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by sasakitosio

「停泊地」失った現代世界 スポーツと民主主義<政治における、規律や精神の鍛錬の場は、何処へ?>

 8月4日付朝日新聞朝刊15面に、「「異論のススメ」という欄がある。筆者は、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「昔、ある人から「君、スポーツの語源を知っているかい。これは相当にひどい意味だよ」といわれたことがある。
 じっさい、スポーツとは「ディス・ボルト」からでた言葉である。
 「ボルト」とは「停泊する港」あるいは、「船を横づけにする左舷」という意味だ。
 「ディス」はその否定であるから、「ディス・ポルト」とは、停泊できない状態、つまり、秩序を保てない状態であり、羽目をはずした状態、ということになる。
 「ポルト」にはまた「態度」という意味もあるから、「まともな態度を保てない状態」と言ってもよい。
 どうみても、あまりほめられた意味ではなさそうである。
 事実、英語の「スポート」にも、「気晴らし」や「悪ふざけ」といった意味があり、これなどまさしく語源をとどめている。
 その「スポーツ」の祭典が6日からリオで始まる。
 ロシア選手の組織的なドーピング問題や、大会会期中、不測の事態に要注意などと言われる今回のをみていると、ついその語源を思い起こしてしまう。
 ロシアのドーピングなど、はめが外れたのか、タガが外れたのか、確かに停泊すべき港から外れてしまった。
 ところで、スペインの哲学者あるオルテガが「国家のスポーツ的起源」という評論の中で、国家の起源を獲物や褒美を獲得する若者集団の争いに求めている。
 その様式化されたものが争い合う競技としてのスポーツであるとすれば、確かに、ここにもスポーツの起源と語源の重なりを想像することは容易であろう」と切り出した。
 つづけて筆者は、「いうまでもなくオリンピックは古代ギリシャ起源であり、ギリシャ人はスポーツを重んじた。
 争いを様式化し、競技を美的なものにまで高めようとした。
 そしてギリシャでは「競技」が賛美される一方で、ポリスでは「民主政治」が興隆した。
 民主主義とは、言論を通じる「競技」だったのである。
 肉体を使う競技と言語を使う競技がポリスの舞台を飾ることになる。
 古代ギリシャ人を特徴づける特質の一つはこの「競技的精神」なのである。
 スポーツと政治は切り離すべきだ、などとわれわれはいうが、もともとの精神に置いては両者は重なりあっていたのであろう。
 ということは、その起源(語源)に立ち返れば、両者とも一歩間違えば「はめをはずした不作法な行動」へと崩れかねない。
 競技で得られる報酬が大きければ大きいほど、ルールなど無視してはめをはずす誘惑は強まるだろう。
 それを制御するのは、自己抑制であり、克己心しかなかろう。
 そのために、ギリシャでは、体育は、徳育、知育と並んで教育に組み込まれ、若者を鍛える重要な教科とみなされた。その三者を組み合すとことで、体育はただ肉体の鍛錬のみならず、精神の鍛練でもあり、また、自律心や克己心の獲得の手段ともみなされたのであろう。
 その上で、運動する肉体を人間存在の「美」として彫像に刻印しようとした。
 問題は、言論競技としての民主主義の方で、むしろこちらの方が、成功したかどうかあやしい。
 民主主義の精神を鍛えるなどということは不可能に近いからである。
 ただ我々が垣間見ることができるのは、ポリスのソフィストたちの「言論競技」のなかから、ソクラテスのような人物が表われ、「哲学」を生み出したのである。
 しかしそのためにソクラテスは「言論競技」を切り捨て、それを「言論問答」に置き換えねばならなかった。
 彼は、政治よりも真の知識(哲学)を優位に置き、それを教育の根本にしようとした。
 そうでもしなければ、スポーツも政治もただただ「はめをはずす」ことになりかねなかったからであろう。」と指摘した。
 最後に筆者は、「さて、これはギリシャの昔に終わったことなのだろうか。
 今日、われわれの眼前で展開されている事態を見れば、決してそうは言えまい。
 民主政治は、どこにおいても「言論競技」の様相を呈している。
 アメリカのトランプ大統領は候補をドーピングぎりぎりと言えば冗談が過ぎようが、この現象が「ディス・ポルト」へと急接近していることは疑いあるまい。民主主義のたががはずれかけているのだ。
 スポーツに高い公正性や精神性(スポーツマンシップ)を要求するアメリカで、民主主義という政治的競技おいて高い精神性や公正性が失われつつあるのは、いったいどういうことであろうか。
 今日、オリンピック級のスポーツには、ほとんど職業的とでもいいたくなるほどの高度の専門性を求められる。
 そのためには、スポーツ選手は職業人顔負けのトレーニングを積まなければならない。
 これは肉体的鍛錬であるだけではなく、高度な精神的鍛練でもある。
 そこまでして、スポーツ選手は「ディス・ポルト」を防ぐ。
 しかし、政治の方には、そのような鍛錬はほとんど課されない。
 その結果、高度なスポーツは「素人」から遊離して一部の者の高度な技能職的な者へと変化し、
 一方政治は「素人」と急接近して即席の協議と化している。どちらも行き過ぎであろう。
 スポーツと民主主義を現代までに送り届けたギリシャの遺産が、ロシアのドーピングやアメリカの大統領選に行きついたとすれば、現代世界は規律や精神の鍛錬の場である確かな「停泊地」を失ってしまったといわねばならない。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「スペインの哲学者であるオルテガが「国家のスポーツ的起源」という評論の中で、国家の起源を獲物や褒美を獲得する若者集団の争いに求めている」とのこと、
 「ギリシャでは「競技」がされる一方で、ポリスでは「民主政治」が興隆した。民主主義とは、言論を通じる「競技」だったのである」とのこと、
 「ギリシャでは、体育は、徳育、知育と並んで教育に組み込まれ、若者を鍛える重要な教科とみなされた」とのこと、等等を知ることができた。
 また、筆者の「高度なスポーツは「素人」から遊離して一部の者の高度な技能職的なものへと変化し、一方、政治は「素人」へと急接近して即席の競技と化している」、「スポーツと民主主義を現代にまで送り届けたギリシャの遺産が、ロシアのドーピングやアメリカの大統領選挙に行きついたとすれば、現代世界は規律や精神の鍛錬の場である確かな「停泊地」を失ってしまったといわねばならない」、等々の指摘は、なるほどと、うなづいた。
 その上で、現代の政治が「素人」へと急接近して即席の競技であってよいわけがない。それは、代議員制を選挙制度の改善で「素人芸」から「高度な技能職」に転換できなかった現実をみれば、間接民主主義の限界ではないか、と思った。
 
 
 
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by sasakitosio | 2016-08-11 16:33 | 朝日新聞を読んで | Trackback