憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

指から漏れる白砂のように

 4月24日付朝日新聞社説下に、「社説 余滴」という欄だある。筆者は、政治社説担当・惠村順一郎氏だ。
 今日は、この筆者に学ぶことにした。
 まず筆者は、「目に映る話は大きくないかもしれない。けれど、その底流にこそ目を凝らしたい。
 自民党がテレビ朝日とNHKの幹部を呼び出したこと。
 福島瑞穂参院議員の「戦争法案」との国会発言に、自民党が修整を求めたこと。
 7年前、89歳で亡くなった評論家、加藤周一の言葉を思い出す。
 ―――2.26事件以後真珠湾までの東京。日常の生活に大きな変化はなかった。衣食は足り、電車は動き、六大学のリーグ戦もあった。
 「その背景の見えないところで、どういう圧力や取引や「自己規制」が言論機関に作用していたかは、当時のわたしには知る由もなかった。しかし、報道機関の表面に現れた変化、一見穏やかな、なしくずしの変化に、特定の方向にあることだけは、私にも見誤りようがなかった。」と教えてくれる
 つづけて筆者は、「もちろん戦前と今は違う。
 大日本帝国憲法が「法律の範囲内」でしか認めなかった言論の自由は今、日本国憲法によって保障されている。
 戦前の宣伝に加担した戦時の放送への反省から、「放送の自律」を保障した放送法もある。
 ただ私たちの言論の自由は、私たち自身が勝ち得たとばかりは言えない。
 「戦後の革命的な空気の中で、上から与えられたもので、水が海綿をつたってゆくように下からのぼっていったものとはいい難い」
 1956年、当時の朝日新聞論説主幹、笠信太郎が記した言葉だ。
 私たちの言論の自由に命を与えるには、報道機関も、政治権力も、最新の注意とたゆまぬ努力が欠かせない。
 報道機関に求められるものは圧力に屈せず、事実に厳密な姿勢を貫くことだ。
 権力に求められることは「放送の自律」を踏み越えない自制であり、福島氏の発言について言えば異なる意見を尊重する態度だ。
 そして一人一人の国民には、報道機関と権力を厳しく見張っていただきたい。」と指摘した。
 最後に筆者は、「異論や批判を排除せず、むしろ敬意を示す。そんな多様性ある社会こそが、健全な民主主義を育むことができる。
 「真珠湾まで」を振り返る加藤の言葉に帰りたい。
 「言論の自由は、そしてあらゆる批判精神は、指の間から白砂のように、静かに、音もなく、しかし確実に、失われつつあったのである。その結果がどこへ行き着いたかは、言うまでもない」」と締めくくった。
 読んで、勉強になった。誰の持ち歌で、誰の作詞だったか、「時の流れに身を任せ」、という演歌の歌詞をふと思い出した。
 その「時の流れは」、「時の空気」のように、結果的には「国家権力側の人々が方向」をつくり 、「報道機関」が広め、「有識者も普通の国民も」それらを疑うことなく受け入れて、生まれてくる「地球上の時の流れ・歴史」のような気がしている。厄介なのは、特定の誰かが特に悪い、特に責任を取らなければならない、と決めつけることが難しい事のような気がする。
 昨年10月11日付朝日新聞社説下の「ザ・コラム」(駒野剛・編集員)の中で、「・・戦後、緒方は、「あの時あなたのいうとおりにしておったならば、ああはならなかった」と湛山に悔んで見せたという。」・「緒方は「主筆とか編集長が自ら潔しとする意味で、何か一文を草して投げ出すか、辞めるといいことは、痛快だが、大所帯では「そういうこともできない」と会社の存続に重きを置いた。東洋経済の従業員が324人、あさひは5587人だった。」と、知った。その延長線上に、いまの朝日新聞がある。経営者の処し方として、だれも緒方を責めることはできないような気がする。
 それらの歴史を知り、現在の日本国憲法のもとで、報道機関は、政府見解をコメントもなく垂れ流していないか?
 国民は主権者として、マスコミによる報道の「背景」を常に想像し、ネットを使って「個人情報」を発信し、共鳴者の創造・拡大に強め、権力や報道機関の「誘導灯・ガードレール」になることが、「現代における日本国憲法」が期待する国民主権・民主主義の社会ではないだろうか?
 
 
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by sasakitosio | 2015-04-25 08:08 | 朝日新聞を読んで | Trackback