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by sasakitosio

数字で表せない幸せ感

 1月17日付東京新聞朝刊4面に、「時代を読む」という欄がある。筆者は、哲学者・内山節氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶこと事にした。
まず筆者は、「数字は、具体的な一面と抽象的な性格とを,併せもっている 。
 たとえば「ご家族は何人ですか」と聞かれたときに応える数字は具体的な数字だ。ところが日本の人口についての数字は抽象的である。何人いるのが好ましいかは誰にもわからない。スウェーデンやフィンランドのように広い自然を享受しながら暮らすのが理想なら、人口はもっと少なくてもいいような気がするし、増えていかないと市場が拡大しないと焦る人たちもいるだろう。この場合でも何人まで増えたり減ったりするのが理想なのかは、よく分からない。
 お金もそうで、日々の生活の中で使われているのは具体的な数字だ。ところが「いくらあったら人間は幸せになれるか」などと聞かれたら、たちまち数字は具体性を失う。」と教えてくれる
つづけて筆者は、 「私の新年は、毎年群馬県の上野村で迎えられる。山から朝日がさして正月がはじまり、年末についた餅が食卓に上がる。庭に冬の鳥たちが姿を見せ、葉を落とした山の木々が私の暮らす里を包んでいる。昼すぎには私も近所に新年のあいさつに出かけ、逆に村人が訪ねてきたりする。自然も人間もさらに昔からこの村に祭られている神々も、ともに新年を迎える。
 毎年繰り返される何ということもない時間なのに、ともに新年を迎えることができた安堵感がり、今年の村の無事を祈る気持ちが村のなかに広がっている。
 そこにあるのは数字ではとらえられない世界だ。その代わり、どんな結び合いのなかに村の暮らしがあるのかは、はっきり見えている。
 自然との結びつき、村人や村の伝統との結びつき。そういうなかに自分たちの暮らす世界がある。
 考えてみれば、人間の幸せや充実感といったものは、全て数字では表せないものだ。数字は相対的なものだが、幸せや充実感は、それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。だから高尚なものはすべて数字で表せない。
 美は数字ではないし、音楽や文学からえた感動も数字ではない。
 とすると成熟した社会とは、数字を追いかる社会から、数字では表せないものを大事にする社会への転換によって、生まれるのでなないだろうか。幸せ感や生の充実間の高い社会が、成熟した社会のはずだからである。
 こんな視点からみていくと、今の政治の主張はなさけない。
 数字ばかりなのである。GDP600兆円とか、2%のインフレとか、一億総活躍とか。それが幸せな社会をつくるのかも、幸せな社会とは何かも考慮されることなく、数字だけが花火のように打ち上げられていく。」と指摘した。
最後に筆者は、「今年は、数字では表せないものを大事にする社会をつくりたいものだ。どんな結び合いが幸せをつくっていくのか。自然が支えてくれていると感じられるような社会は、どうやったらつくれるのか。
 どんな働き方ができたら、充実感を手に入れることができるのか。
 それは広い意味でのコミュニティーの課題である。
家族というコミュニテい―、
友人や仲間たちとのコミュニティー、
働く仲間のコミュニティー、
自然を含めた地域のコミュニティー。
 そういうものが人々に幸せをもたらすとするなら、結び合いやコミュニティーを大事にする社会を、私たちはつくっていかなければならないだろう。」として締めくくった。
 読んでためになった。
 「数字は相対的なものだが、幸せや充実感は、それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。」
 「成熟した社会とは、数字を追いかける社会から、数字で表せないものを大事にする社会への転換によってうまれるのではないだろうか。」、等の指摘は、そうかもしれないという気がしている。
 ある時から、自分の喜びも怒りも悲しみも楽しみも、多くは「人間や自然」とのかかわり合いで「生まれて」いることに気づいた。
 また、ここ十数年、毎年年末年始は、外国の町で、外国の人々のクリスマスや正月を見ている。歴史や地理に対する「止めようのない内なる好奇心」に突き動かされて、一人旅を続けているわけだが、愛妻も快く、毎年飛行場まで送ってくれる。これも筆者の言う「家族というコミュニティー」の在り方の一つなのかもしれない、と思って感謝している。 
 
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by sasakitosio | 2016-01-19 07:01 | 東京新聞を読んで | Trackback