憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

我らはペンを銃に持ち代えるに非ず 軍服を着たるペンなり。

 9月26日付東京新聞朝刊31面に、「週刊誌の鬼 徴兵後の遺書にも記者魂」の見出しで、扇谷正造さんの記事が載った。記者は、矢島智子氏だ。
 今日はこの記事を学習することにした。
 まず記事は、「朝日新聞の記者から「週刊朝日」の編集長となり「週刊誌の鬼」と言われながら、戦後のジャーナリズムをリードした扇谷正造さん(1913-92年)は、太平洋戦争末期に軍隊で書いた遺書を生涯ひそかに保管していた。そこには、一兵卒となってもなお記者であろうとした扇谷さんの心情が記されていた。(矢島智子)
扇谷さんは朝日新聞に勤務していた1944(昭和19)年3月、31歳で陸軍に招集された。実は徴兵検査でが丙種合格で徴集はないと思っていた。既に、家庭を持ち、3人の子もあった。
 遺書はこの年の6月6日、朝鮮半島の羅南で、通信兵として中国中部の前線に出ていく前に書かれた。 
 扇谷さんは後に、そのときのことを語っている。400人もの同年兵が遺書書くために集められた部屋はしんと静まり返り、20分もするとすすり泣きが聞こえてきたという。遺書は前線でも何通か書かされたが、保管していたのは最初の一通だ。
 この遺書は79歳で亡くなってから7年後、遺品のなかから見つかった。長男の正紀さん(74)は、父の遺書を手にした衝撃を俳句に読んだ。
 「敗戦忌父32才の遺書を読む」
 遺書は疎開先にいる妻あてで、便箋3枚に鉛筆で書かれ、冒頭に「遺言状」とある。妻には「亡キ後ハ母ト暮セ」。
 すでに出征してしていた弟二人には「若シ生還セバ母ヲ頼ム」などと記した後、新聞社の同僚あてにしたためられていたのが「我らはペンを銃に持ち代えるに非ず・・・」の一文だった。このくだりだけ何度も書き直した跡がある、
 「ここを見るたびに涙が出る」と正紀さんは声を詰まらせる。軍の検閲に引っかかるのを懸念して何度も消し、それでも自分の志は伝えておきたいと、意を決して書いたことが感じられるからだ。」と教えてくれる。
 つづけて記事は、「扇谷さんは応召以前に2度、戦争特派員として戦地を経験している。
 38年の中国・漢口攻略戦と41年末からのフィリッピン攻略戦だ。その時接した将校らの態度から、兵隊は皆りりしく勇ましいと感じていたが、一平卒となり、中から見た軍隊は違っていた。
 「親父はほとんど総入れ歯だった」。軍のリンチで殴られた結果だった。約300人いた中隊で大学では扇谷さん一人。「武」が「知」に勝る見せしめとして象徴的にやられたらしい。
 扇谷さんは短い回顧を書いている。
 「私は歯をくいしばり、幾回か、くやし涙を流した。私の経験によれば、兵隊は弾に当たって死ぬよりは、内地、前線を問わず、上級者によって“使い殺されれること”のほうがむしろ多かったのではないかと思う」
 「ペン」であり続けようとした扇谷さんだが、戦後、一兵卒から見た戦記を出版することはなかった。」と教えてくれた。
 読んで大変考えさせられた。
 扇谷正造さんの名前は、なぜかしっかり記憶があった。
 「38年の中国・漢口攻略戦と41年末からのフィリッピン攻略戦。取材のとき接した将校らの態度から、兵隊はりりしく勇ましいと感じていたが、一平卒となり、中から見た軍隊は違っていた」とのくだりは、なるほどと理解できた。
 「私は歯をくいしばり、幾回か、悔し涙をながした。私の経験によれば、兵隊は弾にあたって死ぬよりは、内地、前線を問わず、上級者によって”使い殺されること“の方がむしろ多かったのではないかと思う」とのくだりは、戦争が人間を狂人にする、戦争で人間が狂人になる、その軍隊版のような気がした。
 ますます、「戦争は、絶対悪であり、戦争を起こそうとする人こそ、最大の悪人なのだろう」と思えてきた。
 「立ち上がる比島」(43年)は、読んでみたくなった。

 
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by sasakitosio | 2015-09-30 06:44 | 東京新聞を読んで | Trackback