本土と沖縄 本当の壁
2015年 10月 05日
今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「今年8月24日午前0時45分ごろ、神奈川県相模原市の米軍補給廠から火柱が上がった。米軍消防から車両3台と8人が出動、市消防からもポンプ車や化学車14台と51人が駆け付けた。
装備も人員も市消防がまさる。だが、米軍との取り決めで市消防車は米軍の指揮下に入らざるを得ない。軍の指示は「保管物が判明するまで放水まて」。
放水開始は午前6時56分だった。
補給廠監視グループの沢田政司さん(63)は当夜、サイレン音を聞いて現場へ走った。「せっかく臨場した市消防が朝まで放水できない。おかしいと思いませんか」
沖縄県内では、事件や事故の際に立ちはだかる米軍の壁が各段に高い。11年前の夏、沖縄国際大学構内にヘリが墜落した事故では、機体に近づこうとする警察や消防を米軍が拒んだ。
同大の前泊博盛教授(54)は当時、琉球新報の記者だった。「警察や消防だけでなく県市の職員、記者にも屈辱でした。海兵隊員たちの尊大な態度に日米地位協定の本性が見えました」
研究室の眼下に輸送機オスプレイが見える。事故の多さに不安が高まった3年前、時の野田佳彦首相は「米政府の方針。日本がどうしろこうしろと言う話ではない」と発言した。
あれこそ日本の現実です、と前泊氏は言う。「沖縄だけじゃない。地位協定と特例法で米軍は日本の航空法の主要な規制を免除される。オスプレイは沖縄でも本土でも超低空を飛べる。東京大学構内に落ちても米軍は警視庁や東京消防庁を追い払えるのです」」と教えてくれる。
さらに筆者は、「広く知られている通り、米軍が日本の法規に縛られない状態は占領期にさかのぼる。米軍は占領終結後も特権の多くを持ち続けて。日本側にも駐留継続を望んだ人が大勢いたからだ。
関西学院大学の豊下楢彦・元教授(70)の研究によれば、昭和天皇もその一人だった。
昨年刊行された「昭和天皇実録」が言及した米側報告書によると、昭和天皇は沖縄駐留について「25年ないし50年あるいはそれ以上の長期」を求めた。訪米する外相に向かって「米軍撤退は不可なり」とわざわざ念を押されたことを示す手記などもある。
何のためか、豊下氏によると、一つはソ連など共産勢力への恐れ、日本でクーデターが起きれば天皇制は覆されると考えた。もうひとつは軍部復活への不安。戦中の不信もあって「いつかは刃を自分に向ける」と警戒した。
「象徴天皇として生きながら、危機が迫れば元首のごとく外交に乗り出す。研究すればするほど、そのリアリストぶりに魅せられました」
現実の駐留政策に天皇の意図がどれほど反映されたか知る由もない。
長い駐留を願う声は各界各層にあった。ただ米軍にすれば、そうした声は渡りに船だった。日本から早期撤収を訴える国務省を退け、占領終結後もほぼ望みどおりに占領状態を継続した。
最後に筆者は、「国外で取材するたびに痛感することだが、沖縄に重い現実は海外で悲しいほど知られていない。
東京をぐるりと囲む米軍の存在はさらに知られていない。
基地災害を説明すると「なぜ日本人は黙っているのか」と問い返される。「君ら東京の記者が政府より過ぎるからだ」と言われたこともある。
放水できない消防、捜査できない警察、オスプレイ配備に何も言えない首相―――。属国か属領のごとく扱われる点では本土と沖縄に違いはない。
翁長雄志沖縄知事は先月末、国連人権理事会で沖縄の基地問題を訴えた。沖縄の人権がゆがめられてきたのは紛れもない事実である。同時に日本の主権もゆがめられたまま70年が過ぎた。基地のもたらす同根の苦難を思えば、いっそ官房長官と知事が肩を並べて国連に訴えてもおかしくはなかった。
菅義偉官房長官は翁長知事の国連スピーチを批判した。
「国際社会で理解されない。強い違和感を覚える」。その発言に私は強い違和感を覚える。」と締めくくった。
読んで勉強になった。
初めて知って驚いたのは、昭和天皇が「沖縄駐留について「25年ないし50年あるいはそれ以上の長期」を求めた。訪米する外相に向かって「米軍撤退は不可なり」とわざわざ念を押す手記などがある」とのことだ。
その理由が、「豊下氏によると、ひとつはソ連など共産勢力への恐れ、日本でクーデターが起きれば天皇制は覆されると考えた。もうひとつは軍部復活への不安。戦中の不信もあって「いつか刃を自分に向ける」と警戒した」とのことである。
昭和天皇が今健在なら、「放水できない消防、捜査できない警察、オスプレイ配備に何も言えない首相――」、「戦争関連法制の成立、特定秘密保護法、原発再稼働」、等にどう思われるだろうか。
ただ、理屈や歴史的経過はどうあれ、ただただ「米国の属国か属領のごとく扱われている」現状は、情けなく悔しい。
この記事は、全国民必読し、国民みんなで考えねばと思った。
そして、世界から戦争なくし、米軍基地を日本からなくすためにも、平和憲法を世界へ拡げ未来へつなげたい、と思った。