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by sasakitosio

過剰なバッシング この国のもろさの兆候 <世間と社会は違うの?>

 4月15日付朝日新聞朝刊15面に、「月刊安心新聞」という欄がある。 
筆者は、千葉大学教授・神里達博氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「新年度が始まった。2014年の秋に始まった本コラムも、気づけば1年半。毎回、おおむね1カ月の間に起きた出来事を題材に、私たちの「安心」を脅かすものが何なのか、少しずつ考えてきた。
 さて、このような連載を続けながらいつも感じることがある。それは、ジャーナリズムとアカデミズムの「時間スケール」の違いである。
 ジャーナリズムは、やはり速報性が大切だ。近年はとりわけ、ニュースの寿命が短い。ほとんどのトピックスの賞味起源は半日から、せいぜい数日ではないか。次から次へと押し寄せる事件の波を巧み捌く、いわば[反射神経]が求められる。
 一方でアカデミズムは多くの場合、もっと長期にわたる現象を、時間をかけて検討する。分野にもよるが、人文社会科学が扱う対象は、短いものでも1年から10年程度、普通は数十年単位かそれ以上のスケールだ。
 比較的深い分析が期待できるが、結果が出るのにも時間がかかるので、現実の社会問題を発見したり、解決する上では、じれったいと感じることも多いだろう。
 このように、ジャーナリズムとアカデミズムの間には、時間について数百倍のオーダーの開きがあるようだ。
 ここで気になるのは、この隙間、10日から数カ月の単位で、私たちの社会を見つめるのは誰か、という点だ。
 かってはジャーナリズム志向の強い月刊誌などが、ちょうどこの空隙を埋めていたと思われるが。ここ10年で多くの雑誌が廃刊となり、旧来型の「論壇」はやせ細ってきている。むろん、新聞やテレビなども、丁寧な解説や調査報道の充実に取り組む動きがあるし、ネット空間に新たな論壇を構築する試みもみられる。とはいえ、現状ではまだ、この「十から数百日」の範囲は、手薄になりがちであろう。」と指摘した。
 つづけて筆者は、「そんなことは考えながら、ここ100日ほどの間に感じられてできごとを「安心新聞」の視点で見直してみると、一つ気になることが浮かび上がる。
 それは、「特定個人への強いバッシング」がターゲットを変えつつも、ずっと続いていることである。
 一つ一つは、芸能界のゴシップであり、スポーツ選手の不祥事であり、有名人のスキャンダルに過ぎないのかもしれない。
 また、議論の余地がない反社会的行為などに対して、強い批判がなされるのは当然だろう。
 おのおのを取り出してここで吟味する余裕はないが、個々の事情はさまざまだ。
 それでも指摘したいのは、バッシングの「限度」が見えないことだ。あるバッシングが始まると、次の対象が現われるまで攻撃が止まない。そしていったんそうなると、批判の宛先が生身の人間であることや、不適切な社会的制裁は人権侵害にあたることなど、まるで意識されなくなるように見えるのだ。
 むろんこのような現象が起こる背景には、ネットを含めた広義のメディアのあり方が関係しているのは間違いないだろう。しかし単なるメディア批判で問題の本質にたどり着くとも思いない。
 なぜなら、メディアは常に「社会の鏡」であるからだ。私たちが実態として、社会的事件な事件をどのような枠組みで捉えているのか、ということが問われなければ、結局このようなバッシングのメカニズムも理解できないだろう。
 たとえば近代的な刑事訴訟では、推定無罪の原則がある。逮捕されただけでは、罪人ではない。また仮に裁判で有罪が決まっても、当然、人権は守られなければならない。被害者の立場からすれば一見理不尽なさまざまな既定も、ヨーロッパ人たちが近代社会を組み立てる際に遭遇した、苦い経験を踏まえて作られたルールの一部である。だがどうも私たちの社会は、これらを今も「本音では」重視していないように見える。
 特に最近、その傾向が強まっていると感じることが多い。そうだとすれば、これをどう理解すべきか。」と指摘した。
 最後に筆者は、「西洋中世史を専門とする阿部謹也はかって、日本の本質は「世間」であって、「社会」ではないと看破した。
 世間は歴史的秩序であり、この国を実質的に支配している原理だと彼は説く。そこには個人の観念はなく、おのおのお「地位」だけが存在する。また法や契約よりも贈与と返礼による「互酬」の原理が優越する。
 そして世間自体は、人為的に変えられない。外的条件と理解されている。
 一方で、「社会」は明治の近代化によって輸入された外来概念であり、いわば「建前」の日本を支配するが、本当で意味で信じられているわけではない、というのだ。
 明治以来、150年にわたって近代国家を建設、運営してきた私ったちであるが、もしかすると基礎が不安定のまま、高いビルを建設してしまったのかもしれない。そのような国は、少し強い風が吹くと、容易に揺らぐだろう。
 最近の過剰ともいえるバッシングは、もしかするとその兆候の一つではないだろうか。
 また、そうすることで私たちの社会は、本当に考えなければならない、より大きな問題から逃げてはいないか。
 阿部氏がなくなって今年で10年になる。
 彼の問題提起を受けてのさらなる検討が一部では進んでいるものの、まだこの問題に対して私たちは真正面から取り組んでいるとはいえまい。
 一方で、この種の論点も、アカデミズムとジャーナリズムの両方に関わる側面が大きいと思われる。
 また、詳細は省くが、二つをつなぐ態度は他にもい色々な意味で有益だ。
 本コラムでは、そのような観点を含め、今後も様々な議論を提起できればと思っている。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。 
 「ジャーナリズムとアカデミズムの間には、時間について数百倍のオーダーの開きがあるようだ」とのこと、
 「この隙間、10日から数か月間の単位で、私たちの社会を見つめるのは誰か」「かってはジャーナリズム志向の強い月刊誌などが、ちょうどこの空隙を埋めていたと思われる」とのこと、等を知ることができた。
 また、「バッシングの「限度」が見えない」との指摘、
 「批判の宛先が生身の人間であることや、不適切な社会的制裁は人権侵害に当たることなどが、まるで意識されなくなるように見えるのだ」との指摘、等はその通りだと思った。
 さらに、阿部謹也氏が「日本の本質は「世間」であって「社会」ではないと看破した。世間は歴史的な秩序であり、この国を実質的に支配している原理だと説く。そこには個人の観念はなく、各々の「地位」だけが存在する。また法や契約よりもも贈与や返礼による「互酬」の原理が優越する。
 そして、世間自体は、人為的に変えられない、外敵条件と理解されている。」と指摘していることを、初めて知った。
 これからの日常の生活の中で、「世間と社会」を見極めたいと思っている。
 
 
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by sasakitosio | 2016-04-17 14:53 | 朝日新聞を読んで | Trackback