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by sasakitosio

自然は許しているのか

 9月27日付東京新聞朝刊4面に、「時代を読む」という欄がある。筆者は哲学者・内山節氏だ。
 きょうはこの筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「私の暮らす群馬県上野村は移住者の多い土地である。今では人口のおよそ2割が都市から移り住んでいる。
 せっかく来てくれたのだから、この村で暮らしつづけてほしいというのが村人の願いだ。しかし再び村から離れる人も多少生まれる。最近では親の介護のため実家に戻るという人がいるようになった。村になじめず去っていく人も多少はいる。そんなとき村の年寄りたちはこんなふうに言う。
 「この村で暮らし続けることができるかどうかは、人間が決めることではない。村の大地が決めるのだ。大地が暮らすことを許した人が、この村で暮らしつづけることができる」
 大地は自然と言い換えても構わないし、昔流に自然の神々、土地の神様と言っても構わない。
 もちろん、そんなことが本当にあるかと質問されたら答えようもないが、村の人たちは自分たちもまた村の自然に許してもらって、ここに住んでいると感じてきたのである。」ときりだした。
 つづけて筆者は、「こんな視点からのべれば、戦前の日本統治の朝鮮統治は、朝鮮の自然が許さなかったということになる。だから日本はそれを放棄しなければならなかった。自然が許さないものは定着できない。
 日本による満州国の建設も、中国への侵略も中国の自然は許さなかった。
 そればかりか明治以降の軍国主義の時代も、自然は許さなかったということになる。自然が許さないものはいつかは壊れる。それが上野村の年寄りたちの発想である。
 勿論この考え方の正しさを立証することはできないし、真実かどうかをめぐって理論できる話でもない。しかしそれが自然とともに生きてきた人たちの発想だった。自然は人間よりも力があると思いながら暮らしてきた人々の考え方なのである。」と指摘した。
 さらに筆者は、「現代の人間たちは、人間中心主義の発想に陥りやすい。そして人間の利益だけでものごとを考えるようになると、最後は自分の考える人間の利益に固執してしまう。 それは多くの場合対立を生む。それより上野村の年寄りたちのように、自然が許すかどうかを考えながら生きている人達たちの方が高尚だ。沖縄・辺野古の海を埋め立て米軍基地をつくることを、沖縄の自然は許しているのだろうか。
 実質的な改憲である安保法制を自然は許しているのか。
 軍事力を増強して威嚇し合う現代世界のありかたを、自然は喜んでいるのか。
 原発再稼働を、自然は許可しているのだろうか。
 こんな発想で考えてみるのもいいだろう。少なくとも「最後には私が決める」などといっている首相よりはずっとましだ。近年亡くなった世界的な文化人類学者であるレヴィ・ストロースは、自然に包まれた思考を失った時、人間は自分自身を破壊するようになったと述べていた。とすると上野村の年寄りたちの発想は、大事な視点を持っていることになる。」と教えてくれる。
 最後に筆者は、「そして、もしも自然が許さないのなら、現在の政治の動きも最終的にはどこかで壊されるということだ。自然が求める平和へと着地しないかぎり、持続する政策は形成できないだろう。
 とすると安保法制が国会で可決されたからと言って終わりではないはずである。自然は許さないと私は本気で思っている。」として締めくくった。
 読んで勉強になった。
 「自然が許さないものはいつかは壊れる。」との「上野村の年寄りたちの発想」に、共鳴する。
 では、自然が許さないものは、なんだろう。
 私はいつからか、自分を「地球の居候」だなと思うようになった。地球が許す限り、この世に生き続けようと考えている。自然を地球に置きかえると、地球の破壊につながる「行動」は許されないのではないか。最大の破壊である「戦争」は、自然が絶対的に許さない「人間の行為」であり、戦争につながる「所業」もやはり自然が許さない「出来事」ではないだろうか。
 そう考えると、戦争法案も、賛成した議員も、進めた政府自民党公明党も、自然は許さないので、遠からず壊れる運命にあると思った。
 
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by sasakitosio | 2015-09-29 06:41 | 東京新聞を読んで | Trackback