百年後の平和を守る< 百年前、人間は次の戦争を阻止することに失敗した!あの時戦争を阻止してくれてありがとう。百年後の人間たちに、そう言ってもらえるわれらになる!!いいねえ!>
2018年 01月 25日
1月14日付東京新聞朝刊社説横に、「時代を読む」という欄がある。筆者は、同志社大教授・浜矩子氏だ。今日はこの筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「「人間50年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」。ご存じ、「敦盛」の一節だ。芝居などでは、本能寺の変の折り、織田信長がこれを舞ったということになっている。
ここでいう「人間」は今日、われわれが思う人間ではなくて、「人の世」を意味するのだという。したがって、このくだりも、人間の寿命が50年だと言っているわけではない。だが、それはそれとして、いまや、まさしく人間の寿命が百年の時代となっている。人生百年時代である。
安倍政権も、「人生百年時代構想」なる怪しげな名前の有識者会議を立ち上げた。彼らがこの会合を設置したばかりに、「人生百年」というフレーズ自体にも、どうも、腰が引けるようになった。罪作りな連中である。」と切り出した。
続けて筆者は、「それはともかく、人生百年ということになれば、今年、2018年に生まれた人々は2118年まで生きることになる。
今年の新生児たちが百年の寿命をまっとうしようとする時、それまでの人生を振り返って何を思うのか。
自分が生まれた2018年について、どのような感慨をいだくのだろうか。
なかなか想像を絶するものがある。そこでヒントを得るために2018年から百年前を振り返ってみよう。なにが真っ先に頭に浮かぶか。
それは、なんといっても第一次世界大戦の終結である。この時、人々は久々の平和到来に熱狂した。だが、ものの20年もたたないうちに、世界は2回目の大戦にむかって疾走し始めてしまった。
2018年から1918年を振り返るわれらは、何がどうなったがために、再び世界大戦に至ったかを知っている。少なくとも、その気になれば、その経緯を直ちに確認できる。そのために、歴史学者たちが夥しい量の情報と絵解きを用意してくれている。
あの時ああなったから。あの時、ああさえならなければ。あそこが運命の分かれ目だった。
「たら」も「れば」も「なに」も「なぜ」も。
百年前についてなら、すべてがわかる。だが百年後については全てがこれからだ。
百年後に、生まれ年の2018年を振り返る人々にも、きっと全てがよく分かるのだろう。
あの時、あの国であんな人が政権についたばかりに、あんな風になってしまった。
あの時、あの国にあんな大統領が出現したばかりに、あんなことが起きてしまった。そんな具合に分析するだろう。」と指摘した。
最後に筆者は、「肩越しに過去を見るとき、われわれはみんな賢くなれる。
問題は、まっすぐ未来に顔を向けながら、どこまで賢くなれるかだ。それを決めるのが、今を見る目だ。
どれだけ澄んだ目で今を見つめられるか。どれだけ鋭い目を持って、今に潜む危険を見抜くことが出来るか。いまを見る目を、偽予言者たちが張る煙幕からどれだけしっかり守りぬけるか。これらのことが、未来を見通す目の確かさを決める。
今を見る目を磨いてくれるものは何か。
それは、結局のところ、過去の記憶と記録だ。
十分に過去を知っているものには、その知識との比較から今が見える。
そして、今が見えれば、未来もまた見える。
百年前、人間は次の戦争を阻止することに失敗した。
あの時、戦争を阻止してくれてありがとう。
百年後の人間たちに、そういってもらえるわれらになる。これを年初の決意としよう。」として締めくくった。
読んで勉強になった。
まず「「敦盛」の「人間50年」が、「人の世」を意味する」とのことを、初めて知って感動だ。
また「「たら」も「れば」も「なに」も「なぜ」も。百年前についてなら、すべてがわかる。だが百年後については、全てがこれからだ」との指摘、
「肩越しに過去を見る時、われわれはみんな賢くなれる。問題は、まっすぐに未来に顔をむけながら、どこまで賢くなれるかだ。それを決めるのが、今を見る目だ。」との指摘、
「いまを見る目を磨いてくれるものはなにか。それは、結局のところ、過去の記憶と記録だ。」との指摘、等々はよく理解できた。
そして考えた。確かなことは、過去のできごとは、条件を変えると歴史上の具体的な結果が生じなかったことだけではないか?条件が変わったことで、必ず良い結果が残ったとは誰にもいえないことではないか?