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by sasakitosio

羞恥心 <一人にすれば死に至るかもしれなくても、女性患者の羞恥心を大切にすべきか?実に悩ましい!?>

1月16日付東京新聞朝刊29面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、看護師・宮子あずさ氏だ。
 今日はこの筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「昨年末、ある病院で起きたトイレでの事故が報じられた。
昨年8月、難病の女性が、一人で排泄中、心肺停止し、約1か月後に死亡。
 女性は自力で動けず、意識不明の可能性があった。そのため排泄中は付きそう申しあわせていたが、介助に当たっていた看護助手はこれを知らなかった。
 その後、新たな事実がわかり、病院が過失を認めたことが伝えられた。
 当初は「行った」とされていた5~10分ごとの観察が行われていなかったことが判明。病院は改めて遺族に謝罪した。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「確かに、この状況なら排泄中の付添は必須だ。心肺停止は防げなくとも、蘇生開始は早かっただろう。関わった人の心中を思うと、こちらまで苦しくなる。
 ある場面が頭に浮かんだ。
 病棟勤務時代、私は栄養価の高い点滴をしている人のトイレに同伴。付きそう取り決めだったが、恥ずかしいと懇願され、一人にしてしまった。すると、その人は点滴チューブの接続を外し、自分の便を押し込んだ。
 数時間後、敗血症が起り、高濃度の点滴はしばらく中止となった。太らないための計画的な行動だった。」と教えてくれる。
 最後に筆者は、「確かに、ずっと付き添うべきだった。しかし、出来れば排泄行為は見ないであげたい。今もその気持ちは変わらない。
 羞恥心は人間らしい感情だ。
 安全の為とはわかっていても、脇に置くのが難しい。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 日常生活に付き添いが必要な「女性患者」に対し、どこまで付き添うか。排泄行為は見られたくないという「女性患者の羞恥心」は、命と同等の価値があるかもしれない。だから、「安全の為とは言っても、脇に置くのは難しい」との筆者の悩みは、良く分かった。
 結果、死に至っても、自殺と一緒で、看護人の責任は問えないような気がした。
by sasakitosio | 2017-01-18 13:26 | 東京新聞を読んで | Trackback