憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

カテゴリ:朝日新聞を読んで( 830 )

 11月12日付朝日新聞朝刊15面に、「科学季評」という欄がある。

 筆者は、京都大学総長・山極寿一氏だ。
 今日はこの筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「けいはんな学研都市で先月「けいはんな情報通信フェア2017」が開かれた。

 会場には自動運転に備えるドライバーモニタリングシステムやスマートシティセンシング、カメラと人工知能(AI)を用いた商品識別技術など、多言語自動翻訳技術、災害情報分析技術など、新技術を紹介するブースが並び、超スマート社会の到来を予感させる催しだった。

 その初日、私は「AIにはできない人間の幸せ」と題する基調講演をした。一見、AIを用いた情報通信技術の発展に水を差すように思われるだろうが、水ではなく棹さすような発言をしたつもりだ。

 人間は700万年間の進化史のすべてにわたって情報通信革命を進めてきた。方向性は一貫していて、近年それが加速したに過ぎない。

 だが、残念ながらその変化の速度に人間がついていけない。そのため、近年増えている心臓病、脳卒中、アレルギー性疾患、糖尿病などの慢性疾患と同じように、情報通信技術と人間の身体はミスマッチを起こした弊害が発見し始めている。

 いまそれをきちんと見定めたうえで、賢く技術を開発し応用できれば、人間にとって、幸せなソサエティー15.0(新たな経済社会)を構築することにつながる、」と切り出した。

続けて筆者は、「そのためには、人類の歴史をさかのぼって、なぜ情報通信技術を拡大する必要が生じたかを理解しなければならない。

 多くの人は、言葉の発明が情報通信技術の始まりだったと考えているのではなかろうか。

 しかし、人類の脳が多きくなったのは200万年前から40万年前の間で、まだ言葉を話していなかった。

 言葉が登場したのは7万年前ごろと考えられている。言葉は脳の増大に貢献したのではなく、脳が大きくなった結果として現れたのである。

 脳が大きくなった理由を問えば、他の霊長類と同様に集団の規模が拡大したためだという「社会脳仮説」がある。

 霊長類ではそれぞれの種がつくる集団の構成人数が多いほど、脳に占める新皮質の割合が高く、脳容量が大きいという傾向がある。

 つまり、日常的に付き合う仲間の数が増えるに従って、脳は多きくなる必要があったということだ。

 現代人の脳容量は約1500ccでゴリラの3倍だ。これは150人程度の集団で暮らすのに適合する。

 面白いことに、現代に暮らす狩猟採集民の平均的な村の規模は150という。40万年前から人類は150人程度の集団で暮らし、脳はそれ以上大きくならなかった。

 だが、約1万2千年前に農耕や牧畜が始まり、自ら食料を生産し貯蔵するようになって、人口が急に増え始めた。

 農耕が始まったころの地球上の人口は500万人~800万人。

 産業革命の起こった18世紀に7億人を、電話が発明された19世紀に10億人を超え、今や70億人を突破している。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「情報通信技術の発展は、この人口規模の急速な拡大に伴うものである。

 時間と距離を無視して多くの人々と交信でき、膨大な量のデータを瞬時に解析して的確な情報を送り続ける技術があるからこそ、私たちは人と物があふれる現代社会に生きて行ける。

 だが、これらの技術は多くの人々をつなぐ役割を果たし切れているだろうか。

 言葉は見えないものを表し、別々のものを一つにまとめる。持ち運び可能で効率的なコミュニケーションである。

 言葉は人間が広く分散しながらも、情報を交換し合いながら信頼できるつながりを保つ仕組みだった。

 でも信頼関係は言葉だけでは紡げない。

 他の霊長類と同じように人間は五感を用いて他者とつながり合う。

 共有しやすい視覚や聴覚ではなく、嗅覚、味覚、触覚の方が信頼を高めることに役立つ。

 脳を大きくした人類は言葉によって視覚や聴覚を広げて情報世界を広げ、他の五感によって信頼関係を保持してきたのではないかと思う。

 近年、ネットやスマホで得られる視覚、聴覚情報は格段に増えた。センサー技術も進み、人間の五感を超える分析が可能になった。

 しかし、人間はまだこうした技術を使って、信頼する仲間を増やせないでいる。

 100万人を超える都市に暮らしながら、信頼できる仲間は150人を大きく上回ることがない。むしろ、スマホ、フェイスブック、LINEで頻繁に連絡を取り合う仲間の数は減っている。しかも、顔を合わさずに連絡を取り合うため、身体感覚でつながることが出来ず、強固な信頼関係を作れないでいる。

 これからAIを用いた情報通信技術は、あらゆる情報をデータにして物や人をネットワークを密にしていくだろう。

 それは安全な環境をつくるのに大いに役立つはずだ。だが、現代は安全イコール安心ではない。

 安心は信頼できる人の輪がもたらすものだからだ。

 いくら安全な場所にいても、仲間に裏切られたちまち危機に見舞われる。

 私たちは今豊かな情報に恵まれながら、個人が孤独で危険に向き合う不安な社会にいるのである。

仲間と分かち合う幸せな時間はAIには作れない。それは身体に根差したものであり、効率化とは正反対なものだ。

 それを賢く組み込むような超スマート社会を構成する必要があると私は思う。」として締めくくった。

読んで勉強になった。

 「けいはんな学研都市で先月「けいはんな情報通信フェア2017が開かれた」とのこと、

 「会場には自動運転に備えるドライバーモニタリングシステムやスマートシティセンシング、カメラと人工知能(AI)を用いた商品識別技術、多言語自動翻訳技術、災害情報分析技術など、新技術を紹介するブースが並び、超スマート社会到来を予感させる催しだった。」とのこと、

 「人類の脳が大きくなったのは200万年まえから40万年前の間で、まだ言葉を話していなかった。言語が登場したのは7万年前ごろと考えられている。」とのこと、

 「言葉は脳の増大に貢献したのではなく、脳が大きくなった結果として現れたのである。脳が大きくなった理由を問えば、他の霊長類と同様に集団の規模が拡大したためだという「社会脳仮説」がある。」とのこと、

 「現代人の脳容量は約1500ccでゴリラの脳の3倍だ。これは150人程度の集団で暮らすのに適合する。」とのこと、

 「約1万2千年前に農耕や牧畜が始まり、自ら食料をを生産し貯蔵するようになって人口が急に増え始めた。農耕が始まったころの地球上の人口は500万~800万人。産業革命の起こった18世紀に7億人を、電話が発明された19世紀に10億人を超え、今や70億人を突破している。」とのこと、

 「情報通信技術の発展は、この人口規模の急速な拡大に伴うものである」とのこと、

 「言葉は人間が広く分散しながらも、情報を交換し合いながら信頼できるつながりを保つ仕組みだった。」とのこと。

「信頼関係は言葉だけでは紡げない。他の霊長類と同じように、人間は五感を用いて他者とつながり合う。共有しやすい視覚や聴覚だけではなく、嗅覚、味覚、触覚の方が信頼を高めることに役立つ」とのこと、

 「現代は安全イコール安心ではない。安心は信頼できる人の輪がもたらすものだからだ。」とのこと、

 「仲間と分かち合う幸せな時間はAIにはつくれない。それは身体に根差したものであり、効率化とは正反対のものだ」とのこと、等々を教えてもらった。

 かねがね、世界から戦争を減らすには「言語の壁」をまず取り払い、疑心暗鬼から起こる「衝突」の回数を減らすことが必要だと思ってきた。

 だから、AIを用いた多言語自動翻訳技術の発展と「自動変換装置付き電話」の商品化を急いでほしいと思った。

 あわせて、世界の何処でも「居酒屋」「喫茶店」があって、五感を用いて他者とのつながりの持てる「空間」づくりが必要、と思った。

 それを日本で、東京オリンピック開催時に実現出来たら、文字通りオリンピックは「平和の祭典」になるような気がした。

 

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-18 07:34 | 朝日新聞を読んで | Trackback

 119日付朝日新聞朝刊社説に、「ロシア革命(10月革命)」のことが載った。

 今日はこの社説を学習することにした。

 まず社説は、「世界を揺るがしたロシア革命(10月革命)から、きのうでちょうど100年を迎えた。

 内戦を経て生まれた世界初の社会主義国ソ連は、飢饉や弾圧などで膨大な犠牲者を出した。

 一方で、米国などの資本主義陣営に対抗する価値観を示し、20世紀の世界を2分した。」と切り出した。

 続けて社説は、「ソ連は1991年に崩壊し、稀代の「実験」は失敗したが、革命の歴史は、今後の世界の針路を探る手がかりを残した。

 本家ロシアでは、あの革命の輝きは失われている。プーチン大統領は05年、11月7日を国民の祝日から外した。

 革命について「時代遅れを放置する人、転換を求めて破壊へ進む人、双方が無責任だから起きる」と突き放す。

 一方で、今なおロシア革命をたたえる国もある。中国の習近平氏は先月の中国共産党大会で「10月革命の砲声がとどろいて、中国にマルクス・レーニン主義が送り届けられた」と建国の歴史を誇った。

 だが、共産党一党独裁のソ連を範にした

態勢を続ける中国、北朝鮮、キューバなどの国々は、自由、人権、平等など理想とほど遠い状況だ。」と指摘した。

 さらに社説は、「人権を進歩させるために社会主義革命は不可避だと考えは色あせた。だが冷戦に勝利したはずの資本主義・自由主義陣営の国々も今、よりよい未来を目指すための羅針盤を失ったかのように漂流している。

 グローバル化は世界の格差の構造を複雑にした。新興国の豊かさを増した反面、先進国で格差の不満が高まり、ポピュリズムが既成の政治を脅かす。

 富の集中に警告を発するフランスに経済学者ピケティ氏の論著が注目され、米国の「サンダース現象」など不平等への異議申し立てが相次いでいる。

 自由と民主主義を掲げる従来の政治が閉塞感に覆われる今、政治家が人気取りのために「革命」という言葉を乱用するのは時代の皮肉というほかない。

 公正で平等を保障する社会を築くには、民主主義への問いかけを続けるしかない。

 その今の現実と今後の指針を考えるうえでも、ロシア革命とその後の現代史は今日的意味を持つ、」と指摘した。

 最後に社説は、「日本もロシア革命に深くかかわった。革命翌年、反革命派の支援の為に日本軍がロシアに上陸し、一時はシベリア中部まで進軍した。

 最後のサハリン北部からの撤退は7年後だった。

 この「シベリア出兵」は、日本への警戒感をソ連に刻んだ。

 北方領土問題やシベリア抑留と共に、日ロ関係を考える上で忘れてはならない歴史である。」として締めくくった。

 今年の正月はサンクトペテルブルグにいた。地下鉄モスクワ駅の革命広場にもたったが、主目的は「エルミタージュ美術館」「エカテリーナ宮殿の黄金の間」「千島樺太交換条約の行われた宮殿」等々であった。

 社説を読んで改めて勉強になった。

 「本家ロシアでは、あの革命の輝きは失われている。プーチン大統領は05年、11月7日を国民の祝日から外した。

 革命について「時代遅れを放置する人、転換を求めて破壊へ突き進む人、双方が無責任だからおきる」と突き放す。」とのこと、

 「「中国の習近平氏は先月の中国共産党大会で、「10月革命の砲声がとどろいて、中国にマルクス・レーニン主義が送り届けられた」と建国の歴史を誇った。」とのこと、

 「人類を進歩させるために社会主義が必要だという考え方は色あせた。」との指摘、

 「自由と民主主義を掲げる従来の政治が閉塞感に覆われる今、政治家が人気取りのために「革命」という言葉を乱用するのは時代の皮肉というほかない。公正で平等を保障する社会を築くには、民主主義への問いかけを続けるしかない。」との指摘、等々を知り、理解することが出来た。

 いまだ、「共産党一党独裁のソ連を範とした体制を続ける中国、北朝鮮、キューバなどの国々では、自由、人権、平等などで、理想にほど遠い状況だ」とのことである。そんな人権抑圧の体制は、近々内部からの民主化運動で崩壊すると思うが、その後に資本主義しか待っていない現状は、困ったものだ、と思っている。

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-12 19:03 | 朝日新聞を読んで | Trackback

 114日付朝日新聞社説に、「ルターとグーテンベルク」のことが載った。

 今日は、この社説に学ぶことにした。

 まず社説は、「かって欧州は、ローマ・カトリック教会が権勢をふるう世界だった。

 その体制を揺るがしたのは、ちょうど500年前に始まった「宗教改革」である。

 15171031日、ドイツの神学者ルターが教会の扉に、「95か条の論題」を貼った。

 罪を軽くするという免罪符を売り出したカトリックの堕落を公然と批判した。

 既存の体制に抗う画期的な主張だった。

 そして折しも、グーテンベルクが発明した活版印刷が、その抵抗を数々の出版物として拡散させ、大衆のうねりをもたらした。

 これを機にキリスト教のカトリックからプロテスタントが分かれた。

 以来、人類の政治や思想に多大な影響を与え、戦争を含む世界史の背景となった。」と教えてくれる。

 続けて社説は、「今風に言えば、体制の腐敗に怒った主張が、活版印刷によるリツイートで拡散し、膨大な「いいね」を獲得。木版画もインスタグラムの画像にように分かりやすく視覚に訴えた。

 ひとびとの共通の思いを呼び覚ます言論と、新しい伝達技術の出会い。それが改革の条件だったとすれば、いまはどうか。

 既成の政治や秩序、価値観が揺らぎ、グローバル化と格差の中で憤りが渦巻く今、インターネットを手に、新たな「改革」は起きえるのだろうか。

 ネット空間には中傷やデマが蔓延し、自分に都合が悪い情報は「フェイク」だと切り捨て離る大国の首脳もいる。 国際テロ組織はネットを駆使して破壊の思想を広め、人身を集める。

 一方で、人間の自由や救済を求める営みを最も強く支えるのもネットだ。

 ノーベル平和賞を受ける国際NGOや民主化運動もネット抜きには語れない。

 時代が何時であれ、問われているには伝達の技術とともに、主張そのものの説得力なのであろう。いまの技術の先進性に対し、言説の中身を磨く力が追いついていないのではないか。」と指摘した。

 最後に筆者は、「宗教改革から5世紀、「自由で平等な信仰」の夢は未完であり、不寛容な勢力は今も残る。

 しかし、その後、カトリック教会はじめ多くの宗派が時代とともに自己改革に動いた。

 この50年ほどでエキュメニズム(教会統一運動)の考え方が生まれ、和解の努力が始まっている。

 イスラムなど諸宗教との対話姿勢も根付いてきた。

 テロの不安と自国第一主義が広がり、移民難民への風当たりが強まる現代の遠い先に、世界は共生の秩序を見いだしているだろうか。

 その答えは誰にもみえないまま、風に吹かれているかもしれない。」として締めくくった。

読んで勉強になった。

 「かって欧州は、ローマ・カトリック教会が権勢をふるう世界だった。」とのこと、

 「1517年10月31日、ドイツの神学者ルターが教会の壁に、「95か条の論題」を貼った。<中略>

 そして折しも、グーテンベルクが発明した活版印刷が、その抵抗を数々の出版物として拡散させ、大衆のうねりをもたらした。」とのこと、

 「これを機に、キリスト教のカトリックからプロテスタントが分かれた。」とのこと、等々を知ることが出来た。

 そして、「人々の共通の思いを呼び覚ます言論と、新しい伝達技術の出会い。それが改革の条件だったとすれば、今はどうか」との問いは、きわめて挑戦的で刺激的だ。

 「時代が何時であれ、問われているのは伝達の技術とともに、主張そのものの説得力なのであろう。いまの技術の先進性に対し、言説の中身を磨く力が追いついていないのではないか」との指摘は、その通りだと思った。

 マスメディアの有識者からも、学者文化人の皆さんからも、地球の全体のエリアで、人類全体の問題をテーマで、宗教・政治・経済・労働・環境、等等に対する「理念と実践」を提起してほしい、と思った。伝達手段は地球全体・人類全体の規模で対応が可能となったのだから。

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-12 16:47 | 朝日新聞を読んで | Trackback

113日付朝日新聞朝刊朝刊17面に、「「異論のススメ」という欄がある。

 筆者は、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏だ。

 今日は、この筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「今回の総選挙も終わってみれば、大勢においてその前後にさしたる変化があったわけではない。小池百合子氏の一人芝居だった「小池劇場」も無残な結果となり、自公連立政権の3分の2議席は維持された。

 こらなら、民進党を分裂させなければよかった、などというなさけない話まででる始末だ。

 そのなかで多少興味深いのは、立憲民主党の躍進である。

 もっとも、この政党の面々に対して、「彼らは筋を通した」などと言う評価はまったくの筋違いで、実際には、彼らは小池氏に「排除」され、やむを得ず新党を立ち上げたのだった。

 筋を通すというなら、最後の民進党両院議員総会の場で、前原代表に対しどうして激しく抵抗しなかったのか、ということになる。

 前原氏の代表辞任を求めるのが当然であった。

 実際には彼らも希望の党入りを期待していたのである。

 それはともかく、立憲民主党の躍進の背景には、一定のリベラル勢力があることは間違いない。

 様々な立場や党派の混成であった民進党が、保守系とリベラル系に分裂することで、民進党のリベラル派支持層が躊躇なく立憲民主党を支持した、という構図は分かりやすい。」と切り出した。

 続けて筆者は、「しかし、ここで問いたいのは、今日、リベラル派とはいったい何なのか、ということである。

 そして、リベラル派が支持する立憲民主党は何を旗印にするのであろうか。

 リベラル対保守の対立とよくいう。

この対立は、従来、次のように解釈されてきた。

 経済界に近い立場から経済成長路線をとり、戦後日本の基本的な社会構造をできるかぎり維持するのが保守であり、これに対して、経済成長の恩恵を得ないもの利益や社会的少数派の権利を擁護し、より社会民主主義的な方向へと社会を変革するするのがリベラルである、と。

 だが、この対立はほとんど意味を失っている。

 なぜなら、この間、保守であるはずの自民党が、矢継ぎ早に「改革」を打ち出してきたからである。

 グローバリズムや中国の台頭、北朝鮮の核脅威といった世界状況の変化に対して、日本社会を大きく変えなければならない、というのが安倍首相の基本方針である。

 AIやロボットや生命科学など「技術革新」によって社会生活を変化させ、「人づくり革命」や「生産性革命」を断行するという。

 そして、世界の情勢変化に合わせて憲法を「改正」する、という。

 しかも、次々に実行している「保守」はかってなかった。

 それに対して、リベラル派は何を打ち出しているのだろうか。

 「生活を守れ」

 「弱者を守れ」

 「地域を守れ」

 「人権を守れ」

 「平和を守れ」

 「憲法を守れ」という。

 これではどちらが保守だかわからない。

 確かに、グローバリズムや過剰なまでに市場競争や技術革新の恩恵を得られずに、所得が低迷し、雇用が不安定になった人たちの生活を守れ、というのはその通りだ。

 福祉重視もよい。

だがそれなら、安倍政権も同様なことを言っている。

 安倍政権と対決するには、正面からグローなリズムに反対し、TPPに反対し、成長戦略やグローバル競争に反対し、その上で、代替的な政策ビジョンを打ち出さなければならない。

 立憲民主党の最大のウリは、憲法擁護である。

 しかし護憲を訴えるなら、リベラル派はいくつかの基本的な問題の応えなければならないだろう。

 まず一般論として、平和憲法のもとで日本の防衛をどうするのか、という大問題がある。

 平和憲法によって軍事力を保持せず、米軍と米国政府の世界政策、対日政策に自国の安全を委ねてきたのが戦後日本であった。それをどうするのか。

 そして、より具体的な問題として、核攻撃も辞さないと宣言している北朝鮮の脅威にどう対応するのか。

 日米同盟が不可欠だというなら、改めて集団的自衛権をどうするのか。

 さらに、自衛隊は合憲なのか否か。

 これらの問題にリベラル派は応えなければならない。

 民進党の一部がリベラル派の支持を受けながらも、国民の大きな支持を得られないのは、結局これらの問題に答えられないからである。

 「森友・加計問題」ばかりでは国民の支持を得ることはできない。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「リベラル派が重視する生命尊重も基本的人権も平和主義もすべて戦後憲法の基本的柱であり、それなりに実現された。

 それらを軸にする憲法は、戦後日本の「体制」なのである。

 ということは、リベラル派こそは、戦後日本の「体制」なのである。

 戦後日本の「体制」を、少なくとも理念上で代表し、それを「守る」ことを訴えてきた。

 言い換えれば、彼らは、戦後のこの「体制」をできるだけそのまま続けようとしているに等しい。

 「性急に変えるな」と言っているのである。

 逆に、保守とされる側が、1990年代の政治改革、構造改革から始まり、2000年代の小泉改革、それに今日の安倍首相による矢継ぎ早の変革を唱えてきた。

 そしてこの急な変革に、実はかなりの国民が不安を持っているのではないか、と私には思われる。

 立憲民主党への一定に支持は、今回の選挙で、この党が皮肉なことに、もっとも「保守的」、顕著な主張を繰り広げなかったからではないだろうか。

 問題は、今や本当の意味での「保守」の意味が不明になってしまい、真の保守政党がなくなってしまった点にこそある、といわねばならない。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「小池百合子氏の一人芝居だった「小池劇場」も無残な結果となり、自公連立政権の3分の2議席は維持された」、との指摘、

 「護憲を訴えるなら、リベラル派はいくつかの基本問題に応えなければならないだろう」との指摘、

 「まず一般論として、平和憲法の下で日本の防衛をどうするかという大問題がある。

 平和憲法によって軍事力を保持せず、米軍と米国政府の世界政策、対日政策に自国の安全を委ねてきたのが戦後日本であった。それをどうするのか。」との指摘、

 「より具体的な問題として、核攻撃も辞さないと宣言している北朝鮮の脅威にどう対処するか。日米同盟が不可欠だと言うなら、改めてっ集団的自衛権をどうするのか。

さらに、自衛隊は合憲なのか否か。この問題についてリベラル派は応えなければならない。」との指摘、等々はその通りだと思った。

 今の平和をどのように評価し、未来の世界にどう対処するのか、その中で現憲法の役割をどのように位置づけるのか、とうとう残念ながら護憲派の中で定まっていないような気がした。

 また、「リベラル派が重視する生命尊重も基本的人権も平和主義もすべて戦後憲法の基本的柱であり、それなりに実現された。それらを軸にする憲法は、戦後日本の「体制」を、少なくとも理念の上で代表し、それを「守る」ことを訴えてきた。言い換えれば、彼らは、戦後のこの体制をできるだけそのまま続けようと言っているに等しい。「性急に変えるな」と言っているのである。」との指摘、

 「逆に保守とされる側が、1990年代の政治改革、構造改革から始まり、2000年代の小泉改革、それに今日の安倍首相による矢継ぎ早の変化を唱えてきた」との指摘、等々は目からうろこの指摘であった。 たしかに、革新と言われる側、護憲派と言われる側、に革命的な理念や政策の定期がないまま、戦後70年が過ぎた。ソ連崩壊で社会主義の展望がなくなってから久しく、新たな世界をリードする思想が誕生していない。

 筆者を含めた日本の知識層から、資本論以来の世界をリードする思想を生み出してほしいと、切望する。

 

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-05 19:21 | 朝日新聞を読んで | Trackback

1030日付朝日新聞朝刊4面に、「政治断簡」という欄がある。

 筆者は、編集委員・松下秀雄氏だ。筆者の「政治断簡」は今回で終わるとのこと、惜しい気がするが、それは後を追う優秀な後輩が育っているということか。

 今日は、この筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「私は政治記者としては、ちょっと変わり種だ。このコラムでも永田町や霞が関の動きを、あまり正面から取り上げてこなかった。

 書いたのは戦争や沖縄、女性、若者、性的少数者、障害者といったテーマ。政治とのかかわりを考えたいと思ったからだ。

 政治も私も、地に足がついていなんじゃないか? そんな思いを持っていた。

 私は戦後20年近くたって「本土」と呼ばれる地域に男性として生まれ、難関と言われる大学を出て、名の知れた報道機関の記者=正社員に就いた。大阪府警の警部補だった父は学生時代に亡くなり、母は苦労したけれど、私はのうのうと生きてきた。戦争のリアルも知らなければ、人の痛みも身にしみてはいない。

 政治の世界にも、似た境遇の人は多い。政治と自分自身を捉えなおすため、違う境遇にいる人、違う体験を持つ人の話を聞いてまわった。」と切り出した。

 続けて筆者は、「戦争で特に関心を持ったのはそのメカニズムだ。

 たとえば「敵の脅威」。

 戦争の遂行には国民の支持や協力が欠かせない。そこで、しばしば「脅威」が誇張され、捏造される。

 大量破壊兵器があると言ったり、敵の攻撃をでっちあげたり。

 以前にも紹介したけれど、ナチス・ドイツの国家元帥、ゲーリングはこういっている。

 「我々は攻撃されかけている」と訴え、「国を危険にさらしている」と平和主義者を非難すれば、人々は意のままになる。このやり方は、どんな国でも有効だーーーーーーーー。

 自由社会でも、狂気の指導者がいなくても、不安に働きかける手法は通用する。

 衆院選の光景を見てこの話を思いだし、胃液が逆流するような苦しさを感じた。

 安倍晋三首相は各地の街頭で、真っ先に「北朝鮮の脅威」を訴えた。

 こんな演説、時の首相から聞いた覚えはない。

 むろん戦争したいのではなく、票が増えると踏んだのだろう。麻生太郎財務相は、「明らかに北朝鮮のお蔭もある」と吐露している。

 その軽さが危なっかしい。

 狙いはどうあれ、首相が「北朝鮮の脅威」を叫べば在日コリアンが敵視されないか。彼らは忘れているのだろうか。

 沖縄県の翁長雄志知事が、安倍首相は「日本を取り戻す」と言っているが、沖縄は入っているのか」と問うていたのを思い出す。

 ヤマト(本土)だけが日本と思っていないか、という意味である。」と指摘した。

 最後に筆者は、「世界に「自国優先」、白人至上主義に類する「多数派優先」の自己中心政治が広がっている。こんな時こそ、多数派か少数派かにかかわらず、ひとり一人の生、自由、人権を大切にしなければ!

 それらを重んじるのが「リベラル」という立場。

 護憲か改憲か、保守か革新かといった線引きを超え、ともに声を上げる時ではないか。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「戦争で特に関心を持ったのは、そのメカニズムだ。

 例えば「敵の脅威」。戦争には国民の支持や協力が欠かせない。そこで、しばしば「脅威」が誇張され、捏造される。大量破壊兵器があると言ったり、敵の攻撃をでっちあげたり」との指摘、

 「ナチス・ドイツの国家元帥、ゲーリングはこういっている。

 「我々は攻撃されかけている」と訴え、「国を危険にさらしている」と平和主義者を非難すれば、人々は意のままになる。このやり方はどこの国でも有効だーーーーーー。」との指摘、

 「世界に「自国優先」白人至上主義に類する「多数派優先」の自己中心政治が広がっている。日本も似たようなものだ」との指摘、等々の指摘はよく理解でき納得した。

 だから、筆者の「こんな時こそ、多数派か少数派かに拘わらず、ひとり一人の生、自由、人権を大切にしなければ!不安にあおられ、手放さないようにしなければ!」との指摘は、しっかりと自分中に収めておくことにした。

 


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by sasakitosio | 2017-11-05 17:39 | 朝日新聞を読んで | Trackback

 1029日付朝日新聞朝刊1面に、「日曜に想う」という欄がある。筆者は、編集委員・大野博人氏だ。

 今日は、この筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「この選挙は、与党がかって野党が負けたという総括でいいのだろうか。勝ったのは行政府でまけたのは立法府なのではないか。

 解散総選挙は基本的に、首相や大統領が議会と対立して行き詰まったときに、突破口を求めて国民に問い掛ける手段だ。

 いわば行政権力者から議会への挑戦。そう考えれば、今回の結果は行政府に対する立法府の敗北を意味する。

 安倍晋三首相は解散の理由に北朝鮮や消費税の増税分の扱いなどを挙げた。けれど、いずれの問題も政府・与党と野党の間に埋めがたい溝があらわになり、議論が暗礁に乗り上げている段階には見えなかった。

 逆に、森友・加計学園問題で野党と政府は対決していた。かといって、首相はそれについて民意の判断を仰いだわけでもない。

 何を問うているのかあいまいなまま、「政権選択」の選挙だと呼びかけた。野党はそれに乗るかのように「反安倍」で結集しようとしてつまずいた。

 国会は政府の支持基盤を再確保するための道具に成りはて、与野党の議員たちもそのための選挙にいや応なく付き合う羽目になった。

 結果が与党というより首相の勝利だとすれば、政府に対する与党議員の発言力が強まるとは考えにくい。

 他方、野党勢力は、希望の党の失速や民進党の迷走などで深手を負った。

 政府・自民党は秋の臨時国会は開かない方向で調整を始めたという。「国難」というから主権者が代表として選んだのに、選ばれた与党議員たちは議論する気がないらしい。「国難」はどうした、何のために議席にいるのか。

 結局、この選挙を通して、行政府をチェックすべき立法府は、選挙前よりもずっと弱体化してしまった。」と指摘した。

 続けて筆者は、「なんで衆議院に465人の議員がいるのか。それは465個の課題を代表するため。

 安倍か反安倍で数を競うためにいるのではない」と、今回の選挙をめぐる状況を批判するのは哲学者の東浩紀さん、

 「残念なことに、選挙では反政権側の方が数に敏感になっていた」

 たしかに、希望の党の小池百合子代表は、月刊文芸春秋11月号への寄稿で、「衆議院の過半数、233議席を獲得し、政権奪取を目指します」と宣言していた。

 そして選挙戦が始まると、その数の一人になりたくて多くの議員が合流していった。

 多様な民意を担うべき議員が、安倍か反安倍か、あるいは小池かといった行政権力につながる指導者のイメージを自らも身にまとおうと駆け出す。

 それでは、立法府のメンバーとしての使命感を後回しにし、「465の課題」をたった二つの選択肢に還元してしまうことになる。複雑な社会を代表する議会はとても作れない。

 行政府に対する立法府の退潮は、日本意特有の現象ではない。

 例えばフランスでも、マクロン新大統領が国民議会選挙でも自ら新「政党」をつくって多数派を確保した。

 行政府のリーダーが議会も手中に収めた形だ。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「内戦や独裁体制が終わったばかりの国で選挙を取材した経験が何度かある。

 1990年のルーマニア・ブカレストや1993年のカンボジア・タケオでは、人々はスーツや新品のTシャツを着て長い行列をつくり順番を待っていた。やっと手にした民主主義や選挙に精いっぱいの敬意を洗う人々の姿がまぶしかった。

 意表を突いた解散総選挙による議会の弱体化を、首相の巧みな戦略だとか、それが議院内閣制だと評することはできるかもしれない。

 しかし、その行き着く果てにあるのは、行政府の従属物としての立法府だ。

 それで国民がますます代表されているという感覚を失えば、民主主義は成り立たなくなる。

 選挙で与野党が勝ったり負けたりするのは当然だとしても、国民を代表する立法府が敗北してはならないはずだ。

 ブカレストやタケオの人々が見せた選挙への期待と信頼を思い出しながら、この選挙で失ったものの大きさを考えた。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「この選挙は、与党がかって野党が負けたという総括でいいのだろうか。勝ったのは行政府でまけたのは立法府なのではないか」との指摘、

 「国会は政府の支持基盤を確保するための道具になりはて、と野党の議員たちもそのために選挙にいや応なく付き合う羽目のなった」との指摘、

 「結局、この選挙を通して、行政府をチェックすべき立法府は、選挙前よりずっと弱体化してしまった」との指摘、等々の指摘はその通りだと思った。

 そして、「1990年のルーマニア・ブカレストや1993年のカンボジア・タケオでは、人々はスーツや新品のTシャツを着て長い列をつくり順番を待っていた。やっと手にした民主主義や選挙に精いっぱいの敬意を払う人々の姿がまぶしかった」とも教えてくれる。

 政治に対する、選挙に対する「国民の信頼や期待」をどうやって、高めるか!間接民主主義を進化させてか、直接民主主義をも活用してか、「国民が代表されているという感覚」持てるようにしなければ、と思った。今世界に吹き荒れている「自国第一主義」の嵐の跡についてくる「独裁主義者」の台頭を許さないためにも!!

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-05 16:32 | 朝日新聞を読んで | Trackback

1023日付朝日新聞朝刊社説に、「衆院総選挙」のことが載った。

 今日はこの社説を学習することにした。

 まず社説は、「衆院選は自民、公明の与党が過半数を大きく超えた。有権者は安倍首相の続投を選んだ。

 森友・加計学園問題への追及をかわす大義なく解散―――。自ら仕掛けた「権力ゲーム」に、首相は勝った。

 ただ、政権継続を選んだ民意も実は多様だ。選挙結果と、選挙戦のさなかの世論調査に現れた民意には大きなズレがある。」と切り出した。

 続けて社説は、「本紙の直近の世論調査によると、「安倍さんに今後も首相を続けてほしい」34%、「そうは思わない」は51%。

 国会で自民党だけが強い勢力持つ状況が「よくない」が73%、「よい」は15%。

 「今後の自民党中心の政権が続くのがよい」は37%、「自民党以外の政党に政権が代わるのがよい」は36%。

 驕りとゆるみが見える「一強政治」ではなく、与野党の均衡のある政治を求める。そんな民意の広がりが読み取れる。

 ならばなぜ、衆院選で自民党は多数をえたのか。死票の多い小選挙区制の特性もあるが、それだけではあるまい。

 首相が狙った権力ゲームに権力ゲームで答える。民進党の前原誠司代表と希望の党の小池百合子代表の政略優先の姿勢が、最大の理由ではないか。

 小池氏の人気を当て込む民進党議員に、小池氏は排除の論理」を持ち出し、政策的な「踏み絵」を迫った。

 それを受け、合流を求める議員たちは民進党が主張してきた政策を覆した。

 安全保障関連法の撤回や、同法を前提にした改憲への反対などである。

 基本政策の一貫性を捨ててまで、生き残りに走る議員たち。

 その姿に、多くの有権者が不信感を抱いたに違いない・

 例えば「消費税凍結」「原発ゼロ」は本紙の世論調査ではともに55%が支持する。希望の党は双方を公約に掲げたが、同党の政策軽視の姿勢があらわになった以上、いくら訴えても民意を掴めるはずがない。

 与党との1対1の対決構図を目指して模索してきた野党共闘も白紙にされた。

 その結果、野党同士がつぶし合う形になったことも与党を利した」と指摘した。

 さらに社説は、「その意味で与党が多数を占めた今回の選挙は、むしろ野党が「負けた」のが実態だろう。

 旧民主党政権の挫折から約5年。「政権交代可能な政治」への道半ばで、野党第一党が散り散りに割れたツケは大きい。

 与党の圧倒的な数を前に、野党の連携を欠けば政権への監視役は果たせず、政治の緊張感は失われる。その現実を直視し、選挙と国会活動の両面で協力関係を再構築することこそ、野党各党が民意に応える道だ。

 留意すべきは、権力ゲームからはじきとばされた立憲民主党がなぜ躍進したのか。

 判官びいきもあろう。その上に、民進党の理念・政策や野党共闘を重んじる筋の通し方への共感もあったのではないか。

 「上からのトップダウン型の政治か、下からの草の根の民主主義か」、枝野幸男代表が訴えた個人尊重と手続重視の民主主義のあり方は、安倍政権との明確な対立軸になり得よう。

 では首相は手にした数の力で次に何を目指すのか。自民党は公約に初めて改憲の具体的な項目を明記した。一方で首相は選挙演説で改憲に触れず、北朝鮮やアベノミクスの「成果」を強調した。

 経済を前面に掲げ、選挙が終わると正面から訴えなかった特定秘密保護法や安保法、「共謀罪」法を押し通す。首相が繰り返してきた手法だ。

 今回は改憲に本腰を入れるだろう。」と指摘した。

 最後に社説は、「だが首相は勘違いをしてはならない。そもそも民主主義における選挙は、勝者への白紙委任を意味しない。過去5年の政権運営が皆信任され、さらなるフリーハンドが与えられたと考えるなら過信にすぎない。

 首相の独善的な姿勢は既に今回の解散に表れていた。

 首相は憲法53条に基づく野党の臨時国会召集要求を3カ月も放置した末、あらゆる審議を拒んで冒頭解散に踏み切った。

 与党の多数は、そんな憲法と国会をないがしろにした政争の果てに得たものだ。そのことを忘れてはならない。

 民意は改憲を巡っても多様だ。本旨の世論調査では、自民党が公約に記した9条への自衛隊明記に賛成37%、反対は40%だった。

 短兵急な議論は民意の分断を深めかねない。主権者である国民の理解を得つつ、超党派による国会の憲法調査会での十分な議論の積み上げが求められる。

 憲法論議の前にまず、選ばれた議員たちがなすべきことはがある。森友・加計問題をめぐる国会で真相究明である。

 首相の「丁寧な説明」は果たされていない。行政の公正・公平が問われる問題だ。勝ったらリセット、とはいかない。

 民意の分断を防ぎ、乗り越える。そんな真摯で丁寧な対話や議論が、今この国のリーダーには欠かせない。

 政権の驕りと緩みを首相みずから率先して正すことが、その第一歩になる。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「与党が多数を占めた今回の選挙は、むしろ野党が「負けた」のが実態だろう。

 旧民主党政権の挫折から約5年。「政権交代可能な政治」への道半ばで野党第一党が散り散りに割れたツケは大きい」との指摘は、その通りだと思った。

 ただ、その野党協力の絆を内側からバラバラに切り裂いたのは、ほかならない安倍首相「改憲」だったのではないか。

 野党各党が憲法改正問題になると、ばらばらになることを見透かした「高等戦術」を使われたような気がしてならない。

 憲法問題も含めて、これからの世界、その中の日本の方向について、理念政策を確立し、権力維持にだけ汲々としている自公政権・与党もどき野党を吹き飛ばすために、労働者・市民の結集は図らなければ、と思った。

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-03 11:28 | 朝日新聞を読んで | Trackback

 1022日付朝日新聞朝刊3面に、「日曜の想う」という欄がある。筆者は、編集委員・福島申二氏だ。

 今日は、この筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「あの詩人のお宅は、さっぱりと知的な空気をまとっている。私のご近所といえるところに家はあって、たまに散歩しながら前を通ることがある。

 詩人は11年前に亡くなられ、家屋は少し古びたけれど佇まいはそのままだ。通りかかるといつも、彼女の詩が一つ二つ胸の底から浮かんでくる昨日あたり散歩に出かけていれば、浮かんできたのはこの一節だったかもしれない。

 言葉が多すぎる/というより/言葉らしきものが多すぎる/というより/言葉と言えるほどのものが無い

 お分かりの人もあろう。茨木のり子さんである。この「賑々しきなかの」という詩の冒頭は、きのうまでの選挙運動を言っているようにも見える。何のための選挙か納得のいかないまま、自賛と甘言の呼号が頭上を飛び交ったように感じたひとは、少なくなかっただろう。

 あるいは、胸に浮かぶのはこの詩句だったかもしれない。

 ひとびとは/ 怒りの火薬をしめらせてはならない/ まことに自己の名において立つ日のために

 この3行を含む詩には「内部からくさる桃」という刺激的な題が与えられている。感情に任せて荒れ狂う怒りではない。憎悪ともむろん違う。この3行にこもる意味は、おそらく「忘れない」ということと同義だ。

 なぜなら、忘れるのをじっと待っている人たちがいるから。」と切り出した。

 続けて筆者は、「内なる火薬を湿らせないでいるのは簡単ではない。

 例えば原発一つとっても、進める側は、政治家も役人も、それを仕事として税金から報酬をもらう。ところが異議を唱える市民の多くは、それで食べてはいかれない。日々の暮らしに追われながらやむにやまれぬ気持ちを行動の支えにしている。立場が違いすぎるのだ。

 同じことを世論を二分して成立した安保法などにもいえる。世の中はあわただしい。大きなニュースが飛び込めば、ひとつ前のできごとはたちまち後景に退いていく。

 そのうえ今は目先の愉楽や便利さに工夫が凝らされて、いきおい一時の感情にとどまりがちだ。そしてじきに忘れられ、政治家は高を括ることを覚えていく。

 310万人が没した先の戦争さえ例外でなくなっている。戦後72年、日本が抱いてきた戦争という者への「怒りの火薬」は、ここに来て急速に湿ってきたようだ。

 とりわけ政治の担い手から、歴史の井戸に深くつるべを下ろす謙虚さが失われているように思われる。

 1926(大正15)年生まれの茨木さんが代表作につづっている。

 私が一番きれいだったとき/…男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差しだけ残し皆発っていった

 東京に冷たい雨の降ったきのうは74年前に、当時のニュース映像で良く知られる雨中の学徒出陣壮行会が行われた。敗戦のとき茨木さんは19歳。この人の詩は、戦争を知る世代ゆえの「勇ましさ」への懐疑を、選び抜いた言葉で私たちに投げかけている。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「さて今夜、テレビ局は特別番組をずらいと並べて衆議院選の開票を待つ。

 候補者1180人は当と落に振り分けられ、国政に新しい勢力図が描かれる。

 どのような図になろうと、あすからの政治にまともな言葉がほしい。

 空疎な「言葉らしきもの」はいらない。

 「言葉と言えるほどのものがない」などは論外だ。

 私たちもまた、言葉を巡る政治家の怠惰や横着にならされてしまってはいけない。

 主権者として、為政者の思い上がった言葉には、愚か者を諭す眼差しを向けなくてはならない。

 9年前、米国の大統領選に勝利したオバマしはこう述べたものだ。

 「私を支持しなかった皆さんには票を頂けなかったが、皆さんの声に耳を傾けます 。私は皆さんの大統領になるつもりです」

 分断をあおる言葉なら、立場や意見のことなるものどうしが肩を組んで歩くの可能にするのも言葉である。それを私たちは「民主主義」となずけた。」として締めくくった。

読んで勉強になった。

 「人々は/

 怒りの火薬をしめらせてはならない/

 まことに自己の名においておいて立つ日のために

 この3行を含む詩は「内部からくさる桃」という刺激的な題が与えられている。」とのこと、

 「1926年(大正15)年生まれの茨木さんが代表作につづっている。

 わたしが一番きれいだったとき/

 ・・・男たちは挙手の礼しか知らなくて/

 きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

東京に冷たい雨の降った昨日は74年前に、当時のニュース映像でよく知られる雨中の学徒出陣壮行会が行われた日だった」とのこと、等々を知ることが出来た。ちなみに、74年前のこの日、私は誕生して六カ月だった。

 

 

 

 


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by sasakitosio | 2017-11-03 11:18 | 朝日新聞を読んで | Trackback

1018日付朝日新聞朝刊社説に、「俳句掲載拒否問題のさいたま地裁の判決」が載った。

 今日この社説を学習することにした。

 まず社説は、「自治体に広がる事なかれ主義と、見当違いの「中立」墨守に警鐘を鳴らす判決だ。

 「梅雨空に「9条守れ」の女性デモ」。

 さいたま市がこの俳句を地元の公民館便りに載せることを拒んだ問題で、さいたま地裁は、作者の女性に慰謝料を支払うよう、市に命じた。

 公民館は、女性が参加するサークルで秀作に選ばれた句をずっと掲載してきた。だが「梅雨空に」については、秀句とされたにもかかわらず、「公民館は公平中立であるべきだ」などの理由で採用しなかった。

 判決は、それまでのいきさつから、女性が掲載を期待したのは当然だと判断。

 思想・表現の自由の重みに照らすと、この期待は守られなければならないのに、公民館の職員は十分な検討をせず、正当な理由がないまま拒否したと結論づけた。

 「公立中立」をめぐっても、作者名が明示されるのだから、行政の中立性が害されることはなく、むしろ掲載しないことが行政の信頼を傷つけると、常識にそう指摘をしている。

 注目すべきは、公民館側がこうした異例の措置を取った原因として、判決が「一種の「憲法アレルギー」のような状態に陥っていたのではないかと推認される」とのべたことだ。」と指摘した。

 さらに社説は、「掲載を拒んだ職員らは教育関係者で、学校現場で日の丸・君が代をめぐる対立などに直面してきた。その経験からいざこざを嫌ったとの見立てだ。

苦情や抗議を招きそうな面倒な話はやめてほしい。とりわけ憲法がからむ政治的な問題とはかかわりを持たず、事前に抑え込む方が得策だーー。そんな空気が、自治体を始め、公の施設や空間を管理する側をおおっているのは間違いない。

 体制に批判的な言動をあげつらうメデイアやネット世論もあり、対応に追われる労苦は理解できる。だからといって、市民から発表や参加の場を奪った先にあるのはどんな世の中か、想像力を働かせる必要がある。

 波風のたたない平穏な光景かもしれない。だが、それは闊達さとは無縁の息苦しい社会だ。」と指摘した。

 最後に社説は、「判例や学説は、基本的人権の中でも表現の自由をひときわ重く見てきた。民主主義を深めるには、自由に学び、ものを考え、成果を公表し、意見を交わせることが不可欠だからだ。

 憲法が保障する権利は、失ったときにその尊さを思い知らせれる。

 そして、一旦失ってしまうと、回復するのは容易ではない。

 自由な社会を維持し、どう行動すべきか。一人一人が問われる。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「「公平中立」を巡っても、作者名が明示されるのだから、行政の中立性が害されることはなく、むしろ掲載しないことが行政の信頼を傷つけると、常識に沿う指摘をしている。」とのこと、

 「注目すべきは、公民館側がこうした異例の措置を取った原因として、判決が「一種の「憲法アレルギー」のような状態に陥っていたのではないかろ推認される」と述べたことだ。」とのこと、

 「判例や学説は、基本的人権の中でも表現の自由をひときわ重く見てきた。民主主義を深めるには、自由に学び、ものを考え、成果を公表し、意見を交わすことが不可欠だからだ。」との指摘、とうとうを知り理解することが出来た。

 いわば国家権力への忖度が、自治体の末端で見られるようになっては、民主主義が終わる。

 その意味で、この旅の判決は、民主主義を救う一つになった、と思った。

 

 


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by sasakitosio | 2017-10-27 13:48 | 朝日新聞を読んで | Trackback

1025日付朝日新聞朝刊1面に、「問う 選挙のあとで 「上」」という欄がある。
 筆者は、政治部次長・松田京平氏だ。

 今日は、この筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「政党とは何か。深く考えさせられた選挙だ。民進党、そして希望の党の顛末を言い募っても仕方がない。

 ただ、この20数年の政党政治の混迷が極まった、その象徴のようだった。 」と切り出した。

 続けて日者は、「投開票日の2日前。東京・錦糸町の駅前に「主役」2人が並んだ。希望の党の小池百合子代表と民進党の前原誠司代表。

 雨傘を持つ聴衆に2人は同じフレーズを用いて訴えた。「AまたはBという選択ができる流れが必要だ」「AでなければB,BでなければAという緊張感を」と。

 分かるようで、わからない。有権者にAかBか選択を迫る選挙にしたいという趣旨のようだが、2人が唱えた「安倍政治」を止めることと、政権を今の野党が担うこととは、必ずしもイコールではない。

 安倍晋三首相に不満があるが、いきなり野党に政権を任せようとは思わない。

 政権選択というのなら、消極的ながら自公政権に託すしかないーーー。そう考えた有権者が多かったのではないか。

 結果として、不支持率の高い首相が圧倒的議席得て、続投になった。

 二大政党制、政権選択という「幻想」をいつまでも追い求めるのか。

 小池、前原両氏の失敗は問うている。」と指摘した。

 最後に筆者は、「小選挙区制に無理に合わせようとしても、政党の地力が伴わなければ政権は取れず、取っても失敗する。

 この20年余の歩みである。

 選挙制度のひずみを見直すことは必要だが、それを待ってはいられない。

 安倍政権の5年間に不満や疑問を持つ国民は多い。強い野党が出現し、緊張感のある国会論戦によって、政権をチェックし暴走を止める。

 その実績を積み重ねてこそ、幻想が現実へと変わり、「次の政権」の選択肢たりうる。

 議席を伸ばした立憲民主党も、すぐに自民党に代わる政権政党になれるわけではないし、すぐにめざすべきではない。

 まして野党が政権を助ける補完勢力に出すなら、先はない。かって第三極を標榜した政党がことごとく政権に近づいては瓦解した。

 維新が議席を減らし、希望が苦戦したのは、有権者がそうしたにおいをかぎとったからではないか。

 自民党内でも党内野党の存在が薄れ、自由に議論する活力が失われて久しい。

 石破茂氏は選挙で「国民がおかしいと思うことをきちんと言える政党に」と訴えていたが、「ポスト安倍」候補たちが沈黙したままでは、議論なき「無競争の政治」が続く。政党政治の危機である。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「投開票日の2日前。東京・錦糸町の駅前に「主役」2人が並んだ。希望の党の小池百合子代表と民進党の前原誠司代表。雨傘を持つ聴衆に2人は同じフレーズを用いて訴えた。」とのこと、

 「安倍晋三首相に不満があるが、いきなり野党に政権を任せようとは思わない。政権選択というなら、消極的ながら自公政権に託するしかない――そう考えた有権者が多かったのではないか。」との指摘、

 「二大政党制、政権選択という「幻想」を何時まで追い求めるのか。小池、前原両氏の失敗は問うている。」との指摘、等々を知り、理解することが出来た。

 そして、「強い野党が出現し、緊張感のある国会論戦によって、政権をチェックし、暴走を止める。その実績を積み重ねてこそ、幻想が現実へと変わり、「次の政権」の選択肢たりえる。」との指摘は大賛成である。

 ただ、政権を厳しくチェックする「意欲」も「能力」もなく、「野党議員」をやっている人々が多いような気する。

 そこで、与野党を問わず、議員一人一人の資質・意欲・思想に着目した、選挙で投票できるようなシステムを考える時期ではないか、と思った。 


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by sasakitosio | 2017-10-27 11:53 | 朝日新聞を読んで | Trackback