革命の理想が生まれた地で
2015年 12月 17日
筆者は、ヨーロッパ支局長・梅原季哉氏だ。
今日はこの筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「なぜ、ここを襲ったのだろう。
パリ同時多発テロの直後から、悲劇が起きた複数のカフェやレストランの現場を訪れるたびに、そんな問いが浮かぶ。
代表戦があったサッカー場周辺での自爆を除くと、今回のテロの舞台は、パリ市街の北東より、10区から11区に集中する。乱射の標的となった店々に共通するのは、五差路の角など、狙いやすく、かつ逃げやすいな場所に当たる点だ。
ただ、どうしてもそこでなければ、という必然性は特に感じられない。逆にいえば「次の角でもいい」「その店でもよかった」無差別性だけが浮かび上がる。
では、なぜこの地区なのか。
なぜ、権力中枢の官庁や、もっと華やかなシャンゼリゼではなかったのか。
単に警備が手薄で、足場がよかったからなのか。
真相は分からない。でも確かなのはこのかいわいの性格だ。
家賃相場は相対的に低めで、若者や芸術家らが集う、こじゃれた街だ。移民層も珍しくはないが、互いに共存する空気がある。富はなくとも異なる背景の人々がカフェで共に語らう。いかにもパリらしい街といえる。そして、歴史の街である。」と切り出した。
つづけて筆者は、「約90人が犠牲になったコンサートホールから南東へ約1キロ、パリ11区役所玄関口に銘板がある。
「1871年5月、最後の戦いの間、パリコミューンはここに本部を置いた。ナポレオン3世の第2帝政が崩壊し、普仏戦争が続く中、蜂起したパリ市民らがつくり、約2カ月で鎮圧された自治政府のことだ。
あだ花のようについえたコミューンは、自由や人権思想というフランス革命の理想が純粋培養された場だった。
この区役所の広場へ、市民らは、旧体制の象徴とみなすギロチン(断頭台)をもってきて焼き、「死刑制度を廃止せよ」と要求したという。ギロチンの礎石は、通りから少し入った角に今も残る。
ただ、フランス革命自体が、時に過酷な矛盾をはらむ経過をたどったことも事実だ。断頭台が多用されたのは、革命後のこと。ロベスピエールが率いた恐怖政治(テルール)下の2年間だ。それがまさに「テロリズム」の語源となった。」と教えてくれる。
最後に筆者は、「今シリアで断首を実行する過激派組織「イスラム国」(IS)について、フランス社会学の重鎮、ミシェル・ビビオルカ氏(69)は「ロベスピエール統治下とどう違うのか。比較すること自体が、我々現代フランス人には衝撃的だが、考える意味は或る」と説く。
パリ中心部の現場から離れ、今回のテロ首謀者らが立てこもったアパートがある北郊外の町サンドニに赴くと、そこは明らかに異なる街の空気がある。
単に移民層が多いだけではない。「自由、平等、博愛」を象徴するフランス国旗は区役所にしか見かけなくなった。
失業、荒れる治安、二級市民扱いへの不満・・・・・。
こちらの地区には革命の理想など無縁と感じる人びとがいる。歴史学者ジャン・ガリーグ(55)は、フランスの「失われた領土」と形容する。
その失地と向き合わない限り、「テロの根絶」などお題目に過ぎない。」として締めくくった。
読んで勉強になった。
「約90人が犠牲になったコンサートホールから南東約一キロ、パリ11区役所玄関口に銘板がある。「1871年5月、最後の戦いの間、パリコミューンはここに本部を置いた」」ことを知り、
「あだ花のようについえたパリコミューンは、自由人権思想というフランス革命の理想が純粋培養された場だった」ことを知り、
「断頭台が多用されたのは、革命後のこと。ロべスピエールが率いた恐怖政治(テルール)下の2年間だ。それがまさに「テロリズム」の語源となった」ことも知った。
また、「パリ中心部の現場から離れ、今回のテロ首謀者らが立てこもったアパートがある北郊外の町サンドニに赴くと、そこには明らかに異なる街の空気がある」とのこと、
「失業、荒れる治安、二級市民扱いへの不満・・・・。こちらに地区には、革命思想など無縁と感じる人びとがいる」とのこと、等を知った。
ことによって、パリの中心地を歩き回り、凱旋門の屋上から、エッフェル塔の展望室から市内を眺め、セーヌ川を川下りし、ナポレオンの墓に手を合わせて、ルーブル美術館でモナリザを見、ベルサイユ宮殿を歩いて来ただけの自分には、フランスの別の姿を教えてもらった気がした。