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by sasakitosio

西洋と異なる思想 今こそ <一瞬の感動こそ本当?一瞬の刹那をめで?般若心経の世界か!?>

 6月3日付朝日新聞朝刊15面に、「異論のススメ」という欄がある。筆者は、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏だ。
 今日はこの筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「この6月7日は西田幾多郎の命日である。彼は戦争が終結する年、1945年に亡くなった。京都大学にやって来る学生でさえ、「名前は聞いたことあるなあ」といった程度の人が結構いる。平成の時間は確実に過去を置き去りにしているように見える。
 というわけで、今回は少し西田幾多郎について書きたい。
 西田は、いうまでもなく、戦前の日本を代表する哲学者であるだけではなく、しばしば、唯一の「日本の哲学者」といわれる。この「日本の」という形容詞は結構大事で、そこに彼の哲学の本質が見える。
 明治以来の日本の学問は、おおよそ西洋思想や西洋科学の輸入、紹介に終始していた。
 それは、日本の近代化が、西洋化こそすなわち文明化であると信じていたからである。
 日本の学問は、そもかくも西洋に学び、西洋の水準に迫ることを課題とした。そのなかにあって、西田は、西洋哲学を古代ギリシャから現代まで、彼なりの独特のやり方で咀嚼し、その上でそれと対抗できるだけの「日本の」哲学を生み出そうとした。それは、日本の思想や感覚を前提とした哲学である。
 西田が「日本で唯一の哲学者」といわれるゆえんである。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「西田が1870年生まれで、文字通り近代日本をそのまま歩んだ人である。
 夏目漱石は3歳上だが、漱石は1916年に亡くなっている。
 だから、西田は、漱石が知らなかった、近代日本の帰結、つまりあの大戦争という悲劇への道行きをおおよそ目撃したことになる。
 そして英米との戦争へと転げ落ちてゆく近代日本の歴史は、西田哲学と無関係ではなかった。
 もともと西田は、西洋との対決や対抗を意図して哲学を始めたわけではない。ただ、西洋哲学は限界に突き当たっている、と感じていたであろう。その限界を突破するために書いたのが1911年の「善の研究」である。
 それは西田が、40歳にしてようやく京都帝国大学に職をえて安定した生活に入った翌年のことであった。同じ年に、漱石は、和歌山で、有名な講演「現代日本の開化」を行っている。
 この講演のなかで、漱石は、近代日本は、即席の文明化を達成するために西洋を模倣し、無理やり西洋に追いつこうとしている。これは、内発的な真の開化ではない。その結果、日本人は常に西洋の文物を追いかけて自分を見失い、上滑りの近代化の果てに神経衰弱に陥る、という。
 この同じ年に、西田は、「純粋経験」という独自の考えを打ち出すことで、西洋哲学の底をつく抜けようとする。かくて、西田独自のというより、日本独自の哲学へと向かってゆく。
 「日本独自の」というのは、ここには、人は「私」を「無」にし、「私」を空しくすることではじめて本当のもの(西田の真実在)へ接近できる、という考えがあるからだ。
 しかも、その「真」なるものは、言葉で把握できるものではないく、言葉以前のところにある。
 美しい花を見た見た刹那、われわれは、われを忘れている。言葉にならない。美しいと言う感動だけにとらわれている。その一瞬の感動こそが本当のものだ、というような考えは、確かにわれわれなじみ深いものであろう。
 この一瞬の刹那をめで、言葉にならない感動に人生の思いを託する。
 ただそのためには、「自我」や「私」にとらわれていてはだめで、「無私」でなければならないだろう。これは、ともかくも「私」や[我]という確固たる「主体」を前提にし、その「主体」が世界や自然を客観的に記述し、さらにそれを操作し変化させようという西洋の思想とは対極にる。 
 すべてこの世の出来事は夢まぼろし、私も含め、あらゆるものは「無」から出て「無」へ帰する。という思想は我々にはなじみ深い。
 西田は、「善の研究」の後、初期の考えを発展させ、「無」という観念を中心に据える独特の哲学を構築した。そして、西洋の論理を「有の論理」、対して日本の論理を「無」の論理と呼んだりもした。
 ここには、若い時から参禅するほどの仏教への傾倒もあったであろう。
 しかし、忘れられないのは、8人の子供うち5人までもなくし、病気の妻を5年も看護したあげくに失うという果てしない人生の苦難であった。哲学は人生の深い悲哀に始まる、と彼はいう。そのことと、自我を無化し滅却する、という西田哲学の基本的な性格は無関係ではなかろう。」と指摘した。
 最後に筆者は、「今日、西洋の思想や科学がつくり出したこのグローバルな世界は、ほとんど絶望的なまでに限界へ向けて突き進んでいる。
 新たな技術を次々と開発し、経済成長に結びつけることで人間の幸福を増大できる、という西洋発の近代主義は極限まで来ている。
 しかし、日本は今日、丸ごとこの近代主義に飲み込まれ、漱石ではないが、その先端でグローバル化の掛け声よりも、われわれが今日必要としているのは、われわれ自身の哲学であり、それはまた西洋思想の深みにも突き刺さるであろう。
 西田は、一度も留学経験もなく、ほとんど日常生活の空間をはみ出すことなく思索を続け、それが、成功したかどうかは別として、「日本の哲学」を構想した。
 戦後70年以上過ぎ、今日、改めて西田のような志が求められているのではないだろうか。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。西田幾多郎の名前も、著作の「善の研究」も存在は知っていた。いままで、興味も価値も見いだせなかった。
 西田が「西洋の論理を「有の論理」、対して日本の論理を「無の論理」と呼んだりもしたとのこと。
 また、「「私」や「我」という確固たる「主体」前提にし、その「主体」を前提にし、その「主体」が世界や自然を客観的に記述し、さらにそれを操作し変化させようという西洋哲学と、西田哲学が対極ある」との指摘。
 「新たな技術を次々と開発し、経済成長に結びつけることで人間の幸福を増大できる、という西洋発の近代主義は極限まできている」、との指摘。等等の指摘は、刺激を受けた。
 原発も原爆も、西洋文明の絶望的な限界の現れなのだろうか、と考えた。
 技術開発と経済成長が無限につづくと思うことは、西洋文明の限界をしらないためなのだろうか、とも考えた。
 そして、筆者の「国際化やグローバル化の掛け声よりも、我々が今日必要としているのは、我々自身の哲学である」との筆者の指摘は、その通りであると思った。世界史的にも稀有な「戦争しない70年余」を経験した日本国・日本人、ここから西洋思想の限界を突破する思想がでても不思議はない、とも期待している。
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by sasakitosio | 2016-06-04 06:12 | 朝日新聞を読んで | Trackback