持続性ある国づくりを<戦前の強い軍事力と経済力は、「国家の崩落」と「壊滅的社会」を招いた!!>
2016年 10月 28日
まず筆者は、「「強い国家」という言葉を用いるとき、「強い」とは何を意味している言葉なのだろうか。
今の政権にとっては、強い経済力や強い軍事力を持つ国家が、強い国家なのだろう。それは明治時代の国家が追い求めた道であり、この点でもいまもなお日本は明治からの延長線上にある。
だがそれが、本当に強さの基準になるのだろうか。
例えば戦前の日本を見れば、確かに日本は大きな経済力と軍事力を確立した。
だがその帰結は、敗戦による国家の崩壊であり、壊滅的になった敗戦直後の社会であった。
強い経済力と軍事力を追求した結果は、国家と社会の崩壊だったのである。
とすると、それは強い国家ではなかったということになる。
「 強い」とは、経済力や軍事力が指標になるものではない。そうではなく、持続するということなのである。」と切り出した。
つづけて筆者は、「強い企業とは、持続性を持っている企業のことだ。日本には千年を超える持続を実現してきた企業が存在するが、長期にわたって風雪に耐えられる体質をもっている企業は強い企業である。
いっとき売り上げを伸ばし大企業化しても、たちまち経営危機を迎えるようでは、強い企業とはいえない。
持続的な友人関係のあることが強い友人であり、経済的危機などに直面しても維持できる家族が強い家族であるように、持続できることが強さなのである。
とすると、戦前の国家は、強い国家をつくることに失敗したということになる。
わずか数十年で崩壊してしまう国家が、強い国家であるはずがない。
強い社会、強い国家を作ろうとするなら、私たちは持続性のある社会、持続性のある国をつくらなければ
いけないのである。」と指摘した。
さらに筆者は、「このような視点に立つならば、現在の日本は強い経済力や軍事力を作ろうとして、持続性を交代させてしまっていると言った方がいい。
企業は利益を追求して非正規雇用を増やしてきたが、こうして生まれた格差社会が持続的な社会なのだろうか。
環太平洋連携協定(TPP)によって農村社会や医療制度が大きく損傷したら、社会は持続性を後退させてしまうだろう。
原発が社会の持続性に危機をもたらすことは、福島の経緯が明らかににしたはずだ。持続のためには平和が必要であり、軍事力に頼らない世界をつくる構想力こそが、平和の持続に取っては必要なはずだ。
環境が破壊されたら、持続的な社会はつくれない。
子育てが大変な社会が、持続的であるはずがない。
結びつきのない社会が持続的だろうか。
強い社会や国をつくっていきたいのなら、持続を基準にして、これからのあり方考えていくことが必要である。」と指摘した。
最後に筆者は、「今の日本は、むしろ、弱い社会や国家をつくる方向で動いているのではないだろうか。
アベノミクスもそうなのだが、いっときの強い経済をつくろうとして、持続性のない経済をつくり出してしまっている。
強い軍事力に依存しようとして、持続的平和を考える構想力を喪失させている。
にもかかわらず、このような政治がまかり通るのは、明治以降の路線があたかも強い国家への道であったかのごとくとらえられているからであろう。
戦前の日本は、持続性のない弱い国家をつくったのだということを、私たちは認識しておかなければならない。」として締めくくった。
読んで勉強になった。
筆者は、「強い企業とは持続性を持っている企業のことだ」と指摘、
、「持続的な友人関係のあることが強い友人であり、経済的な危機などに直面しても維持できる家族が強い家族であるように、持続できることが強さなのである」と指摘、
「持続のためには平和が必要であり、軍事力に頼らない世界をつくる構想力こそが、平和の持続にとっては必要なはずだ」と指摘、
「環境が破壊されたら、持続的な社会は作れない。子育てが大変な社会が、持続的であるはずがない。
結びつきのない社会が、持続的なのであろうか。」と指摘、等等を知ることができた。
そして、「強い社会や国をつくっていきたいのなら、持続を基準にして、これからの在り方を考えていくことが必要なのである」との筆者の指摘は、ストンと腑に落ちた。
ただ、個人的には、万事「自分を勘定に入れずに」行動することを旨とする日々で、あっという間に古希を過ぎた。古希から始まった「新聞を読んでの自習」も、早くも3年半が過ぎた。持続する「人生」にするために、適度な運動、適度な学習、そこそこの仕事、周りの全てに感謝と感動、の日々を送っている。
そして、今が人生で一番充実してした日々だ、と思っている。