憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

憲法9条と戦争放棄 そもそも「平和」とはなにか

10月2日付朝日新聞朝刊13面に、「異論のススメ」という欄がある。筆者は、京都大学名誉教授・佐伯啓思氏だ。
 今日はこの筆者に学ぶことにした。
 先ず筆者は、「先ごろ参議院で成立した安全保障関連法案に対しては、国会の内外で激しく対立した。いささか興味深いのは、どちらも「平和」の名目で賛成し、また反対したことだ。「平和」というものの理解において、国論が二分されたわけである。
 とりわけ国会を取り巻くデモの参加者たちは、「憲法を守れ」「戦争法案反対」「平和を守れ」を合言葉にした。
 安倍首相の進める安保法制は「平和」への挑戦だというのである。
 しかし、そもそも「平和」とは何だろうか。
 憲法9条を守るという「平和主義者」たちは、戦争とは殺人であり、したがって、平和とは戦争の無い(人が殺されない)状態だという。
 そして戦争放棄の憲法9条は、日本が他国の戦争に巻き込まれない(人殺しをしない)仕組みである、という。
 つまり、私も殺人を犯さないから、私も殺されないようにする条文だという。
 もう少し理念的に言えば、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という日本国憲法の3原則は相互に深い関連があって、人々が自己の生命や財産に対してもつ基本的な権利を守るには平和主義が不可欠であり、それを実現するには国民主権が伴う、という。確かにこの背後には、「平和とは戦争(人殺し)の無い状態」という理解がある。
 だがもしそうであるなら、たちまち疑問がでてくる。人殺しは悪だとしても、だからといって人殺しが亡くなることはないだろう。とすれば、戦争もまた同じではないか。
 だがまたこうも言える。
 いわゆる人殺しと戦争は同じではない。いやそもそも人殺しと戦争を同一視する方がおかしいのではないか。 
 とすれば、戦争をそれなりに回避する仕組みを作ることは可能ではないか。こういう疑問である。」と切り出した。
 つづけて費筆者は、「平和(ピース)とは、そのラテン語の語源からもわかるように、もともと「支配による平和(パックス)」という意味を含んでおり、強国の支配によってつくり出された秩序という含意を持っている。
 つまり、「平和」とは、ある強国によって平定され、そこに秩序が生み出されるという歴史的事実と無関係ではない。
 だから、「ローマによる平和(パックス・ローマ)」「アメリカによる平和(パックス・アメリカーナ)などという。
 冷戦後には「パックス・コンソルテス(国際協調による平和)」という概念も唱えられた。
 かくて欧米における「平和」とは、多くの場合、ある「覇権」を前提とし、そのもとでの秩序形成や、あるいは、覇権争いの結果としての勢力均衡を意味することになる。
 だから、冷戦は、冷たい戦争であったと同時に「長い平和」でもあった。
 それは、米ソ両国でかろうじて軍事バランスをとったからである。ここには、殺人と同様に、決して戦争はなくならないという「人間観」がある。その背後には、日本などと比べると、はるかにひんぱんに、民族的自尊や集団的利害や宗教的信念などの理由で対立と殺戮を繰り広げてきた西洋に歴史がある。
 戦争は生命を賭けてでも獲得しなければならない何ものかのためにもなされてきた。
 だから、「平和」もまた「力」を前提とする。
 それは、「力による平定」に対する同意が生み出す秩序であり、または、「力」のバランスの維持なのであった。
 とすれば、戦後日本の「平和主義」が、その意味での「世界標準」から相当ズレていることをわれわれはまず知らなければならない。
 もちろん、「世界標準」が正しいという理由もなければ、それに合わせなければならない、という理由もない。
 だが、このズレを国是とするとなると、相当な覚悟が必要である。
 仮に他国からの侵攻があったときに、われわれは基本的には無抵抗主義をとらねばならない。
私はこの理想を個人的には称賛し、感情的には深く共鳴するものの、それを国是にするわけにはいかない。」と指摘した。
 さらに筆者は、「フランスの社会人類学者のエマニュエル・ドットが、日本の平和主義についてこんなことを書いている。
 「私が日ごろから非常に不思議だと感じているのは、日本の侵略を受けた国々だけでなく、日本人自身が自分たちの国を危険な国であると、必要以上に強く認識している点です」(「文芸春秋」10月号)
 長い歴史の中で日本が危険なことをしたのはほんの短い機関であり、しかもヨーロッパの帝国主義のさなかの出来事であった。日本はただその世界情勢に追随しただけだった、と彼は言っている。
 このドットの見解に私も同感である。
 日本の憲法平和主義は、自らの武力も戦力も放棄することで、ことさら手を縛った。
 しかし、他国は武力を放棄していないのである。こうなると、われら日本人だけが、危険極まりない侵略的傾向を持った国民だということになってしまう。ドットのような疑問が出るのは当然であろう。」と指摘した。
 最後に筆者は、「平和への祈り」や「平和への希求」は当然のことで、それが憲法の精神を形作ることに何の問題もない。
 しかし、憲法九条の平和主義はそうではない。
われわれ自身への過度の不信感と、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物であるように思える。
 私には、我々日本人は歴史的に見ても、法外なほど好戦的で残虐な性癖を持っているとは思われない。
 われわれはいまだに敗戦後の自己不信に縛り付けられているのではないだろうか。」として締めくくった。
 読んで、いろいろ疑問がわいてきた。異論のススメだからかもしれない。
 まず、「「平和」というものの理解において、国論が二分されたいるわけである」との点である。「国論の二分」とはどうゆう割合の状況を、筆者は言うのだろうか。各種世論調査で圧倒的に反対論が多かったような気がするが?正確には国民投票をしてみないと分からないはずだが?
 また、「憲法を9条を守るという「平和主義者」たちは、戦争とは殺人であり、したがって平和とは戦争の無い(人が殺されない)状態だという。」と筆者は指摘する。その指摘の中に「憲法を守らなければならないのは国家の権力者」であり、憲法を護るのが、権力者も含めて国民の義務ではないかと思し、戦争は国家権力による総力を挙げての「殺人」であり、個人や暴力団の人殺しとは、峻別しなければならないものと思うが?
 また、「戦争をそれなりに回避する仕組みを作りことが可能ではないか。こういう疑問がある。」という。理屈の上だけで考えるなら、「戦争は国家が総力をあげて「殺人・破壊」をするのであるから、「国家を消滅」すれば、国家間の戦争はなくなるはずだ。日本に統一国家が出来てから国内で戦争はなくなったし、EUができてからはEU内では国家間戦争はなくなったように。
 国家をなくし、世界統一政府(世界連邦)を実現するようにすれば、地球から戦争はなくせるのではないか?
 また、「戦争は生命を賭けてでも獲得しなければならないなにものかのためになされてきた。」と筆者は言う。この時の「生命」は主に被支配者のものであり、命が懸けられた「なのものか」は主に為政者の地位や名誉や利益ではなかったか? 
 また、「仮に他国からの侵攻があったときに、我々は基本的には無抵抗主義をとらなければならない。」と筆者言う。
 日本国憲法は前文で「日本国民は・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・」とあり、前文と合わせて憲法9条を理解するとき、「仮に他国から侵攻のあったときは」憲法前文の前提が崩れているわけですから「仮に正当防衛として侵略を排除する」とならなけばいけないような気がするが?
 また、「憲法9条の平和主義はそうではない。われわれ自身への過度な不信感と、終戦直後のあまりに現実離れした厭戦感情の産物であるように思える」と筆者は言う。
 ここで、「われわれ自身への過度の不信感」のわれわれは「為政者・権力者」のことと読めば理解できるし、「過度の厭戦感情」は、「戦争」は人間を凶器にも、狂気にもすること」との被支配者国民の恐怖のあらわれと読めば理解できが。
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by sasakitosio | 2015-10-04 06:41 | 東京新聞を読んで | Trackback