憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

「もんじゅ」と「豊洲市場」民主主義と専門主義の相克<議員と議会のチェック能力アップが不可欠だ!!>

 10月21日付朝日新聞朝刊15面に、「月刊 安心新聞」という欄がある。
 筆者は、千葉大教授・神里達博氏だ。
 今日はこの筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「最近巨大プロジェクトの見直しに関するニュースが,紙面をにぎわせている。
 一つは、高速増殖炉「もんじゅ」。
 投じた予算は今年度末での累計で1兆円を超す。その内訳は建設費が6千億円弱、そして運転・維持費が4500億円だ。
 もう一つは豊洲市場の問題である。
 今年春の段階で、施設整備も含めた全体の費用は、6千億円に迫る。
 言うまでもなく、施設の目的や責任の主体、また問題の大きさやタイプなど、あらゆる点で両者の性格は異なる。また今後両プロジェクトがどうなるかは基本的には未確定、それぞれ議論の最中である。
 しかし少なくとも、永い時間と関係者の膨大な労力によって完成あるいはほぼ完成したプロジェクトが、無駄になるかもしれないという点では、よく似ている。
 施設本体の予算規模が似通っているのも共通点だろうか。
 結論がどうなるにせよ、今はこれらの混乱の根本的な原因について、私たちはの社会が考え直すチャンスであるのは間違いない。当然、様々な見方があろうが、ここでは以下の角度から問うてみたい。それは、いずれのプロジェクトも、行政が専門家集団と分かちがたく結びついており、広範な利害関係者の合意を得る前に、ある意味で「見切り発車」されたことが、本質的な問題ではないか、という視点である。 たとえばもし、問題が純粋に政治の問題であるならば、民主的に決めさえすれば、結果については「社会全体で責任を負う」ということで決着するかもしれない。
 しかし、現代の政治問題は、単に皆で議論をして決めれば良い、というものはまれである。多くは、それぞれの「専門家の判断」の強い影響下で決定・推進されているからだ。
 ただし、ここで言う専門家とは、研究や調査を生業とする人々だけを指すのではない。研究者や学者のみならずさまざまな種類の技術者やコンサルタント、さらには行政組織で働く技官なども含めた、プロジェクトを分担する専門家的なスタッフ全体を「専門家」と呼ぶべきである。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「専門家の判断と、民主的な議論の結論は必ずしも一致するものではない。判断の基準やプロセスが異なるからである。当然、簡単に優劣がつけられるものでもない。
 ここで問題となるのは、専門家の判断というものが、社会全体から見て,必ずしも中立的とは限らなう点だ。
 たとえば、ある組織に属する専門家は、その組織の利益が損なわれるような技術的決定を推奨しづらいだろう。それが、社会一般の利益に相反するケースもある。
 例えば安全性の確保などは、少なくとも短期的には、そういう傾向がある。
 これに対しては、個々の専門家の倫理の問題だという声もあるかもしれない。だが個人の資質に期待しすぎる「精神論」は危険だろう。適切な制度と人材があいまって、システムは健全に機能するものだ。
 そうだとすれば、専門的な場面に「専門知識を備えた第3者」が分け入って、技術的なことも含めて精査する仕組みを導入すべきだろう。
 むろん、さまざまな安全規制や基準などは、元々は、そのような観点から整備されてきたとも言える。
 また、全ての技術的な決定において、外部の監査を導入するのは現実的ではない。基本的には専門家に委任しなければ、物事は動かないからだ。」と指摘した。
 最後に筆者は、「だが一方で、従来の民主的な手続だけでは見過ごされてしまうような、いわば「重要なディテール」が議論の俎上にのぼらなかったからこそ、「もんじゅ」も「豊洲市場」も、政治的・社会的な問題になったともいえるのではないか。結局、問題の核心は、民主主義と専門主義の本質的な緊張にこそある。
 従って、そろそろ抜本的な改革を行うべき時期に来ているかもしれない。とりわけ、今回の二つのプロジェクトのような、社会的な影響力が大きい行政の決定には対しては、新しい仕組みが必要ではないか。
 以上のような状況に対して、欧米ではこれまで、「議会の力」を高める方法を模索してきた。
 当然ながら、行政を監視するのが議会の役割である。
 しかし、行政と専門家集団が結び付いて運営されているプロジェクトを、市民の代表者である議員が読み解くことは、専門的な知識が壁になって容易ではない。
 もちろん、独自の調査で技術的な本質に切り込む議員もいるだろうが、制度的な支えを作ることは重要だろう。
 そこで生まれたのが、議会が独自に、高度の専門家から成る組織を擁するというアイデアだ。
 最初は1970年代の米国議会に設置され、後に欧州に広がった。国によって異なるが、たとえば英国には、博士号を持った複数の専門家が議員を支援する、「議会科学技術局」という組織がある。その他にも、議会活動の実効性を高めるためのさまざまな工夫が試みられている。
 私たちの社会はいまだに、政治的判断と専門的判断は明確に切り離せるもの、と考えがちだ。
しかし、これはもう、過去のものの見方かもしれない。
 巨額のコストやリスクを伴う大きなプリジェクトを行政が始めようとするとき、専門性を高めた議会が冷静に評価する。それは、一見すると遠回りに感じられるかもしれないが、長期的には十分に元が取れるはずだ。
 今、大切なのは、失敗から学び、後悔しないために良い制度を作ることである。私たちの社会の理性をもう一度信頼したい。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「行政の行為を監視するのが議会の役割である。しかし、行政と専門家集団が結びついて運営されているプロジェクトを、市民の代表者である議員が読み解くことは、専門的な知識が壁になって容易ではない」との指摘、
 「議会が独自に、高度の専門家家から成る組織を擁するというアイデアだ。最初は1970年代の米国議会に設置され欧州に広がった」とのこと、等等を知ることができた。
 筆者は「巨額のコストやリスクを伴う大きなプロジェクトを行政が始めようとするとき専門性を高めた議会が冷静に評価する」と提案している。
 筆者の提案を是としたうえで、専門家集団の提案を理解し発展させる「能力」を、個々の議員が持てるようにするために、国家公務員の試験と同等以上の試験の合格者に、被選挙権の資格を与えるという「仕組み」が必要ではないか?
 また、巨額なコストやリスクを伴う大きなプロジェクトは、すべて、国民投票にかける「仕組み」を考える時期に、民主主義は到達したのではないか?
 提案するものも、それを審議するものすべてが、同質(能力的に)であるという前提の民主主義が、社会の発展を支えられなくなったのではないか?
 
 
 
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by sasakitosio | 2016-10-29 17:03 | 朝日新聞を読んで | Trackback