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by sasakitosio

政治歴史経済学にむけて「21世紀資本」学習ノート(18)

 今日は、おわりにの内、「政治歴史経済学にむけて」を学習することにした。
 筆者は、「最後に、経済学と社会科学についても一言述べておきたい。「はじめに」ではっきり述べた通り、私は経済学が社会科学の下位分野だと思っており、歴史学、社会学、人類学、政治学と並ぶものと考えている。それがどういうことか、読者が本書を読んで理解していただけたと期待するものだ。私は「経済科学」という」表現が嫌いだ。この表現はとんでもなく傲慢に聞こえる。経済学が他の社会科学に比べてもっと高い地位を実現したかのような含みがあるからだ。私は「政治経済学」という言い方のほうがずっと気に入っている。これはいささか古風に聞こえる構知れないが、でも私にとっては経済学を他の政治科学から区別する、唯一の点を伝えるものなのだ。その点とは、それが待つ政治的、規範的で、道徳的な目的だ。
 誕生のときからずっと、政治経済学は科学的に、あるいは少なくとも合理的に、系統的に、一貫性を持って、経済的、社会的なまとまりにおける国家の理想的な役割を研究しようとするものだった。そこで問われた問題とは次のようなものだった。
 どんな公共政策や制度が私たちを理想社会に近づけてくれるのか?
 どんな市民でも一家言を持っている善と悪について研究しようという慎み知らずの野心を見て、笑ってしまう読者もいるだろう。
 たしかに、この野心はしばしば実現されないままだ。
 でもそれは、必要であり、本当に不可欠な目標でもある。
 というのも社会科学者たちにとっては、公共論争から引っ込んで政治的対決を避け、他人の見解やデータに対する評論家や脱構築屋の役割だけに安住してしまうというのはあまりにも安易だからだ。
 社会科学者たちは、あらゆる知識人、あらゆる市民と同様に、公共論争に参加すべきなのだ。正義だの民主主義だの世界平和だの、壮大ながら抽象的な原則を持ち出すだけで事足れりとしてはならない。自分で選択をおこない、具体的な制度や政策について何らかの立場をとらねばならない。それが社会国家であれ、税制であれ、公的債務であれ。万人は独自のやり方で政治的だ。
 世界は、政治的エリートと、(4.5年に一度投票用紙を投票箱に入れるだけの責任しかない)評論家や野次馬の軍団とに二分されるわけではないのだ。学者と市民が別々の道徳宇宙に住んでいて、前者は手法を考え、後者は目標を考えるというのは幻想だと私は信じている。気持ちは分かるのだが、それでもこの見方は最終的には危険な発想ではないだろうか。
 あまりに長きにわたり、経済学者たちは自分たちを、その科学的と称する手法で定義づけようとしてきた。実はこうした手法は、数学モデルの過剰な使い過ぎに依存したものでしかない。過剰な数式モデルはしばしば、単なる埋め草であり、内容の空疎さを隠す口実でしかなかった。あまりに多くのエネルギーが、これまでも今でも、純粋に理論的な考察に無駄遣いされ、そこで経済学者が説明しようとしているけいざいてきな事実認識も明確でないし、解決しようとしている社会問題や政治問題の実情すら明確にされていない。今日の経済学者たちは、対照実験に基づく実証手法にえらく夢中だ。適度に使うなら、こうした手法は有益なこともあるし、一部の経済学者の目に具体的な問題と、その分野の直接的な知見に向けたという点(こうした展開はすでに遅すぎるくらいだ)では賛美すべきものだ。でもこうした新しいアプローチ自体も、ときにある種の科学性の幻想にしがみついてしまう。たとえば純粋かつ本物の因果関係の存在を証明するのに多大な手間暇をかけつつ、その問題がそれほど興味深いものではないことを忘れてしまうことだってあり得る。
 新手法はしばしば歴史の無視につながり、歴史的な経験こそが今でも主要な知識の源泉なのだという事実も見失わせてしまう。第一次世界大戦がまったく起らなかったことにしても20世紀の歴史を繰り返すことはできないし、所得税とペイゴー方式年金が創られななかったことにして歴史を再現することもできない。たしかに歴史的な因果性は常に、まったく疑問の余地なく証明するのはむずかしい。ある政策がこれこれの効果を待っていたか、本当に確信できるだろうか。それともそこに何か別の因果関係が作用した可能性はあるのか?それでも、歴史から導ける不完全な教訓、特に20世紀を観察して得られる教訓は、計り知れない比類なき価値をもつものであり、どんな対象実験をしてみても決してそれにかなうはずもない。経済学者たちが役に立とうと思えば、まず自分の手法的な選択においてもっと現実主義的になり、手持ちのあらゆるツールを活用して、他の社会科学の分野ともっと密接に強力することを学ばければならない。
 逆に、他の分野にいる社会学者たちは、経済的な事実の研究を経済学者たちに委ねたままではいけないし、数字が出てきただけで震えあがって逃げ出したり、あらゆる統計など社会的構築物でしかないなどというだけで満足したりするようではだめだ。もちろん社会構築物だというのは事実であるが、それでは不十分なのだ。逃げるのも社会構築物だと言うのも、根っこでは同じでしかない。それはその分野を他人に明け渡すということだからだ。」と教えてくれる。
 読んで、勉強になった。 
 筆者は、「誕生の時からずっと、政治経済学は科学的に、あるいは少なくとも合理的に、系統的に、一貫性を持って、経済的、社会的なまとまりにおける国家の理想的な役割を研究しようとするものだった。」、
 また筆者は、「社会科学者たちは、あらゆる知識人や脱構築屋と同様に公共論争に参加すべきなのだ。」、
 「自分で選択を行い、具体的な制度や政策について何らかの立場を採らなければならない。それが社会国家であれ、税制であれ、公的債務であれ。」、等々とも教えてくれる。
by sasakitosio | 2015-08-25 19:56 | 「21世紀の資本」学習ノート | Trackback