくつかのかなり抽象的な数学理論についてのものだった。
 それなのにこの業界は私の仕事を気に入ったのだ。私はすぐに、クズネッツ以来、格差の動学に関する歴史的データを集めようという大きな試みがまあったく行われていないことに気がついた。それなのに経済学会は、どんな事実をせつめいすべきかさえ知らないくせに、純粋理論的な結果を次々に吐き出し続けていた。そして私にもそうするよう期待していた。フランスに戻ったとき、私はこの欠けているデータの収集に乗り出したのだった。
 率直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばきわめてイデオロギー的偏向を伴った憶測だのにたいするガキっぽい情熱を克服できておらず、そのために歴史研究や他の社会学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちはあまりにもしばしば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学もんだいにばかり没頭している。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるためにはお手軽な方法だが、それをいいことに、私たちの住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題に答えずにすませているだ。フランスで経済学者をよると大きな長所がひとつある。ここでは、経済学者は学術界でも知的な世界でも、政治や金融エリートたちによっても、さほど尊重されない。だから経済学者も他の学問分野への侮蔑や、自分たちの方が科学的正当性が高いなどという馬鹿げた主張を抑えねばならない。
 実をいえば経済学者なんて、どんなことについてもほとんど何も知らないというのが事実なのだ。いずれにしても、それこそが経済学、さらに社会科学一般の魅力なのだ。みんな振り出しから始めるので、おおきな進歩を実現する希望が少しはある。フランスでは、経済学者は自分たちがやっていることがおもしろいのだということについて、歴史学者や社会学者を説得しようと少しは努力するし、また学問業界以外の人も納得させようという努力が少しはある。(必ずしも成功するとは限らないのだが)。私がボストンで教えていたときの夢は、パリの社会科学高等研究院で教えることだった。その教授陣には、リュシアン・フェーヴル、フェルナン・ブローデル、クロード・レヴィ=ストロース、ピエール・ブルデュー、フランソワ・エルティエ、モーリス・ゴドリエをはじめとする導きの光りが多数存在していた。こんなことを言うと、社会科学の面でナショナリズム的に見られかねないのだが、あえて認めてしまおう。私はたぶん、ロバート・ソローやサイモン・クズネッツと比べてすら、こうした学者のほうをもっと崇拝しているのだ。とはいううものの、社会科学がおおむね富の分配や社会階級の問題について、1970年代以降はほとんど関心さえ失ってしまったという事実は残念だと思っている。1970年代以前は、所得、賃金、物価、富に関する統計は、歴史研究や社会学研究で重要な役割を果たしていたのに。いずれにしても、あらゆる分野の専門的な社会科学者たちやアマチュアたちが、本書で何かしらおもしろい部分を見つけてくれることを願いたい。中でも、「「経済学については何も知らない」と言いつつも、所得や富の格差について極めて強い見解を持っている人々(そうした見解を持つのは自然なことだ)には特に読んでほしい。
 本当のことを言えば、経済学は他の社会科学と自分を切り離そうなどとは決して思うべきではなかったし、経済学が進歩するには他の社会科学と連携するしかないのだ。社会科学全体として、くだらない縄張り争いなどで時間を無駄にできるほど知識など得られてはいない。富の配分や社会階級の構造の歴史的動学についての理解を深めたいならば、当然ながら現実的なアプローチを採って、経済学者だけでなく、歴史学者、社会学者、政治学者の手法も活用すべきだ。根本的な問題から出発してそれに答えようとすべきだ。分野同士の競争や縄張り争いは、ほとんど何の意義もない。私から見れば、本書は経済学の本であるのと同じくらい歴史研究でもある。
 すでに説明した通り、本書はそもそも所得や富の分配に関連した歴史的な情報源を集め、時系列データを確立するのが出発点だった。本書が進むにつれて、時には理論、あるいは抽象モデルや概念に頼ることもあるが、なるべく避けるようにはするし、その理論が目に見える変化の理解を深めてくれる場合にかぎるようにしよう。たとえば、所得、資本、経済成長率、資本収益率は抽象概念だーー数学的に確立されたものというよりは理論的構築物となる。それでも、こうした概念が歴史的な現実をおもしろい形で分析できるようにすることを示そう。ただし、こうしたものを計測する時の精度の限界について忘れないようにして、批判的な視線を保たなければならない。また、数式もいくつか使う。たとえばα=r×β(これは、国民所得に占める資本の割合は、資本収益率と資本/所得比率の積だと言っている)などだ。あまり数学に馴染みのない読者は、ちょっと我慢してほしい。すぐに本を閉じたりしないでほしい。これはごく基本的な数式だし、単純で直感的な形で説明できるし、特殊な専門知識がなくても理解できるものものなのだから。何よりも、この最小限の理論的枠組みだけで、誰もが認める重要な歴史的発展について、明確な記述が十分に行えることを示せればと思う。」と教えてくれる。
 読んで勉強になった。
 筆者は、「社会的格差は、正当なものなら、それ自体としては問題ないのだから。つまりその格差が、1789年人権宣言第一条に言うように「共同の利益に基づくもの」あれば構わない」とし、「社会を組織する最高の方法や、公正な社会秩序実現のために最も適切な制度や政策をめぐる論争に、微力ながら貢献したいと思っている」とのこと。
 さらに筆者は、「正義が有効かつ効率よく法治の下で実現されるのをみたい。その法治は万人に適用され、、民主的な論争に基づく普遍的に理解された規則から導かれたものであってほしい」としている。等々、筆者の思考方向を知ることができた。
 また筆者は、「本書は、経済学の本であると同じぐらい歴史研究である」とし、「本書はそもそも所得や富の分配に関連した歴史的情報源を集め、時系列データを確立するのが出発点だった。」としている。
 為か、面白くて、「21世紀の資本」の本がまるで歴史書を読むように、一気に「黙読・目読」し、それに飽き足らすワードで「写読?」し、それでも飽き足らず「ブログにオン読?」をしている。その歴史も、多くは自分の生きてきた歴史であることも、興味深く読める理由かもしれない、と思っている。
青年の頃、マルクスもケインズも、著書を買っても、読み続ける意欲が全くわかず、年を取ってから手持ちの全ての著書を清掃工場へ運んだことを思いだす。
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by sasakitosio | 2015-07-06 10:51 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 はじめの中、30頁「本研究の地理的、歴史的範囲」について学習することにした。
 筆者は、「本研究では歴史的、地理的範囲をどこまでカバーするのだろう?
 富の分配力学について、国際的に、また各国内で、できるだけ18世紀から検討しよう。だが、手持ちデータの制約から、検討範囲をかなり大幅に狭める必要が出てくる。国際的な産出と所得の分配については、本書の最初のテーマとなるが、1700年から世界的なアプローチが可能だ(これはアンガス・マディソンのまとめた国民経済計算センターのおかげが大きい)。第二部で、資本/所得比率と資本と労働の分離を研究する部分では、適切な歴史データがないために、主に富裕国に専念し、貧困新興国にはそれを外挿することで
議論を進めることになる。所得と富の格差進展の検討は、第Ⅲ部のテーマとなるが、これまた手持ちの情報源がかぎられているためにかなり制約される。WTIDは、五大陸をできるかぎり徹底してカバーしようとしているのだ。それでも長期トレンドの記録は富裕国のほうがはるかにしっかりしている。はっきり言ってしまえば、本書は主に主要先進国の歴史体験に依存している。米国、日本、ドイツ、フランス、イギリスだ。
 実はイギリスとフランスの例がことさら重要だった。というのも最も完全な長期歴史情報源は、この2カ国からえられるためだ。イギリスとフランスについては、国民の富の規模や構造について、18世紀初期から複数の推計値があるのだ。
 この2カ国はまた、19世紀と20世紀初期における主導的な植民地勢力であり、金融勢力でもあった。だから産業革命以来の富の世界的な分配力学を理解するなら、この2カ国を検討するのが明らかに重要となる。特に、かれらの歴史は金融と貿易の「大一次グローバリゼーション」(1870――1914)を研究するのに不可欠だ。この時期は1970年代以来続いている。「第二次グローバリゼーション」と多くの点で似ているのだ。第一次グローバリゼーションの時期は、きわめて魅惑的な時期だったが、同時にとんでもなく不平等だった。電気照明が発明されたのもこの時期だし、遠洋定期船の絶頂期だった(タイタニック号は1912年に出港した)。映画とラジオは発展し、自動車が普及して国際投資も台頭した時期だ。たとえば、1900年代初期にパリとロンドンで実現された、GDP比でみた株式市場の総価値を富裕国が回復できたのは、やっと21世紀になってからだという点を考えよう。この対比は、今日の世界を理解するにあたりなかなか示唆的だ。
 一部の読者はもちろん、私がフランスの事例を特に重視していることに驚くだろうし、何やらナショナリズム的な配慮があるかと疑うかもしれない。だからこの判断を説明しておくべきだろう。この選択の理由は、ひとつには情報源がある。フランス革命は公正で理想的な社会を創ったわけではないが、富の構造を空前の細やかさで観察できるようにはしてくれた。1790年代に確立された、土地や建物、金融資産の富を記録する仕組みは、当時としては驚くほど目新しく包括的なものだった。フランスの相続記録が長期的に見て世界中で最も豊富なのは、フランス革命のおかげなのだ。
 第二の理由は、フランスが人口変異を経験した最初の国だったため、ある面で世界の残りを何が待ち受けているか観察するのにいい場所だということだ。フランスの人口は過去2世紀で増えたが、その増加率は比較的低かった。フランス革命の頃の人口はおよそ3000万人で、それがこんにちは6000万人よりちょっと多いくらいだ。同じ国だし、人口の桁は変わっていない。これに比べて、米国は独立宣言当時の人口がたった300万人だった。それが1900年に1億人になり、今日では3億人を超えている。人口が300万人から3億人になった国(19世紀に西部に向かって領土を大幅に増やし他ことを無視しても)、明らかにもはや同じ国とはいえない。
 人口が100倍増加した国と、2倍になっただけの国とでは、格差の力学と構造はまったくちがったものになる。
 特に、前者では後者に比べ、相続の要素はずっと重要性が下がる。相続財産が昔から米国ではヨーロッパよりも小さな役割しか果たしてこなかったのは、この新世界の人口増加のせいなのだ。この要因はまた、米国の格差構造が常にきわめて風変わりなものだった原因でもある。これは米国の格差観や社会階級観についてもおなじことが言える。だが、これはまたある意味で、米国の事例は一般化できないということだ。(というのも世界の人口が今後2世紀で100倍増すと考えにくいからだ。フランスの事例の方がもっと典型的だし、将来理解にとって関連が深いものとなる。フランスの事例や、もっと一般的にはヨーロッパ、日本、北米、オセアニアにおける他の先進国で見られた歴史的道のりを詳細に分析することで、世界の富の将来力学について多くのことがわかると私は確信している。その知見は、中国、ブラジル、インドなど、人口成長と経済成長が将来的にはまちがいなく減速する(すでにその兆候は見られる)新興経済にもあてはまるのだ。
 最後に、フランスの例は興味深い。というのもフランス革命――「ブルジョア」革命の代表――がすぐに、市場との関連での法的平等性という理想を確立したからだ。この理想が富の分配力学に与えた影響はおもしろい。1688年のイギリス革命は現代の議会政治を確立したが、王家はそのままにしたし、土地財産の長子相続も残し、(これが廃止されたのはやっと1920年代のことだ)。世襲貴族の政治特権も残った(貴族院改革はまだ議論が続いていて、いささか遅れ気味だ)。アメリカ革命は共和国の原理を確立したが、奴隷制はほぼ1世紀にわたり継続が認められ、法的な人種差別は2世紀ちかく容認され続けた。人種問題はいまだに、今日の米国での社会問題に不釣り合いなほど大きな影響を持ち続けている。ある意味で1789年のフランス革命はもっと野心的だった。あらゆる法的特権を廃止し、権利と機会の均等だけに基づいた政治的社会秩序を構築しようとしたのだから。民法典は、財産法における絶対的な平等性と、契約の自由(少なくとも男性にとっては)を保障した。19世紀末に保守派のフランス経済学者、たとえばポール・ルロワ=ボリューなどは、しばしばこの議論を持ち出して、「小地主」国家であるフランス共和国が、革命により博愛主義的になったので、貴族的で王制の残るイギリスとはちがい、累進的で過酷な所得税や相続税などは必要ないと主張した。だがデータを見ると、当時のフランスではイギリスと同じくらい富の集積度は高く、ここから明らかに市場における権利の平等はすべての権利の平等を保障するものではないことが実証される。ここでもまた、フランスの体験は今日の世界にとってきわめて参考になるのだ。今日の世界では多くの評論家が、ルロワ=ボリューが1世紀少々前に主張した通り、ますます財産権を完全に保障し、市場をますます自由化し、ますます「純粋性を高めて完全にした」競争を確保するだけで、公正で繁栄した調和のとれた社会を保証できると信じつづけている。でも、残念ながら、そのための作業はもっとややこしいのだ。」としている。
 読んで勉強になった。
 この本では、1700年頃から世界的アプローチが可能とし、主に主要先進国の歴史的体験を似依存している、と筆者いう。
 また「人口が100倍増加した国(米国)と、2倍になった国(フランス)とでは、格差の力学と構造はまったくちがったものになる」と筆者は教えてくれる。
 そして、「フランス革命――ブルジョア革命の代表――がすぐに、市場との関連での法的平等性という理想を確立し、あらゆる法的特権を廃止し、権利と機会の平等性にだけに基づいた政治社会秩序を構築しようとし、民法典は、財産における絶対的な平等性と、契約に自由(少なくとも男性にとっては)を保障した。」と筆者は、教えてくれた。
 そして、「1688年のイギリス革命は現代の議会政治を確立したが、王家はそのままにしたし、土地財産の長子相続も残し(これが廃止されたのはやっと1920年代のことだ)、世襲貴族の政治特権も残った(貴族院改革はまだ議論が続いていて、いささか遅れ気味だ)」と筆者は、教えてくれた。
 そして、「アメリカ革命は、共和国の原理を確立したが、奴隷制はほぼ1世紀にわたり継続が認められ、法的な人種差別は2世紀近く容認された。」と、筆者は教えてくれた。
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by sasakitosio | 2015-07-03 07:21 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 はじめの中、27頁の「格差拡大の根本的な力――r>g」の項目について学習することにした。
筆者は、「図1-2で示された第二のパターンは、ある意味でもっと単純でもっと明白な格差拡大のメカニズムを反映したものだ。こちらのほうが、まちがいなく富の分配の長期的な進展に与える影響は大きい。図1-2は、イギリス、フランス、ドイツにおいて、民間財産(不動産、金融資産、専門資産から、負債分を差し引いたネット値)の総価値が、その国の国民所得何年分にあたるかを、1870から2010年について示したものだ。まず見てほしいのは、19世紀末のヨーロッパにおける民間財産の水準がきわめて高かったということだ。民間財産の総量は、国民所得の6-7年分あたりをうろうろしていた。これはかなりの水準だ。それが1914――45年期のショックを受けて急落した。資本/所得比率は2から3に下がった。その後、1950年以降にそれがだんだん回復してくる。その上昇ぶりはとても急激で、21世紀初頭には英仏両国で、国民所得5-6年分に戻りそうだ(ドイツの民間財産はもっと低い水準から始まったので相対的に低いが、上昇トレンドは同じくらい明白だ)。
 この「U字曲線」は、圧倒的に重要な変化を反映したもので、その変化は本書の研究でも大きく効いてくる。
 特に、過去数十年における高い資本/所得比率への復帰は、大部分が比較的低経済成長のレジームへ戻ったことで説明できることを示そう。低成長経済では、過去の富が当然ながら重要性を大きく高めることになる。というのも富のストックを安定して大幅に増やすためには、新規の貯蓄フローはごく少額ですむからだ。
 さらに、もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば(これは経済成長率が低い時には、必ずとは言わないまでも起こりやすい)、富の分配で拡大のリスクは大いに高まる。
 この根本的な不等式をr>gと書こう(rは資本の平均年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入をその資本の総価値で割ったものだ。gはその経済成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)。これは本書できわめて重要な役割を果たす。ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括している。
 資本収益率が経済の成長率を大幅に上回ると(19世紀まで歴史のほとんどの時期はそうだったし、21世紀もどうやらそうなりそうだ)、論理的に言って相続財産は産出や所得よりも急速に増える。相続財産を持つ人々は、資本からの所得のごく一部を貯蓄するだけで、その資本を経済全体より急速に増やせる。こうした条件下では、相続財産が生涯の労働で得た富よりも圧倒的に大きなものとなるし、資本の集積はきわめて高い水準に達する―――潜在的には、それは現代の民主社会にとって基本となる能力主義的な価値や社会正義の原理とは相容れない水準に達しかねない。
 さらに、この格差増大の基本的な力は他のメカニズムで強化されかねない。たとえば、貯蓄率は富が大きくなると急増するかもしれない(これはますます通例となっているようだ)。資本収益率が予想不能で恣意的であり、富は各種の方法で拡大できるという事実もまた能力主義モデルにとっては問題となる。最後に、こうした要因はすべてリカード的な希少原理で悪化しかねない。不動産や石油の高い価格は、構造的な格差拡大に貢献しかねない。
 ここで述べたことをまとめよう。
 富が集積され分配されるプロセスは、格差拡大を後押しする強力な力を含んでいる。というかすくなくともきわめて高い格差水準を後押しする力を含んでいる。収斂の力も存在するし、ある時期の一部の国ではそれが有力になるかもしれないが、格差拡大の力は何時上手をとるやもしれない。これが21世紀の初頭の現在どうやら起こっているらしい。今後数十年で、人口と経済双方の成長率は低下する見通しが高いので、このトレンドはなおさら懸念される。
 わたしの結論は、マルクスの無限蓄積の原理、永続的格差拡大の含意ほどは悲惨ではない(というのもマルクスの理論は暗黙のうちに、長期的な生産性増大がゼロという厳密な想定に依存しているからだ)。私が提案するモデルでは、格差拡大は永続的ではないし、富の分配の将来の方向性としてあり得るいくつかの可能性の一つでしかない、だが考えられる可能性はあまり心安まるものではない。
 具体的には、根本的な不等式r>g,つまり私の理論における格差拡大の主要な力は、市場の不完全性とは何ら関係ないということを念頭に置いてほしい。その正反対だ。市場が完全になればなるほど(これは経済学者的な意味での話だ)、rがgを上回る可能性も高まる。この執念深い論理の影響に対抗できるような公共制度や政策は考えられる。
 たとえば、資本に対する世界的な累進課税などだ。でもこうした制度や政策の確立は、かなりの国際協調をひつようとする。残念ながらこの問題に対する実際の対応――これは各種ナショナリズム的な反応も含むーーは、実際にははるかに慎ましく効果の薄いものとなるだろう」としている。
 読んで、勉強になった。
 筆者はデータを基に、r>g(rは資本の平均年間収益で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入をその資本の総価値で割ったものだ。Gはその経済の成長率、つまり所得や算出の年間増加率だ)を、教えてくれた。
そして、「筆者の結論は、マルクスの無限蓄積の原理と永続的格差の含意ほどは悲惨ではない(というのもマルクスの理論は暗黙のうちに、長期的な生産性増大がゼロだという厳密な想定に依存しているからだ)。」とも教えてくれる。
 さらに、「「筆者の理論における格差拡大の主要な力は、<中略>、資本市場が完全になればなるほど(これは経済学者的な意味での話だ)、rがgを上回る可能性も高まる。」とのこと、および、「この執念深い論理の影響に対抗できるような公共制度や政策は考えられる。たとえば、資本に対する世界的な累進課税などだ。」と教えてくれた。
 
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by sasakitosio | 2015-07-01 17:23 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 はじめにの中の、24頁「拡差収斂の力 、格差拡大の力」の項目を学習することにした。
 筆者は、「事実として肝心なのは、知識や技能普及がどれほど強力であろうと、(特に国同士の収斂においては強力だ)、それは逆方向に作用して格差増大を促進する強力な力によって脱線させられ、圧倒されてしまえるということだ。訓練への適切な投資がなければ、経済成長の果実からある社会集団が丸ごと排除されてしまうのは明らかだ。成長は一部の集団には利益になるが、同時に別の集団に被害を与えることもある。(中進国の労働者たちが中国の労働者たちに置き換わってしまったという最近の例を見よ)。要するに、収斂の主要な力――知識に普及――は自然で自発的に起る部分はかぎられているということだ。その相当部分は教育政策、研修へのアクセスや適切な技能個獲得、関連制度や機関にも依存するのだ。
 この研究では、格差拡大をもたらすと懸念される力の方に特に注目しようーー中でも、技能への適切な投資が行われ、「市場効率性」(経済学者的な意味での)が満たされているらしき世界でもそうした力が存在できるというのは懸念要因となる。
 そうした格差拡大の力とは何だろうか?
 まず、トップ所得層は、すぐに残りの人々を大幅に引き離してしまえる(ただしこの問題はいまのところ、一部の地域にとどまってはいる)。もっと重要なこととして、成長が弱くて資本収益率が高いときには、富の蓄積と集中のプロセスに関連した格差拡大の力がいくつか生じるのだ。
 この第二のプロセスの方が、潜在的には第一のものよりも不安定性をもたらしやし、長期にわたる富の分配に対す主要な脅威となる。
 議論の核心に即座に切り込もう。図1-1(次頁)、と図1-2(28頁)に、本書でこれから説明したい二つの基本パターンを示した。グラフはこうした格差拡大プロセスのそれぞれの重要性を示したものだ。どちらのグラフも「U字曲線」になっている。つまり、格差低減の時期があり、続いて格差増大の時期がやって来るということだ。この二つグラフが示す現実は似たようなものだと思うかもしれない。だが実はちがう。それぞれの曲線の根底にある現象はかなりちがったもので、別別の経済、社会、政治プロセスを反映している。さらに図1-1の曲線は米国での所得格差を示しており、図1-2の曲線はヨーロッパ主要国での資本/所得比率を示している(ここには出てないが日本も似たグラフになる)。この二つの格差拡大の力が21世紀になって最終的に一本化するという可能性もなくはない。これはすでにある程度は起きているし、これから世界的な現象になる可能性もあり、その場合は空前の格差が生じ、また格差の構造も激変することになる。だが今のところ、こうした驚異的なパターンは、根底にある二つのまったくちがう現象を反映したものだ。
 米国の曲線(図1-1)は1910年から2010年」までの、米国の国民所得で所得階層のトップ十分位が占める割合を示す。1913―1948年についてクズネッツが確立した歴史的時系列データを伸ばしただけだ。
 1910年代から1920年代にかけて、トップ十位は国民所得の45-50パーセントを懐に入れていたが、それが1940年代末には30-35パーセントに下がった。
 格差は1950-19870年までその水準で横ばいだった。その後、1980年代に格差が急激に高まり、2000年になると、国民所得の45-50パーセントあたり水準に戻っている。この変化の規模は驚異的なものだ。このトレンドがどこまで続くのだろうと当然思ってしまう。
 これから示すように、こうした格差のめざましい増大は、おおむね労働所得が一部でかなり高くなり、それが空前の爆発ぶりを示したせいだ。おかげで大企業の経営陣たちは、その他の人々から完全に隔絶した存在になった。
 これについて考えられる説明のひとつとしては、こうした トップ経営者たちの技能や生産性が、他の労働者に比べて突然上がった、というものだ。別の説明は、こちらのほうが私にはもっともらしく思えるし、証拠とも一貫性をもつものだが、トップ経営者たちはおおむね自分の報酬のときには無制限に決める権限を持っており、また多くの場合は自分個人の生産性(どのみち大組織では、これを推計するのはとてもむつかしい)と明確な関連性などまったくなしに報酬を決められるから、というものだ。この現象は主に米国で見られ、程度は下がるがイギリスでも起きている。これは過去1世紀における両国の社会規範や財政規範の歴史から説明できるかもしれない。この傾向は、他の富裕国(日本、ドイツ、フランス、その他の大陸ヨーロッパ諸国)ではさほど目立たないが、同じ方向性はみられる。この現象が進行して米国と同じぐらいの格差に他国でも到達すると予想するのは、十分に分析を行わないとリスクが高いーーだがその分析は、手持ちのデータの制約もあるため、残念ながらさほど容易なことではない。」としている。
 筆者は、「格差拡大の力とは何だろうか?」と疑問をしめした。
 また、筆者は図表を示しながら、「こうした格差のすさまじい増大は、おおむね労働所得が一部でかなり高くなり、それが空前の爆発ぶりを示したせいだ。おかげで大企業の経営陣たちは、その他の人々から完全に隔絶した存在になったと」と教えてくれる。
 そして、筆者は、その説明を「トップ経営者たちはおおむね自分で自分の報酬をときには無制限に決める権限を持っており、また多くの場合は自分個人の生産性(どのみち大組織では、これを推計するのはとてもむずかしい)と明確な関連性などまったくなしに報酬を決められるから」と教えてくれる。
 さらに筆者は、この現象は、「主に米国で見られ、程度は下がるがイギリスでも起きている」し、この傾向は「他の富裕国(日本、ドイツ、フランス、その他の大陸ヨーロッパ諸国)ではさほど目立たないが、同じ方向性は見られる」と教えてくれる。
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by sasakitosio | 2015-06-24 17:57 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 はじめ中、22頁の「本研究の主要な結果」という項目を学習することにした。
 筆者は、「本書の主要な結論とは何だろうか?
 こうした新しい歴史的情報源からどんな主要結論を私は引きだしただろうか?
 最初の結論は、富と所得の格差についてのあらゆる経済的決定論に対し、眉にツバをつけるべきだというものとなる。富の分配史は昔から極めて政治的で、経済メカニズムだけに還元できるものではない。特に、1910年から1950年にかけてほとんどの先進国で生じた格差の低減は、何よりも戦争の結果であり、戦争のショックに対応するため政府が採用した政策の結果なのだ。同様に、1980年代以降の格差再興もまた、過去数十年における政治的シフトによる部分が大きい。特に課税と金融に関する部分が大きい。
 格差の歴史は、経済的、社会的、政治的なアクターたちが、何が公正で何がそうでないと判断するか、さらにそれぞれのアクターたちの相対的な力関係とそこから生じる集合的な選択によって形成される。これは関係するアクターたちすべての共同の産物なのだ。
  第二の結論は本書の核心となるものだが、富の分配の力学をみると収斂と拡大を交互に進めるような強力なメカニズムがわかるということだ。さらに、不安定を拡大するような不均衡への力が永続的に有力であり続けるのを止める、自然の自発的なプロセスなどないこともわかる。
 収斂を後押しするメカニズムをまず考えよう。つまり、格差を減らし圧縮する力だ。収斂に向かう主要な力は、知識の普及と訓練や技術への投資だ。需要と供給の法則、そしてその法則の変種である資本と労働のモビリティもまた、常に収斂へ向かうかもしれないが、この経済法則の影響は知識や技能の普及に比べれば弱いもので、その含意は曖昧だったり矛盾していたりすることも多い。知識と技能の分散こそが、全体としての生産性成長の鍵だし、国同士でもそれぞれの国内でも格差低減の鍵となる。
 現在でも、かって貧しかった多くの国が見せている進歩はその反映で、その筆頭は中国だ。こうした新興経済はいまや先進経済に追いつこうとしている。富裕国の生産様式を採用して、他で見られるものに比肩する技能を獲得することで、低開発国は生産性を飛躍させ、国民所得を高めた。技術収斂プロセスは、貿易のために国境を開くことで後押しされることもあるが、これは市場メカニズムと言うよりは基本的に知識――何よりもすぐれた公共財――の普及と共有のプロセスだ。
 純粋に理論的な立場からすると、平等性拡大を促進する他の力もあるかもしれない。たとえば、生産技術はだんだん技術者に大きな技能を要求するようになりそうだ。そうであれば、所得における資本の比率は下がり、労働の比率が上がることになる。これを「人的資本上昇仮説」とでも呼ぼうか。言い換えると、技術合理性の進歩は自動的に金融資本や不動産に対する人的資本の勝利をもたらすし、有能な経営者は肥え太った株主に勝り、縁故主義より技能が重視される、ということだ。そうなれば格差はもっと能力主義的なものになり、固定されたものではなくなる。(が格差が縮まるとはかぎらない)。こうなると経済合理性は、ある意味で自動的に民主的合理性を生み出すことになる。
 もう一つの楽観的な信念として現在流行なのは「階級戦争」が最近の平均余命の増大によって自動的に「世帯間戦争」に道を譲るというものだ(こちらの方が分断性は低い。誰しもまずは若く、その後高齢になるからだ)。言い換えると、この逃れがたい生物学的な事実が意味しているのは、富の蓄積と分配はもはや不労所得生活者の勢力と、自分の労働力以外何も持たない勢力との間の不可避的な衝突を予告しているのではないということだ。これを支配する論理はむしろ、生産サイクルを通じた貯蓄の論理だ。人々は若い頃に富を蓄積して高齢に備える。したがって医学の発達と生活条件の改善は、資本の本質そのものを完全に変えてしまったのだ、というのが理屈だ。
 残念ながら、この二つの楽観的な信念(人的資本仮説と、階級戦争に世代紛争が取って代わるという発想)はおおむね空想上のものでしかない。この種の変化はどちらも論理的に可能だし、ある程度は本当に起っているが、その影響は一般に思われているよりもはるかに不明確なものだ。国民所得の労働分配率が超長期的で見て大きく増えたという証拠はないに等しい。「非人的」資本は、21世紀になっても、18世紀や19世紀と同じくらい不可欠なものだし、
それが今後さらに重要性を増してはいけない理由などない。
 さらに昔と同じく今も、富の格差はそれぞれの年齢層内部にだって存在しており、相続財産は21世紀初頭でも、バルザック「ゴリオ爺さん」の時代に迫るくらいの決定的な要因となっているのだ。長期的にみると、平等性拡大を後押しする主要な力は、知識と技能の普及だった。」と教えてくれる。
 読んで勉強になった。
 筆者は、「最初の結論は「富と所得の格差についてのあらゆる経済的決定論に対し、眉にツバを付けるべきだというものになる。」、
 「第二の結論は、富の分配の力学を見ると収斂と拡大を交互に進めるような強力なメカニズムが分かるということだ。さらに、不安定性を拡大するような不均衡への力が永続的に有力であり続けるのを止める、自然の自発的なプロセスなどないこともわかる。」、等と教えてくれる。
また、筆者は、「残念ながら、この二つの楽観的信念(人的資本仮説と、階級戦争に世代紛争がとってかわるという発想)はおおむね空想上のものでしかない」、
 「長期的に見ると、平等性拡大を後押しする主要な力は、知識と技能の普及だった。」、等と教えてくれた。
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by sasakitosio | 2015-06-21 11:47 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 18ページ「本書で使ったデータの出所」という項目を学習することにした。
 まず筆者は、「本書は主に二種類の情報源に基づいており、これにより富の分配の歴史的な動きが研究できる。一つの情報源は所得の格差と分配に関するもの、そしてもう一つは、富の分配と、富と所得との関係を扱う情報源だ。
 まず所得から始めよう。私の研究は相当部分が、クズネッツによる1913――1948年の米国における所得格差推移をめぐる革新的で先駆的な研究を、時間的にも空間的にも拡大したものとなる。これにより、私はクズネッツの結論(それ自体はかなり正確だ)をもっと広い視野の中において、経済発展と富の分配の関係についての楽観的な見方を大きく疑問視できるようになった。奇妙なことだが、クズネッツの研究を系統だって拡張した人はこれまで誰もいない。
 その理由の一部はまちがいなく、課税記録の歴史的・統計的な研究が学問的に無人の荒野となっているせいだ。経済学者にとってあまりに歴史的だし、歴史学者にとってはあまりに経済的すぎるのだ。これは残念なことだ。というのも、所得格差の力学は長期的な視野がないとあつかえないものだし、そのためには税金の記録を使うしかないのだ。
 まず私は、クズネッツの手法をフランスに拡張し、その結果を2001年刊行の本で発表した。それから同僚数人――なかでも特にアンソニー・アトキンソンとエマニュエル・サエズーーと力をあわせて、その支援により検討範囲ををずっと多様な国々にまで広げた。アンソニー・アトキンソンはイギリスをはじめとする国々を見て、ふたりで2007年と2010年に二巻本を編集し、世界中の20か国ほどについて結果を発表した。エマニュエル・サエズとの作業では、クズネッツの米国に関する時系列データを50年拡張した。サエズは独自にカナダや日本など他の主要国を調べた。多くの研究者がこの共同研究に貢献してくれた。特にアルゼンチン、スペイン、ポルトガルを調べたファクンド・アルバレード、ドイツ、スイスを調べたファビエン・デル、そして私と共にインドの例を調べたアビジット・バナジー。ナンシー・チャンの助けを得て中国についても調査を行った。他にもある。
 いずれの場合にも、私たちは同じ種類の情報源を使い、手法もコンセプトもそろえるようにした。高所得者層の十分位や百分位は、申告所得に基づいた税金データから推計した(データとコンセプトの時間的、地理的均質性を確保するようにさまざまな補正を行っている)。国民所得と平均所得は国民経済計算から導いたが、時にはそのデータを見直したり拡張したりする必要もあった。大ざっぱに言うと、私たちの時系列データはそれぞれの国で所得税が確立した時期から始まり(これはおおむね1910年から1920年くらいだが、日本やドイツなどの国は1880年からかいしされているし、ずっと遅い国もある)。こうした時系列データは定期的に更新され、執筆時点では2010年初期のデータまで拡張されている。
 最終的には、世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データーベース(WTID)が所得格差の推移に関する最大の歴史的データベースとなっており、本書の主要なデータ源となっている。
 本書で二番目に重要なデータ源(実はこちらからまずデータを引きだしている)は富に関するもので、富の分配とその所得に対する関係を扱ったものだ。富もまた所得を生み出すので、所得側にとっても富は重要なのだ。実際、所得は二つの部分で構成されている。労働からの所得(賃金、給与、ボーナス、非賃金労働からの稼ぎ、その他労働関連として法律で規定されている報酬)と資本からの所得(賃料、配当、利子、利潤、キャピタル・ゲイン、ロイヤルティといった、土地、動産や金融商品、産業設備など、やはり厳密な法的分類に関わらず単に資本をもっていることで得られる所得)だ。WTIDは20世紀の資本所得の推移について、大量の情報を保有している。それでもこの情報を富と直接関係した情報源で保管する作業は不可欠だった。ここで私は三つの歴史的データと手法に頼っているが、そのそれぞれが相互に補いあう関係にある。
 まず、所得申告が所得間格差の研究を可能ににしてくれると同じく、相続税申告は富の格差変化についての研究を可能にしてくれる。このアプローチは、ロバート・ランプマンが1962年に、1922年から1965年までの米国の富の格差に変化を研究するときに導入したものだ。その後1978年にアンソニー・アトキンソンとアラン・ハリソンがイギリスについて1923年から1972年まで調べた。この結果は最近更新されて、フランスやスウエーデンなどの国にも拡張された。残念ながら、所得格差に比べるとデータが入手できる国は少ない。だがいくつかの例では、相続税データはずっ昔までさかのぼれる。相続税は所得税より古いからで、19世紀初頭にまでさかのぼれることも多い。特に、私は各種時点でフランス政府が集めたデータを、ジル・ボステル=ヴィネイとジャン=ローラン・ローゼンタールといっしょにまとめ、相続税申告の個票を大量に集めたので、フランス革命以来の富の集積に関する均質な時系列データを確立できた。これで第一次世界大戦によるショックを、所得格差のデータ(これは1910年あたりまでしかさかのぼれない)よりもずっと広い文脈で検討できるようになった。イェスペル・ロイネとダニエル・ヴァルデンストロムによるスウェーデンの歴史的情報源に関する研究も示唆的だった。
 富と相続に関するデータはまた、相続した富や貯蓄が財産構築に占める重要性の変化や、富の格差の動きについての研究を可能にする。この研究は、フランスの場合にはかなり完全な形で完了している。フランスには、きわめた豊かな歴史的情報源があるので、長期にわたる相続パターンの変化を観察するためのユニークな観点が得られれるのだ。
 私と同僚たちは、多かれ少なかれこの手法を他の国、特にイギリス、ドイツ、スウエーデン、米国に拡張して。こうした資料はこの研究で重要な役割を果たす。というのも富の格差の重要性は、そうした格差が相続財産からくるのか、貯蓄から来るのかによってかわってくるからだ。本書で私は、格差の水準そのものだけでなく、それ以上に格差の構造に注目する。つまり、社会集団ごとの所得と富の格差原因や、そうしたちがいを擁護したり糾弾したりするのに持ち出されてきた、経済、社会、政治的理由づけの各種体系を見るということだ。格差自体は悪いとはかぎらない。重要なのは、それが正当なものなのか、格差の理由があるかということだ。
 最後に、国富の総ストックを超長期にわたって計測するためのデータも使える(土地、その他不動産、工業資本や金融資本など)。国ごとにこうした富は、それを貯めるために必要な国民所得の年数で計測できる。この種の資本/所得比率の世界的研究には、制約もある。格差は常に並行して個人レベルでも分析した方がいいし、資本形成における相続と貯蓄の相対的な重要性も考慮する必要がある。それでも、資本/所得アプローチは社会全体にとっての資本の重要性についての概観を与えてくれる。さらに一部の例では(特に英仏)、各種の時点での推計値を集めて比較できるので、分析は18世紀初期までさかのぼれる。これにより産業革命を資本の歴史との関連で見ることも可能だ。このためには、ガブリエル・ズックマンと私が最近集めた歴史データを使うことにする。大ざっぱにいうと、この研究はレイモンド・ゴールドスミスの国民バランスシートに関する1970年代の研究を拡張し一般化したにすぎない。
 これまでの研究に比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性ある歴史的情報源の集合を集め、長期的な所得と富の分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ。これをやるにあたり、私は以前の著者に比べて二つの優位性を持っていた。まず、研究では当然ながら先人たちに比べてもっと長い歴史的な視野が役に立っている(そして一部長期的な変化は2000年代のデータが出てくるまでは明確に現われてこなかった。両世界大戦による変化の一部が、かなり長期にわたって消えなかったせいが大きい)。
第二に、コンピューター技術の進歩により、大量の歴データを集めて処理することがずっと関単になったことがある。
 思想史での技術の役割を誇張する気はないが、純粋に技術的な問題は、ちょっと振り返ってみるに値する。客観的に見て、大量の歴史データを扱う作業は、クズネッツの時代には現在よりずっとむずかしかった。1980年代あたりになっても、この状況はおおむね変わらなかった。1970年代にアリス・ハンソン・ジョーンズが米国の相続記録を植民地時代から集め、アデリヌ・ドマールがフランスの19世紀以来の相続記録を分析したとき、ふたりはインデックスカードを使って手作業で集計したのだった。かれらの驚異的な仕事を今日読んだり、フランソワ・シミアンによる19世紀の賃金推移研究を見たり、エルネスト・ラブルースによる18世紀の物価と所得に関する研究を見たり、ジャン・ブーヴィェとフランソワ・フェレによる19世紀の利潤変動性についての研究を見たりすると、こうした学者たちがデータの収集と処理にあたり、かなりの物理的な困難を乗り越えねばならなかったのは明らかだ。多くの場合、エネルギーの相当部分は技術的な困難に費やされ、分析や解釈よりもデータ処理が優先された。特にそうした技術的問題のおかげで、国際比較や時代同士の比較を行うにあたっての厳しい制約が生じた。今日では、富の分配の歴史を研究するのは以前よりずっと易しい。本書は近年の研究技術改善に大きく負っている。」としている。
 読んで、勉強になった。
 まず、「本書は主に2種類の情報源に基づいており、これにより富の分配の歴史的な動きが研究できる。
 ひとつの情報源は、所得の格差と分配にかんするもの、そしてもう一つは、富の分配と、富と所得との関係を扱う情報源だ。」、
 「最終的には、世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データベース(WTID)が所得格差の推移に関する最大の歴史的データベースとなっており、本書の主要なデータ源となっている。」、
 「本書で二番目に重要なデータ源(実はこちらからまずデータを引き出している)は富に関するもので、富の分配とその所得にたいする関係を扱ったものだ。」、ということが分かった。
 また、「本書で私は格差の水準そのものだけでなく、それ以上に格差の構造に注目する。」。
 「格差それ自体は悪いとはかぎらない。重要なのはそれが正当なものなのか、格差の理由があることだ。」との考え方は、新たな視点のように映った。
 そして、「これまでの研究と比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性のある歴史的情報源をあつめ、長期的な所得と分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ。」、
 「私は以前の著者に比べて二つの優位性を持っていた。
 まず、この研究では当然ながら先人たちに比べてもっと長い歴史的な視野が役に立っている(そして一部の長期的な変化は2000年代のデータが出てくるまでは明確に現われてこなかった。両世界大戦による変化の一部が、かなり長期にわたって消えなかったせいが大きい)。
 第二に、コンピュータ技術の進歩により、大量の歴史データを集めて処理するのがずっと関単になったことある。」、
 等々は、本書を学習する上で、おおいに役に立つと思った。
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by sasakitosio | 2015-06-18 18:04 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback
 今日は、17頁の「分配の問題を経済分析の核心に戻す」の項目を学習することにした。
 まず筆者は、「分配の問題は重要だし、その意義は単に歴史的な興味にとどまらない。1970年代以来、所得格差は富裕国で大幅に増大した。特にこれは米国に顕著だった。米国では、2000年代における所得の集中は、1910年代水準に戻ってしまった。―――それどころか、少し上回るほどになっている。だから、この間になぜ、どのようにして格差が減ったのかを明確に理解するのは極めて重要なのだ。たしかに、貧しい発展途上国、特に中国の急激な成長は、世界レベルでの格差低減には大きな力を発揮するかもしれない。
 1945-1975の富裕国の急成長もそうした影響をもたらした。だがこのプロセスは、発展途上国に深い不安をもたらし、富裕国はもっと深い不安が生じている。
 さらにここ数十年の金融、石油、不動産市場で見られた驚異的な不均衡のおかげで、ソローやクズネッツが述べた「バランスのとれた経済成長経路(均斉成長経路)」、つまりあらゆる主要経済変数が同じ速度で推移するような成長が確実に起こるかどうかも当然ながら疑問視されるようになった。
 2050年や2100年の世界は、トレーダーや企業トップや大金持ちに所有されているだろうか、どれとも産油国や中国銀行に所有されているだろうか?あるいは、こうしたアクターの多くが逃げ場にしているタックス・ヘイブンに所有されているかもしれない。誰が何を所有しているかを問わずに、成長が長期的には自然に「バランスがとれている」とはじめから想定してしまうのは馬鹿げている。
 ある意味で、21世紀初頭の私たちは、19世紀初期の先人たちとまったく同じ立場にある。世界中で経済は激変しているし、今後数十年間でそれがどれほど大幅な変化になるか、富の世界的な分配がどうなるかは、国際的にもそれぞれの国内についても、非常に見極めにくい。19世紀の経済学者たちは、経済分析の核心に分配の問題を据え、長期トレンドを研究しようとした点で大いに称賛されるべきだ。彼らの答えは必ずしも満足いくものではなかったが、少なくとも正しい質問はしていた。成長が自動的バランスのとれたものになるなどと考えるべき本質的な理由などない。格差の問題を経済分析の核心に戻して、19世紀に提起された問題を考え始める時期はとうに来ているのだ。あまり長きにわたり、経済学者たちは富の分配を無視してきた。その一部はクズネッツの楽観的な結論のせいだし、一部は代表的エージェントなるものに基づいた、単純すぎる数学モデルをあまりに経済学が崇めてきたせいだ。格差の問題が再び中心的な物になるためには、まず過去と現在のトレンドを理解するために、できるかぎり広範な歴史的データ集合を集めることから始めねばならない。そこに働いているメカニズムを同定し、将来についてもっとハッキリしたアイデアを得るためには、辛抱強く事実やパターンを明らかにして、各国を比較するしかないからだ。」としている。
 読んで、刺激をうけた。
 筆者は、「あまりに長きにわたり、経済学者たちは富の分配を無視してきた。その一部はクズネッツの楽観的な結論のせいだし、一部は代表的エージェントなるものに基づいた、単純すぎる数学モデルをあまりに経済学が崇めてきたせいだ。」と教えてくてた。
 また、筆者は、「格差の問題が再び中心的なものになるためには、まず過去と現在のトレンドを理解するために、できるかぎり広範な歴史的データ集合を集めることから始めねばならない。そこに働いているメカニズムを固定し、将来についてもっとはっきりしたアイデアを得るためには、辛抱強く事実やパターンを明らかにして、各国を比較するしかないだ。」と、これからの研究の方向を教えてもくれた。
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by sasakitosio | 2015-06-04 15:48 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback