人々の無事を守る政治<政治は為政者のゲームではない!>
2016年 03月 29日
今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「私の山里の家がある群馬県上野村では、山の落葉広葉樹の木々が赤みを帯び始めると、村人は春が近づいたと感じる。二月半ばから、木は大地から水をくみ上げ、その水のなかに糖分をためて芽吹きの準備に入る。次第に冬芽がふくらみ、赤みを増してくる。
イタヤカエデがくみ上げた水をもらいに詰めたものが、メープルシロップである。
上野村では桜が咲くのは4月20日ごろ、3月中はまだ梅の季節である。
そんな自然の様子を見ていると、今年も無事に春を迎えてほしいという気持ちになってくる。
自然にとっては、無事であることが最良だ。無事に春を迎え、無事に夏や秋、冬を迎える。それができれば、去年と同じように、10年前とも100年前とも同じように、自然はその生命の世界を守り続けるだろう。自然は平和を求めている。」と切り出した。
つづけて筆者は、「それは人間でも同じことだ。無事に仕事をし、無事に暮らすことが、社会の基盤でなければならないのである。
もちろん一人一人は、いろいろな生き方をしてもかまわない。あえて無事な生き方を捨てることも、人間にとっては一つの選択である。
だが、社会全体の役割も、社会を守るための政治の役割もそこにはない。
政治は一人一人の行動に対応するのではなく、誰もが無事に生きる社会をつくり、守ることにある。
平和を守るといってもよい。
自然の無事がこれからもつづくようにするのと同じように、人間社会の無事を守るのが政治の役割だ。
政治の目的は、国を守ることでも、日本の国内総生産(GDP)を増やすことでもないのである。
国の政治では国民の無事を守ること、地方や地域の政治ではそこに暮らす人々の無事を守ること。
それが目的でなければならない。
国の防衛やGDPの増加は、その結果でしかない。
なぜこのような言い方をするかと言えば、国の防衛や経済発展は、しばしば私たちに生きる世界の無事と一致しないからである。
たとえば第二次世界をみても、国を守るために戦争が戦場や空襲による多くの死者を出し、国民の無事を破壊してしまった。
さらにいまでは多くの人たちが気づいているように、経済成長だけを目的とした社会は、格差社会やつながりのない、幸せの薄い社会をつくり出してしまった。」と教えてくれる。
さらに筆者は、「国家の防衛や経済成長は目的ではないのである。目的は人々が無事に働き、無事い暮らす社会を作りつづけることの方にある。
そのことを見誤ると、人間が国家や経済の道具としてつかわれるという転倒がおこってしまう。
そしてそれは、私たちを偏狭なナショナリズムと、とげとげしい国家間対立のなかに引きづり込んでいきかねない。実際、偉大な米国の復活とか、強大な中国の建設などというスローガンが叫ばれ、日本もまたその一角に食い込もうとする対立の構図のなかに、いま世界は向かいつつあるようである。」と指摘した。
最後に筆者は、「自然は無事に生きられる世界の持続を求めている。春にはカエルたちが冬眠から覚め、水辺で卵を産む。それが永遠に続けられるような無事な世界の持続を。
人間社会の原点もそれと変わらないはずだ。
みんな無事に生きていける社会。
政治は為政者のゲームではない。」として締めくくった。
読んで勉強になった。
筆者の、「政治の目的は、国を守ることでもなく、日本国の国内総生産(GDP)を増やすことでもないのである。国の政治では国民の無事を守ること、地方や地域の政治ではそこに暮らす人々の無事を守ること。それが目的でなければならない」との指摘、
「みんなが無事に生きていける社会。政治は為政者のゲームではない」との指摘、等はその通りだと思った。とりわけ、戦争は、為政者のゲーム以外の何ものでもない、ような気がした。そして、かけられるのは「国民の無事」であるなあと思った。
また、生き物の中で、なぜ、人間だけが、人間同士で殺し合いをするのだろうか?