憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

「政治=選挙」ですか?

 5月22日付朝日新聞社説下に、「社説 余滴」という欄がある。筆者は・政治社説担当・高橋純子氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。一見、「「政治=選挙」ですか?」の見出しが刺激的だった。
 まず筆者は、「清く正しく美しく。「なんてったってアイドル」はかってそう歌ったが、こと選挙に関しては社説も、清く正しいある種の「型」にはまることを余儀なくされる。
 民主主義を基礎づける大切な一票。
 投票しましょうーーーーーーー。
 大事なことは何度でも書かねば。
 ただ、下がり続ける投票率と、それにもかかわらず「選挙に勝ったわれわれこそ民意だ」とばかりに独善的に振る舞う政治家と向き合う時、この国の代表民主主義は「型」の中で窒息死かかっているのではないか、との思いも抱く。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「そんな現状に、タノマレモセズホメラレモセズ、裏口からせっせと酸素を送り込んでいるのが、福岡市在住の外山恒一さんだ。2007年の東京都知事選に立候補し、政見放送で「どうせ選挙じゃ何も変わらないだよ!」と言い放ち、世間をギョッとさせたあの人。4月の統一地方選挙期間中は九州各地で「ニセ選挙運動」を展開していた。
 「この度の選挙に立候補していない、とやま、とやまこういちでございます」
 「選挙に出るような非常識な人に政治がまかせられますか?投票用紙を捨てましょう。破る。燃やす。切り刻む。誰も投票に行かなければ、一人も当選いたしません。」
 ニセ選挙カーからの訴え。賛同はしない。でもなるほどね。
 固まっていた思考に風が吹き抜ける。「外山語」に翻訳すれば、先の衆院選は危険率47%、さらに投票用紙を切り刻んでいるイメージを棄権という行為にかぶせると、おお、なかなかタイヘンなことが起きているではないか。
 筋金入りの反選挙派。「多数決で決めたら多数派が勝つに決まっている」からだ。なのに「政治=選挙」というカンチガイが広がり、有権者は選挙が終われば傍観者と化し、多数派が政治をいいようにしているーーーたしかに。」と指摘した。
 さらに筆者は、「首相は昨年、消費増税の先送りについて国民の信を問うと衆院を解散した。ところがいま、安保法制の整備も公約だった、それで選挙に勝ったのだから国民の支持を得たと、涼しい顔をしている。
 主権者が、選挙の時だけ姿を現す有権者に留まっていたら、<※個人の感想です>みたいな首相の弁もまかり通ってしまう。政治はある意味、言葉の奪い合い。とりわけ、安倍政権下では。
「レッテル貼りだ」なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。さあ、奪いに行きましょう。堂々と張りにいきましょう。」と締めくくった。
 よんで面白く、考えるヒントを得た気がした。
「どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!」は、今日までの現実だが、沖縄の知事選挙後の知事の「政府を相手に一歩も引かない」戦いぶりは、権力に就く人により、それを支える人々によって、常に新しい「民主主義の明るい未来」が存在することを教えてくれているのではないだろうか? 
 また、「誰も投票に行かなければ、一人も当選しません」はその通りだが、「選挙で当選させない選挙」は選挙に有効要件(最低得票数)とか、成立要件(投票率70%以上)とか、公職選挙法に加えた方が、より現実的で効果的ではないかと、思った。
 「安保法制の整備も公約だった、それで選挙に勝ったのだから国民の支持を得た」という件については、公約したものは任期中に「絶対やらなければ」ならないし、公約しないものは「絶対やっては」いけない、というような強い認識が、残念ながら候補者も有権者も明確でない現状では、にわかには賛成できない気がするが?
 さらに、多数決は、それが正しいということを全く意味しないということを、国民的に共通の認識にする必要があるように思うが?
 だから、多数決で決めた結果についての責任を、実行する人が責任をとる仕組みが、なければ、多数決は無責任な権力者を増やす道具にとなってしまうのではなかろうか?
 
 
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by sasakitosio | 2015-05-22 17:38 | 朝日新聞を読んで | Trackback