発言しない経済学者
2015年 09月 14日
今日は、この筆者に学ぶことにした。
まず筆者は、「企業の犯罪や組織的病理はありふれた現象なのに経済学者はほとんど発言しない。
1970年、保守派経済学の重鎮が「ビジネスの社会的責任は利潤増大にある」と題する論説を米国紙に寄稿した。個人の自発的協力からなる市場経済は強制とは無縁で、株主の代理人の企業経営者は利潤追求に専念すべきだという主張だ。
これが後に米国流の株価至上主義とバブル経済につながる。」と指摘した。
つづけて筆者は、「これに飽き足らない向きが、情報・契約・交渉といった斬新な道具立てで80年代に日本的経営を持ち上げてみせた。経営者が株主・従業員・取引先等の利害関係を調整する優れた仕組みであるという。基本的な発想は力の均衡という物理学からの借り物だ。流行の「制度進化」も生物学から借用したものだ。
だが、私法的関係の契約である雇用に、なぜ懲戒解雇のような公法的制裁があるのか。
なぜ、組織内でパワハラが横行するのか。
市場原理主義や契約と交渉の理論では、こんなことさえ説明できない。」と指摘した。
最後に筆者は、「日本的経営の負の側面はどうか。従業員の好待遇と企業への忠誠を贈与交換した昔の日本的経営は、企業への忠誠心だけを強要するブラック企業へどう「進化」したのか。
借り物の理論が破綻した後で、経済学者が最後に頼るのが実態不明の「起業家精神」ということになる。」として締めくくった。
読んで、勉強になった。
「株主の代理人の企業経営者は利潤追求に専念すべき」という主張は、後に米国流株価至上主義とバブル経済につながる」との指摘は、今の日本そのものような気がした。
また、「私的関係の契約である雇用に、なぜ懲戒解雇のような公的制裁があるのか。なぜ組織内でパワハラが横行するのか。市場原理主義や契約と交渉の理論では、こんなことさえ説明できない」との指摘は、なるほどと納得。
会社の社会的責任は、社会の需要に応え、従業員の生活を支えることにある。経営者が利潤追求するのは、それがあればこそ社会的に評価されるのではないだろうか。