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by sasakitosio

巨大地震におそわれてー覚悟のいる「あきらめ」 <人はみな寿命で死ぬらしいが?>

 5月5日付朝日新聞朝刊9面に、「異論のすすめ」という欄がある。筆者は、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏だ。今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「日本が地震大国であることは誰もが肝に銘じているはずなのだが、ここへきて、改めてそのことを知らされた。
 阪神・淡路大地震から20年、東日本大地震からわずか5年。
 今度は熊本・大分を中心とする九州中部の大地震である。その間にもいくつかの地震がこの列島を襲い、さして遠くない未来には、東南海や首都圏を襲うであろう地震に途方もない被害が想定されている。
 この列島中を活断層が走っている。いずれ大地が鳴動することは間違いないものの、いつどこで生じるか分からない。
 ただひとたび生じれば、一瞬にして命を奪われ、その生は断ち切られる。この瞬間を境目にして生の様相は一変し、生者と死者は不可避的に引き裂かれる。
 こういう不条理な不確実性のもとに誰もが置かれ、その不安や不気味さから逃れることは出来ない。
 しかも、この「生への脅威」は、富裕層であるとか貧困層であるとか、老人であるとか若者であるとか、都会人であるとか田舎人であるとかとは関係なく、誰に対しても平等に襲いかかる。
 いかに近代社会が、等しく人々の生命財産を保障するという原理を打ち立てても、この不条理は、近代社会の根幹を一気に破壊してしまう。それがいまわれわれがおかれた状況である。
 実際活断層地図などというものを見せられると、生命尊重こそを繰り返して唱えてきた戦後日本が、実は何ともいいようのない生命の危機を内包していることがよくわかる。そしてこの事態を前にしてわれわれは立ちすくむほかない。
 もちろん、防災対策も被害の最小化への努力も早急になされなければならないし、地震予測の精度向上も期待される。緊急時の危機管理も整備されなければならない。
 しかしどれだけ防災対策や危機管理を行おうと、この巨大な自然の鳴動を押さえることは出来ない。つまり、我々はどこかで「あきらめる」ほかない。
 このような言い方は読者にいくぶん不快感を与えるだろうし、被災者の苦しみを何と心得ているか、とお叱りを受けるかもしれない。
 敗北主義と揶揄されるかもしれない。しかしなんといおうとそれが現実である。
 そしてわれわれは現に「あきらめて」いるのである。誰もが、防災を口にし、可能な政策的対応の必要を訴える。
 しかし、われわれは本気でそう思っているのだろうか。」と切り出した。
 続けて筆者は、「東日本大震災は、われわれに価値の転換を迫ったはずだ。そもそも近代社会とは、自然のうちに潜むエネルギーを引きだし、それを人為的に操作し、変換されたエネルギーによって荒れ地を都会に作り変え、山を掘り崩して道路網を造り、農業を破壊して巨大工場や高層ビルを建て、自然とともにあった神々を追放していった。
 金銭的利益を生み出す競争と物的な富の蓄積、つまりイノベーションと経済成長こそがすべての問題を解決するとみなした。
 いつどこで一瞬のうちに生が遮断されるかもしれないという不安にはふたをしたのである。
 つまり、事実上「あきらめた」のだ。
 極めて不安定な岩盤(プレート)の上に日本列島が危なっかしく乗っかっていることを知りつつも、ただただこの岩盤の変動が最小限にとどまることを祈るだけ、ということにしたのである。
 さもなければ、東日本大震災から1.2年もたてば当事者を除いて震災の記憶は薄れ、3年もたてばまたもや、あの手この手を尽くした成長戦略を打ち上げ、株価の動向に一喜一憂するという、われわれの不細工な自画像を描く必要はなかったであろう。
 そして5年もたてば、また、東京オリンピックで建設ラッシュになり、インバウンド観光客の急増で大都市は大変な賑わいになったとはしゃいでいる。
 アノ巨大地震の恐怖は、あっというまに、経済成長への期待と不安にとてかられたのであった。
 つまり巨大地震にいては「あきらめた」ことになる。」と指摘した。
 最後に筆者は、「しかし、この「あきらめ」は、真のあきらめではない。ただの思考停止であり、不都合なものは存在しないことにした、という消極的なものである。
 確かに、ここまで私的な所有権がはりめぐらされ、産業構造ができあがってしまった国で、根本的な防災対策はきわめて難しい。現状を動かしようがないのである。とすれば、「きたらきたで仕方がなかろう」というのもわからないでもない。
 だが本当の「あきらめ」は思考停止でもなければ敗北主義もない。本当に「あきらめる」には覚悟が必要であり、それは容易なことではない。
 その覚悟とは、人智を超えた巨大な自然の前にあっては、人間の生命など実にもろくもはかない、という自覚を持つことである。
 それは、生への過度の執着を断ち切り、幸福を物的な富の増大に委ねることのむなしさを知り、そして人の生も自然の手に委ねられた偶然の賜物であり、われわれの生命はたえず危機にさらされると知ることでもあろう。
 かって哲学者の和辻哲郎は、日本人の精神的傾向として「戦闘的な恬淡」といい、また「きれいなあきらめ」ともいい、それをきわめて荒々しい日本の風土と結び付けた。
 確かに日本人の「あきらめ」は、こうした人智を超えた「自然」への畏怖と不可分であった。
 それはまた、今日のわれわれを支配する「近代的」生活や価値観を見直すことでもある。これは相当な「覚悟」のいる「あきらめ」なのである。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「あきらめ」に真の「あきらめ」とそうでない「あきらめ」があり、そして真の「あきらめ」には、覚悟が必要で、その「覚悟」とは人智を超えた巨大な自然の前にあっては、人間の生命など実にもろくもはかない、という自覚を持つことである、と教えてもらった。
 ただその上で、人間は「あきらめ」やすくもあり、「忘れ」やすくもある動物でないかと思っている。
 あきらめ、忘れることが、100年足らずの人生を、比較的安穏に暮らすことができるのではなかろうか。
 日々動いている不安定な岩盤の上の大地に、活断層だらけの大地の上に、その原因を知らず、それを止める手立てを持たず、でもパニックに陥らず、「きたらきたで仕方がない、その時はその時」との思いは、諦めというより「悟り」といった方が、いいような気がしている。
 また、そのような思考の仕方は、今日まで続いてきた「日本人の歴史」・「日本列島の歴史」の過程で遺伝子の中に組み込まれてきたのではないだろうか。確たる根拠は全くないが、そう思いたい。その方が気楽に生きていけるから。
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by sasakitosio | 2016-05-07 06:58 | 朝日新聞を読んで | Trackback