排外主義の嵐
2015年 12月 15日
今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「パリのテロ事件以来、世界中で排外主義と不寛容の嵐が吹き荒れている。フランスの地方選挙では極右政党国民戦線が躍進した。テロ直後という最悪のタイミングで選挙が行われたことで、移民排斥を売り物としてきた同党が最大の恩恵を得た形である。
米国では、共和党の大統領候補ドナルド・トランプ氏がイスラム教徒を米国に入れるなと叫んで、共和党をふくむ他の政党から激しい非難を浴びている。ある程度理性を持ち、自由や民主主義の建前を尊重する政治家は批判はするが、一部の人々は、この種の暴言を、思っていても口に出せない本音をズバッと言ってくれたと歓迎する。そこにデマゴーグと闘う時の厄介さがある。」と切り出した。
つづけて筆者は、「排外主義と不寛容は日本にとっても人ごとではない。日本でも在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチが行われてきた。しかも、民族差別をあおる極右団体について、今から5年前、葛西敬之助国家公安委員(当時)は、委員会の中で「「極右」と呼ぶべきものではないと思う。事前に実態を知り、適正に評価することが大事なのではないかと思う」と述べたことが記録に残ったいる。法執行者の責任者にあるまじき無理解である。」と指摘した。
最後に筆者、「人間が人間であり得るのは、建前を大事にするからである。排外主義を叫ぶ者を許してはならない。」として締めくくった。
読んで勉強になった。
たしかに、「パリのテロ事件以来、世界中で排外主義と不寛容の嵐が吹き荒れている」との筆者の指摘は、その通りだと思った。
世界中の指導者の中に、「排外主義と不寛容」が蔓延・定着する「社会」はどんな社会なのだろうか。経済は停滞し、争い事が絶えない、実に住みにくい世の中になるのではないか。行き着く先は、戦争のような気がしている。
一昨年の年末から昨年の年始にかけて、お釈迦様の悟りの地「ブッタガヤ」を歩き回ってきた。その時、おのれをむなしゅうすれば、おのずと周囲の衆生・諸物に対して、感謝の気持ちが湧いてくることを知った。
「違い」を排外の理由にするのでなく、新しい楽しみの発見に変えられないものだろうか。 そうすれば、おのずから「不寛容」は消えていくのではないか。