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by sasakitosio

文革50年 消えない歴史  <毛沢東の死まで10年も続いた、今はどうなの?>

 4月23日付朝日新聞朝刊15面に、「風」という欄がある。筆者は、中国総局長・古谷浩一氏だ。
今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「唐突だが、私は1966年に生まれた。日本の人口が1億人突破を目前としていた経済成長の真っただ中。ビートルズが来日し、ウルトラマンのテレビ放送が始まった年である。
 では、そのころ、中国で何が起きていたのか。
 自分が生まれた日の中国の新聞を探してみたことがある。
 1面には、笑顔で手を振る毛沢東主席の大きな写真。祝賀を示す赤字の見出しで、100万人に上る紅衛兵らが毛に会うため天安門広場に集まった、と大々的に伝える記事が載っていた。
 中国で66年とは、すさまじい狂気と混乱を生んだ文化大革命が始まった年として歴史に刻まれている。
 最近、ある食卓の席で、そんな話をしたところ、「実は、私も紅衛兵として、あの場にいたんですよ」。北京の大学教授、朱さんから穏やかな口調でそう打ち明けられた。今年で70歳、丸眼鏡の奥の目がやさしい。中国の知識人らしい上品な雰囲気の女性である。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「文革は今は政治的に敏感なテーマだ。朱さんはフルネームを出さないとの条件で話をしてくれた。
 広場の最前列に並んだのは、2大名門校北京大と精華大の学生たち。北京大3年生だった朱さんもその一人で、「不参加はありえない」状況だったそうだ。
 江蘇省出身。小さいころから勉強が抜群にできたという。地元の高校の卒業試験で数学が満点、物理は98点。最難関だった北京大の物理学科に進学した。
 「立ち遅れた祖国の科学の発展のために、自分の能力を発揮したいという希望に燃えていました」
 でも、その夢は文革によって吹き飛んだ。
 混乱のなか、多くの学生は学業を断念させられ、専門知識とは関係なく、辺境へと送られた。朱さんは遼寧省の農村で農作業をしながら、中学校の教壇に立つことになった。
 「こんな待遇はおかしいと思いながら、それでも与えられた環境のなかで、国家に貢献しようとしました。
 でも、将来は漠然として見えなかった。」
 文革は76年に毛沢東が死去するまで10年間続いた。大学入試も中断された。
 中国の高等教育の「空白」の時代である。朱さんが北京に戻ることができたのは80年代になってからだった。」と教えてくれる。
 最後に筆者は、「朱さんのように文革が始まったっ時に在学生だった、61年から65年までの5年間の入学組は「牢5届」と呼ばれる。
 厳しい試験を経て北京大に入った超エリートなのに、文革によって社会で活躍する機会を失った世代を指す名称でもある。
 こうした「老5届」の北京大卒業生たちは3年前、当時を回想する文集「さらば未名湖」を出版した。未名湖は北京大の中に在る小さな湖。愛国心に燃えながら、「国家に捨てられた」と書く卒業生たちの言葉は重い。じわりと反響を呼び、昨年末には第3集をも出た。
 文革から今年で50年。中国共産党はそれを「深刻な災難をもたらした内乱」と総括する。人生を翻弄された人々のやりきれない思いは今も消えない。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「中国では66年とは、すさまじい狂気と混乱を生んだ文化大革命が始まった年として歴史に刻まれている」とのこと、
 「文革は76年に毛沢東が死去するまで10年間続いた」とのこと、
 「文革から今年で50年。中国共産党はそれを「深刻な災難をもたらした内乱」と総括する」とのこと、
 「61年から65年までの5年間の入学組は「老5届」と呼ばれる」とのこと、等等中国の事情を筆者を通して、知ることができた。
 中国の文革が、なぜ起きて、なぜ毛沢東の死まで止まらなかったのか、その結果は是か非か、等の疑問が尽きない。なによりも、これからも中国社会で起りうる「深刻な災難」なのだろうか。
 過日、曲阜の孔子のふるさとを一人歩きした時、厚さ10センチ余、高さ3メートル余、幅1メートル余の、孔子の石碑が折られ、後修復された跡を見て「文革のエネルギー」のすさまじさを感じた。食堂で若者に「非林非孔」について尋ねたが誰も知らなかった、ことを思い出した。
 
 
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by sasakitosio | 2016-04-29 06:56 | 朝日新聞を読んで | Trackback