憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

俎上の鯉に挑発は禁物

 1月24日付東京新聞4面に、「時代を読む」という欄がある。筆者は、同志社大教授・浜矩子氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「1月21日、安倍総理大臣の施政方針演説が行われた。その「はじめに」の部分で、安倍首相は次のように言っている。「批判だけに明け暮れ、対案を示さず、後は「どうにかなる」。そういう態度は、国民に対して誠に無責任であります」
 のっけからの野党批判である。
 今回の施政方針演説で、安倍氏は「挑戦」という言葉に強いこだわりを示している。だが、こんな調子でいきなり相手方に悪口をぶつけたのでは、挑戦ではなくて挑発だ。さらにご丁寧なことには、「終わりに」の中でも、「ただ反対と唱える。それでは国民への責任は果たせません」と言っている。
 総理は、よほど批判されることがお嫌いらしい。それが強く印象づけられた。誰も批判されていい気持ちはしない。だが、国会というのは、そんな私情を前面に出す場所ではない。政府与党の代表者として国会論戦に臨む者は、批判に絶えることが仕事だ。
 まさしく、施政方針を打ち出し、それに関する精査と判定を受ける。それが政府与党というものの位置づけだ。対する野党は、何はともあれ批判することが仕事だ。むしろいきなり対案を出したのでは、問題の焦点は国民の前に明確にならない。ここを間違えてはいけないと思う。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「国会論戦の場において、政府与党は、まな板の鯉であることに甘んじなければいけない。野党は、鯉に品質を見定める役割を担っている。この鯉は、国民という名のお客さまに召し上がって頂くに値するか。召し上がって頂いて大丈夫か。食中毒の恐れはないか。そもそも、この鯉は本当に鯉か。鯉のふりをしたイワシだったりしないだろうか。
 こうして、まな板に載せられた魚を徹底的に吟味する。それが野党側の基本的な機能だ。別の魚をまな板の上に持ち出して、こっちの方か新鮮だと主張するのが、彼らの役回りではない。
 そんな競い合いを繰り広げられても、お客さんの方は困惑するばかりだ。
 その場でどっちかの鯉を選べるのなら、まだいい。だが、そうは問屋が卸さない。次の選挙の時まで、鯉の選び替えはお預けだ。当面は、政府与党側が持ち出してきた鯉が、どうしても、献立の基礎になる。だからこそ、その鯉の特性あるいは毒性などを、もう一組の専門家たちに吟味してもらう必要がある。」と指摘した。
 さらに筆者は、「ちなみに、イギリスの議会はでは野党の位置づけにある政党は「影の内閣」を組成する。その中で影の閣僚役を与えられた政治家は、基本的にあら捜しをその本務としている。与党側閣僚の一挙手一投足に、まさしく影のように寄り添って、その言動をウオッチする。いつでも、批判すべきをキチンと批判できるように、あくまでもしつこくつきまとっていくのである。
 むろん場合によっては対案も出す。だが、それが第一義的な仕事ではない。決して振り払うことが出来ない影と化して、相手を追い込んでいくのである。その意味で、日本の民主党が内部組織として構築している「次の内閣」は、少々、野党たるものの役割を誤解騎しているかもしれない。一行も早く次の内閣になりたいのは解る。
 だが、やはり、手ごわい影としての位置づけをもっと意識すべきでだ。
 いずれにせよ、まな板の鯉となる覚悟なき者に、内閣総理大臣の役割は不向きだ」として締めくくった。
 読んでためになった。
 「政府与党の代表者として国会論戦に臨む者は、批判に耐えることが仕事だ」、
「対する野党は、なにはともあれ、批判することが仕事だ」、等の指摘はなるほどと思った。
 また、「イギリス議会で野党の位置づけにある政党は、「影の内閣」を組成する。その中で影の閣僚役を与えられた政治家は、基本的にあら捜しをその本務としている」とのこと、
「けして振り払うことができない影と化して、相手を追い込んでゆくのである」とのこと、等を教えてもらった。
 影の内閣の陰は、背後にいる「影人間」ではなく、振り払うことができない「閣僚本人の影」となってつきまとうと、いうことを初めて知った。
 そして、民主党の「次の内閣」と、イギリスの「影の内閣」はまったく異質のものであることを、筆者に教えてもらった気がした。
[PR]
トラックバックURL : http://sasakitosi.exblog.jp/tb/22817456
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by sasakitosio | 2016-01-26 15:01 | 東京新聞を読んで | Trackback