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by sasakitosio

死を語るなら  <曽野綾子さん、自分のことを!>

 4月4日付東京新聞朝刊27面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、看護師・宮子あずさ氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「少し古い話だが、2月1日発売の週刊紙で、作家の曽野綾子氏がまた物議を醸す発言をしていた。
 「高齢者は「適当な時に死ぬ覚悟」を忘れてしまっていませんか?」と題したインタビュー記事。
 曽野氏は「いくらでも生きたい」は傲慢と言い切り、ある年齢が来たら、若い人に機会を譲る姿勢が大事と説いていた。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「これを読んだ時、いやな気持がする一方で、自分が望む死に方としては、同意できる部分もあった。
 昔は人生50年。50歳を超えた今、何が起こっても、「十分に生きた」と満足できるようでありたいと思う。
 しかし、これはあくまでも、私が抱く自分の死についての理想。決して他人に向かって、「十分生きたと満足して死ね」というものではないと思う。
 我がこととしてかたるか人に向かって命ずるか、この違いは大きい。」と指摘した。
 最後に筆者は、「それにしても、曽野氏はなぜそんなことを言って恥じないのか。ご自身も84歳。この年齢でヒトに死ねと言ったら、あなたはどうなんだと言われるだろう。
 事実そうした揶揄がネットで散見される。他罰が芸風の曽野氏ではあるが、この文章はあまりにも雑で、品がない。自分は元気なつもりでも、老いて行き届かなくなった身仕舞のような、そんな哀れさすら、感じてしまう。
 年を重ねて死を語るには、まず己の死を語るのが作法ではないか。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 曽野綾子氏が「「いくらでも生きたい」は傲慢」と、週刊誌の「高齢者は「適当な時に死ぬ義務」を忘れてしまっていませんか?」と題したインタビューに答えた」とのこと。
 いつぞや、週刊誌の新聞広告でそのフレーズを見た時、瞬間的に、質問する方も、答える方も、ほとんどブラックジョークを言っていると思ったが、ひごろ命に関わる職業の人にとっては、曽野綾子氏の「「いくらでも生きたい」は傲慢」の言葉は見逃せなかったのだと、思った。
 ただ、曽野綾子さんの言葉を、肉体の死でなく「社会的死」ならば、自殺のススメとして、大いに納得できるような気はしている。
 また、自分は70過ぎて「毎日が自分の命日」と心がけ、自分の周りにいる人びと、生物その他に感謝するようここら崖ている。
 そして、いくらでも生きて、人や地球の役に立つことが出来れば、いいなあ、と思っている
 
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by sasakitosio | 2016-04-05 06:28 | 東京新聞を読んで | Trackback