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by sasakitosio

道徳の教科化 教えがたい社会生活の基本<卑怯なことはしない!友人を裏切らない!世話になったものへの恩義を大切ににする!嘘はつかない!社会に対しては礼節を疎かにしない!不正に対しては戦う勇気を持つ!>

47日付朝日新聞朝刊13面に、「異論のススメ」と言う欄がある。

 筆者は、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏だ。

 今日はこの筆者に学ぶことにした。

 まず筆者は、「4月になると学校では新学期が始まる。来年以降、小学校で道徳が教科化される。

 数年前に起きた大津での中学生のいじめ自殺問題を発端にしたようで、「礼儀」や「感謝」や「命の尊さ」などを学習するようだ。

 これを聞いて、私はいささか居心地の悪い気分になる。私は「道徳的なもの」を身に着けることが教育の基本だと思っているので、学校教育による道徳的なものへの関心は極めて大事だと思っている。

 しかしまた、教科化によって週に1時間の「学習」だけでどうなるものでもない。むしろ、それで「生命の尊さを教えました」などと形だけ整える、と言うことになりかねない。

 戦前の国家主義と結びついた過剰なまでの道徳主義の反動で、戦後は逆に、道徳を、前近代的で、あたかも封建社会の残影のようみなす傾向があった。それは学校だけではなく、社会全体の風潮である。反道徳的であることが進歩的であるかのような空気が支配していた。

 その影響を最も強く受けたのが学校であり、子供たちである。

 そのうちに子供たちは学校で暴れ出し、いじめが横行するにいたる。

 そこで、道徳教育の必要性が唱えられるようにもなるのだが、いかんせん、道徳教育の最大の問題は、道徳的な態度こそが教育の根幹でるにもかかわらず、それを教育することは至難の業だ、という点にある。

 道徳的な態度とは、目上の者に対する礼節、権威ある者に対する敬意、最低限の規律や秩序への同調、公共的な場所での自己規制などを含む。

 そして、それがなければ学校のような集団生活は成り立たない。

 だから、道徳的な態度は、学校教育が成立する前提となる。にもかかわらず、学校教育の中でそれを「教える」ことは不可能に近い。

 これは道徳教育の持つ根本的なディレンマなのである。ただ、「道徳」を教えることはできないが、「道徳的な感覚」まで伝授不可能だとはわたしは思いたくない。」と切り出した。

 続けて筆者は、「大学に奉職していたころ、内村鑑三の「代表的日本人」で取り上げられている5名の日本人を知っているかと学生にたずねてみた。

 知っているのは、たいてい西郷隆盛だけである。二宮尊徳、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮など、まず知らない。

 もちろん時代は変わる。「代表的日本人」も変わる。イチローや稀勢の里が入ってもかまわない。

 しかし、わずか100年ほど前にとりあげられていた人物の名前も知らないというのはあまりに不自然なことである。

 そして、内村が名前をあげた人たちはすべて、私心をなげうって、社会や国家や貧窮者のために奉仕した人である。つまり公共心と無私の精神を体現した人であったことを考えれば、戦後と言う時代は、この種の公共精神を排除する方向へ進んだことになろう。

 ところが面白いことに、内村の「代表的日本人」を読んだ学生たちは結構、感動したりしている。ついでに新渡戸稲造の「武士道」なども、彼らにはむしろたいへんに新鮮に響くらしいのである。

 来年の道徳の教科化においては、19から22個の道徳的項目を取り入れるという。道徳的項目が20個にもおよぶとは私には思えない。

 道徳の根本はといえば、私には次のようなものだと思われる。

 卑怯なこと(たとえば弱い者いじめ)はしない、

 友人を裏切らない、

 世話になったものへの恩義を大切にする、

 社会に対しは礼節を疎かにしない、

 嘘は(必要な場合を除いて)つかない、

 不正に対しては(力に応じて)戦う勇気を持つ。 おおよそこんなところである。

 単純な話である。これは社会生活の基本である。かっては、これぐらいのことはほぼ常識であった。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「ところが。戦後の反道徳主義の中で、こうした簡単な「道徳的な感覚」さえも失われていった。確かにそれを「教える」ことはむつかしい。まして教科にはならないだろう。

 なぜなら、それは、日常の具体的な場面で、その状況に応じた経験のなかで学びとるほかないからである。

 道徳(モラール)とは日常の習慣(モーレス)なのである」ということは、日常的に、教師が生徒と接して、その接触のなかで、教師が示してゆくほかない。

 ところが、今日、教師は、一人一人の子供と手間をかけて接触する時間がない。忙しすぎるのである。そして、道徳教育の教科化は、さらに教師の過重労働に拍車をかける結果になるのではなかろうか。

 実現の可能性を別にすれば、下手な道徳教育よりも次のやり方の方がはるかに大きな意義をもつと思われる。

 それは、中学生の間の一定期間、生徒たちに次の体験を課す。

 第一に、町や福祉関係でのボランティア体験、

 第二に、自衛隊の見学など、国防や災害救助と言うものを知る体験、

 第三に、多少の海外生活体験、である。

 残念ながら、第二はかなり反対が予想され、第三は実施が難しい。私はこれを提案したいのだが、今のところ、私の空想である。

しかし、それほどのことをしなければ、今日、この規律や歯止めを失った高度な情報社会で、子供たちに「道徳的感覚」を伝授することはむつかしい。

 もちろん、それは戦前への回帰などではない。

 いずれの社会にあっても、社会生活の基本になる道徳は存在するし、それは時代によってそれほど変わるものではない。」として締めくくった。

 読んで勉強になった。

 「来年以降、小中学校で道徳が教科化される」とのこと、

 「戦前の国家主義と結びついた過剰なまでの道徳主義の反動で、戦後は逆に、道徳を前近代的で、あたかも封建社会の残影のようにみなす傾向があった」との指摘、

 「道徳教育の最大の問題は道徳的な態度こそが教育の根幹であるにもかかわらず、それを教育することは至難の業だ、という点にある。」との指摘、

 「道徳的態度は、学校教育が成立する前提となる。にもかかわらず、学校教育の中でそれを「教える」ことは不可能に近い。

 これは道徳教育のもつ根本的なディレンマである。」との指摘、

 「道徳(モラール)とは日常の習慣(モーレス)なのである。ということは、日常的に、教師が生徒と接して、その接触のなかで教師が示していくしかない」との指摘、等々を知ることができた。

 筆者は、「戦後の反道徳主義のなかで、こうした「簡単な「道徳的な感覚」さえも失われていった。確かにそれを「教える」ことはむつかしい。まして教科にならないだろう。なぜなら、それは、日常の具体的な場面で、その状況に応じた経験の中で学びとるしかないからである」と指摘している。

 確かにその通りだと思った。自分の持っている社会的規範は、毎日の出来事の中で学んできた。父母から、兄弟から、学校や近所の子供たちから。だから、教室で教科書で先生が教えることは、きわめて難しいことだろうと思った。


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by sasakitosio | 2017-04-09 17:08 | 朝日新聞を読んで | Trackback