憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

第三の敗戦

 11月8日付東京新聞朝刊17面に、「生きる」という署名入りの記事がある。筆者は、文化人類学者・東京工業大リベラルアーツセンター教授の上田紀行氏だ。今日はこの記事に学ぶことにした。

 記事の中味が気になる見出しで、「第三の敗戦」「使い捨てと保身、「支え」なくした社会」とあった。

 まず筆者は、「「日本は第三の敗戦を迎えている」。私がそのことを痛感したのは2006年のことだった。

 世間では「使い捨て」と言う言葉がはやっていた。そして小泉純一郎首相は当選した小泉チルドレンに向かって、「政治家だって使い捨てにされることを覚悟せよ」と訓示した。

落選すれば議員は使い捨てだ、だからガンバレと言う発言だったが、「政治家だって使い捨て」の発言の裏には、国民の多くが使い捨てにされている現実の追認がある。そのことばに大きな憤りを感じざるを得なかった。

 しかしその発言直後に行われた世論調査で、まさに「使い捨て」状態に置かれている非正規雇用の若者たち、ワーキングプアと言われる貧しい若年層の間の小泉首相の支持率が急騰したと聞かされた。

 「全てのことが使い捨てだと正しいことを言ってくれた。われわれだけが使い捨てじゃないんだ」と言うわけだ。

 しかしそこは「政府は何でわれわれを使い捨て状態に放置しているんだ!」と支持率が下がるべきところではないのか、私は愕然とした。

 わたしは教壇に立つ東京工業大学のクラスで20歳前後の大学生200人に「人間は使い捨てか?」と聞いてみた。

 何と半数の学生が「使い捨てだ」に手を挙げた。私はとてつもなく悲しくなった。20歳の若者にこんな答えをさせてしまう社会は根本的に間違っているのではないか? 

 わたしはこれはもう「第三の敗戦」なのではないかと思った。」と切り出した。

 つづけて筆者は、「第二次世界大戦の軍事的敗北が第一の敗戦である。しかし私たちは忍耐強く復興を成しとげ、1980年代後半には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と経済的勝利に酔いしれた。しかし90年代初頭のバブル崩壊は一転して経済的敗戦という第二の敗戦をもたらした。

 それに続く第三の敗戦。それは安心と信頼の敗戦である。

 支えの喪失といってもいい。

 わたしの身に何があっても社会は助けてくれない。すべては自己責任とされ、失敗した人間は見捨てられ、使い捨てとなる。そんな社会は社会と呼べるか。それは焼け野原の風景ではないのか。そう思えたのである。

 それはもちろん若者たちの責任ではない。彼らが物心ついてから20歳になるまで、どんな日本社会を見せられて育ってきたのか。それは私たち年長世代の問題だ。リストラされて絶望しても誰も助けない。経済効率で生身の人を評価し、もうけの少ない人間はいなくなったほうがいいといわんばかりの社会を若者たちに見せつけてきたのは私たちなのだ。」と反省している。

 さらに筆者は、「しかしさらに大きな驚きが私を待っていた。彼ら学生に社会正義と内部告発について講義したときのことだ。

 「あなたが就職して派遣された東南アジアの工場は有毒な廃液を流して、下流では住民が病気になり、死者も出ている。あなたは工場長にかけあったが、事実を隠ぺいすることを求められた。あなたならどうするか?」という問いに対して200人はどう答えたか?

 一、「自分の名前を出して内部告発する」が3人。

 二、「匿名で情報をリークする」が15人。

 三、「何もしない」が180人いた。

 その結果に私が「君たち、自分の工場のおかげで人がしんでいるんだよ!」と問うても、大多数の学生たちは隣同士で顔を見合わせて「何もするわけないよな」とうなづきあうのだった。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「自分の勤めている企業の垂れ流す毒物で関係のない人が死んでいても、自分はそれを止めようとしない。

 そんな若者を育ててしまう教育を教育と呼んでいいものか。

 そして社会正義の滅んだそんな国に対し誇りを持つことができるのか。

 わたしはその時誓った。私が退職する時には、人間を使い捨てと思う若者、他人の苦しみより自分の保身を選ぶ若者をなくそうと。

 使い捨てと保身、それは表裏一体のものだ。いちど使い捨てになってしまえばすべてが自己責任とされ誰も助けてくれない。そんな社会では誰もが利己的な保身に走る。

 社会に「支え」がなくなった時、正義もまた滅びる。

 第三の敗戦からの復興が私のテーマになった。」と締めくくった。

 読んで、刺激になった。

 筆者は、「第二次世界大戦の軍事的敗戦が第一の敗戦」、「90年代初頭のバブルの崩壊は一転して経済的敗戦という第二の敗戦」、「それに続く第三の敗戦、それは安心と信頼の敗戦」としているのは、興味深い。

 筆者は、「私が退職する時までには、人間を使い捨てと思う若者、他人の苦しみより自分の保身を選ぶ若者をなくそうと」誓ったとのこと、教育者として素晴らし心がげだと思った。

 そして、第三の敗戦からの復興が筆者のテーマになったとのことである。筆者は読者より、15歳も若い。一日も早い、第三の敗戦からの復興を期待したい。

 筆者の指摘と決意を肯定しながら、いくつか考えた。

 日本国憲法の下で、生活している我々は、少なくとも、日本国憲法の「支え」があることを自覚した上で、憲法を擁護する必要があるような気がした。

 また、日本国憲法やその具体化である各種法律(生活保護法、社会保険関係法、労働関係法等)で守られていることを自覚した上で、日常の社会生活関係での人間関係の希薄化・支え合いの弱化について考えたいと思った。

 さらに、電子機器の普及で、人間同士の直接対話や触れあいが、極端に少なくなっていくことが気にかかっている。

 そして、最近気がついたのだが、筆者の指摘した「第一の敗戦」でも、「第二の敗戦」でも、もちろん「第三の敗戦」でも、日本の指導者で「みんな私が悪いのです」と言って、責任をとった人を、寡聞にして知らない。

 いわゆる歴代の日本の指導者に「国家の運命の岐路に立って、自分が決断した」という自覚が皆無なのではないか?

 他人・国民に自己責任を言う指導者は、自己責任を自覚していない「指導者」なのではないか?

 そんな指導者で、国家が持続できたことは、国民にとって幸運だったということか?

 


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by sasakitosio | 2014-11-12 17:30 | 東京新聞を読んで | Trackback