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by sasakitosio

巨大津波の町 「犠牲者ゼロ」目指す誇り <高知県西南部黒潮町。政府の検討会が2012年3月末に34.4メートルの津波想定を発表した直後、町長は役場の全職員を防災担当で町内の全61地区に割り振った!!>

8月3日付朝日新聞社説下に、「ザ・コラム」という欄がある。

 筆者は、編集委員・上田俊英氏だ。

 今日はこの筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「高知県西南部の黒潮町。入野松原は延長4キロもの砂浜に沿った、広大な松林だ。数十万本のクロマツの林は、国の名勝に指定されている。7月20日、早朝の松林はひっそりと静まり返っていた。

 この辺りは、鎌倉期ごろまで、海沿いに広がる湖、「潟」だったらしい。今から1300年以上も前の684年、日本列島を巨大地震が襲う。

 「白鳳地震」。

 「日本書紀」に「土佐の国では広大な土地が水没して海になった」とする記述が残る。

 黒潮町域の被害は不詳だが、今の町の前身の一つ、旧大方町の「町史」は「大方は大潟の転字ではないか」と記す。

 白鳳地震で陥没した入野平野に海水が浸入し大きな潟になったというのである。

 松原を進むと、一角に加茂八幡宮があった。境内に二つの石碑が立つ。

 「安政津波の碑」は幕末の1854年、「南海大地震の碑」は」敗戦直後の1946年、それぞれこの地を襲った巨大地震を伝える。

 「満眼に全家なし」

 「家の漂流する事数を覚ず」と、安政津波の碑は記す。見渡す限り家はすべてなくなり、無数の家が漂流した。津波は7度に及び、田やあぜは「海と成る」とある。当時の土佐藩では、この地震と津波で370余の命が奪われた。

 神社のそばに、真新しい「津波避難タワーが見えた。太い鋼管をくみ上げたやぐらのような構造で、上部の避難フロアは標高17.5メートル。百人を収容できる。

 そう、ここは巨大津波の町、太平洋沖の南海トラフ沿いで巨大地震が起これば、最大で34.4メートルの津波が襲うと想定されている。その高さは全国最大だ。」と切り出した。

 続けて筆者は、「黒潮町の浜町地区は、もう一つの町の前身、旧佐賀町の中心だ。カツオの一本釣り漁の拠点として栄えてきた。

 細い道を挟んで家々がひしめくこの漁師集落にも津波避難タワーがあった。

町内に6か所建設されたタワーの中で最後に、今春完成した。

 高さ22メートル、避難フロアの標高は25.3メートルで、230人収容できる。

 147段の階段を上って避難フロアに出ると、眼前に太平洋が広がっていた。

 東北・三陸沿岸の被災地でよく見る巨大な防潮堤や防波堤はない。ここでは人々がまさに海と一体となって生きている。

 「このタワーは町の約160の避難場所の一つ。高台へ逃げる203ほどの避難道も8割が完成しました」と、町地域住民課の吉門要さん(29)は説明してくれた。

 海の反対側を見ると、きれいに整備された避難道が裏山へと続いているのが見えた。

 浜町地区に津波の第一波が押し寄せるには、地震発生から10~20分後。タワーは、それまでに高台にたどり着けない「非難困難区域」の住民のための避難場所だ。

 「うちの地区で「想定外」とか「まさか」とか、そんな言葉は使わないようにする。そのために、とにかく避難訓練をして、足りないものは町に要望していく」と、区長の吉本幸さん(81)は言った。タワーや避難道は、その成果である。」と教えてくれた。

 最後に筆者は、「政府の検討会が2012年3月末に34.4メートルの津波想定を発表した直後、黒潮町の大西勝也町長(46)は役場の全職員を防災担当とし、町内の61地区に割り振った。

 「当時、「逃げない」「逃げても無駄」という町民が多くいたことは事実。

 でも、それは本音なのか。

 町民は何を恐れているのか。

 客観的に評価することから始めた。

 地区ごとに町民との対話集会や懇談会を重ね「助かるとはどういうことか」「助かるために何が必要か」を話し合った。

 さらに世帯ごとに「自力避難の可否」「避難先」「非難にかかる時間」「非難上の心配事」などを記した「非難カルテ」をつくってもらい、これを基に地区の人々が主体となって防災計画づくりを進めている。目標は、「犠牲者ゼロ」ある。

 「地域にとって一番大切なのは、自分たちが住んでいるところに誇りを持つこと。「こんな町 危ない」と一時は失いつつあったその誇りを町民が自らの力でとりもどしてきた」と、大西町長は話した。

 地域への誇りを、どうやって取り戻すか。それは東日本大震災の被災地が抱える課題でもある。「復興とはどういうことか」。皆で、あらためて考えたい。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「今から1300年以上も前の684年、日本列島を大地震が襲う。「白鳳地震」。

 「日本に書紀」に土佐の国で広大な土地が水没して海になった」とする記述が残る」とのこと、

 「加茂八幡宮の境内に二つの石碑が立つ」とのこと、

 「「安政津波の碑」は幕末の1854年、「南海大地震の碑」は1946年に、それぞれこの地を襲った巨大地震を伝える」とのこと、

 「「満眼に全家なし」「家の漂流する事数を覚ず」と安政津波の碑は記す。」とのこと、

 「当時の土佐藩では、この地震と津波で370余の命が奪われた」とのこと、

 「神社のそばに、真新しい「津波避難タワー」が見えた。太い鋼管を組み上げたやぐらのような構造で、上部の避難フロアは標高17.5メートル。100人を収容できる」とのこと、

 「地区ごとに町民との対話集会や懇談会を重ね「助かるとはどういうことか」「助かるために何が必要か」を話し合った」とのこと、

 「さらに、世帯ごとに「自力避難の可否」「避難先」「非難にかかる時間」「非難上の心配事」などを記した「非難カルテ」を作ってもらい、これらをもとに地区の人々が主体となった防災計画づくりを進めている。目標は「犠牲者ゼロ」である」とのこと、等々を知ることができた。

 町長を先頭に地域が一体となって「犠牲者ゼロ」を目指した取り組みの実戦には頭が下がった。

 

 

 

 

 


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by sasakitosio | 2017-08-11 15:01 | 朝日新聞を読んで | Trackback