憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

戦没新聞人の碑文からの叫び<同じ日本人、叡智を絞り、米軍基地の矛盾を克服しないでどうする!>

 10月20日付朝日新聞社説下に、「ザ・コラム」という欄がある。筆者は、編集委員・駒野剛氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「猫がけだるそうに寝そべっている。
 取り囲むようにベンチに座る老人たちはよもやま話に忙しい。
 夕刻、那覇市若狭の旭ヶ丘公園辺りは穏やかな時間が流れていた。
 一方、園内には対照的に戦いを象徴する慰霊碑が立っている。国内最後の地上戦闘が繰り広げられた沖縄は、日本人の死者18万8千人余、その65%が県出身者ゲ占める。碑の中に新聞活字が刻まれた三角岩を見つけた。「戦没新聞人の碑」とある。
 添えられた文章を読む、
 「1945年春から、初夏にかけて沖縄は戦火に包まれた。
 砲煙弾雨の下で新聞人たちは2カ月にわたり新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている」―――。
 名前が刻まれている。当時の地元紙沖縄新報、そして本土の毎日新聞、朝日新聞の宗貞利登ら、亡くなった新聞記者たちだ。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「沖縄新報は那覇市北東の首里城の軍司令部近くの地下壕に平板印刷機を運び、タブロイド判の新聞を5月末日まで発行した。
 朝日の宗貞ら那覇特派員2人も軍から得た情報を記事にして本土へ送信した。軍の通信所経由の送稿で、字数は制限された。
 壕内は湿度が高く、原稿を書くのは、鉛筆の芯をろうそくの炎で乾かしてから。
 送った原稿が掲載されたかもわからない。
 1945年5月12日付の朝日新聞西部本社版には、宗貞らの顔写真とともに最前線での第一報が一面トップに掲載されていた。
 「水もなく乾麵麭齧り」「鬼神も哭くなく奮戦」。いまなお、見出しが痛々しい。
 そして5月25日発、「穴籠り戦術で敵誘引」という記事が宗貞の絶筆となる。
司令部が首里を捨てて撤退するため、島田叡県知事らと島南端、摩文仁の移動先に向かったが、途中、戦火の中、倒れたのだ。
 朝日新聞社の社報などには6月25日に殉職と記録されているが、実際の最後は不明だ。「遺骨」が翌年11月本土に帰ったものの、中身は同僚の特派員が、終焉の地みられる場所で拾った白い石3個だった。
 同僚の名は上間正諭という。沖縄に生まれ、39年に朝日に採用。宗貞と沖縄戦を取材していたが、爆風を受けて負傷する。
 宗貞に「本社との連絡も駄目だ。君は傷をよく用心して、無理に同一行動を取る必要はない」と指示しされて別に逃げていた。
 だが、6月14日に2人は偶然出会う。宗貞は「敗戦は決定的だ。しかし、頑張るんだぞ」と上間を励まし、別れ際、「そうそう気に似は未だお金を渡していなかった」と百円札渡したのが「とわの別れ」となった。
上間は生きのびたが、父母と娘2人ら肉親6人を失った。加えて、戦意高揚の記事を書いてきた自責の念は強く、「二度とペンは握るまい」といったんは誓った。
そんな上間が師と仰ぐ地元紙先輩に「残った人生で、記者として罪を償え」と諭された後、十数人の仲間と創刊したのが「沖縄タイムス」だ。「琉球新報」とともに沖縄を代表する新聞である。」と教えてくれる。
 最後に筆者は、「沖縄の新聞が、平和を希求し戦争で郷土を壊滅させた権力に屈しない態度を貫こうとするのは、こうした原点があるからだ。
 昨年6月、自民党の勉強会で「沖縄の新聞はつぶせ」「特殊なメディア構造を作ったのは戦後保守の堕落」と声が上がった。
 沖縄戦当時、鉄血勤皇隊員として凄惨な戦地を駆け回った太田昌秀元沖縄県知事(91)は「本土の人は地上戦の過酷な実相を知らなすぎます。沖縄の新聞は、その戦争を煽った反省の上に立っている。戦後いくつもの新聞社ができたが、2社は県民の信頼があったから残ったのです」と話す。
 沖縄復帰の翌日、72年5月16日の朝日新聞は、「喜びと怒りと無関心と」の見出しでこう書いた。
 「この日、本土の日本人が、まず最初に言わなければならないはずの、沖縄県民に対する「謝罪」の言葉を、ほとんど聞くことができなかった。」
 地上戦を引き受け、戦後も長く憲法の恩恵を受けられず、広大な基地を抱え続ける理不尽を訴え続ける沖縄の新聞。不条理の謝罪をせず、声も聞かなかった本土の私たち。
 同僚を気遣いながら世を去った宗貞なら何というか。
 「同じ日本人。知恵と力を出し合い、米軍基地の矛盾を克服しないでどうする」。戦没新聞人からの声が聞こえた。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「 那覇市若狭の旭ヶ丘公園に「戦いを象徴する慰霊碑」が立っている」、とのこと、
 「碑の中に新聞活字が刻まれた三角岩があり、「戦没新聞人の碑」とある。」とのこと、
 そこに「名前が刻まれている。当時の地元紙沖縄新報、そして本土の毎日新聞、朝日新聞の宗貞利登ら、亡くなった新聞記者たちだ」とのこと、
 「沖縄戦時、鉄血勤皇隊員として凄惨な戦地を駆け回った太田昌秀元沖縄(91)は「本土の人は地上戦の過酷な実相を知らなすぎます。沖縄の新聞は、その戦争を煽った反省の上に立っている。戦後いくつもの新聞社ができたが、2社は県民の信頼があったから残ったのです」と話す」とのこと、等等を初めて知った。
 「地上戦を引き受け、戦後も長く憲法の恩恵を受けられず、広大な基地を抱え続ける理不尽な理不尽を訴え続ける沖縄の新聞。不条理の謝罪をせず、声も聞かない本土の私たち」との筆者の懺悔は、よく理解出来た。これを、日本国民全体の沖縄理解にならないものか、と思った。
 

 
 
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by sasakitosio | 2016-10-24 06:27 | 朝日新聞を読んで | Trackback