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by sasakitosio

「死の鉄道」 歴史を訪ね始めた人々

11月2日付朝日新聞朝刊社説下に、「風」という署名入りの囲み記事がある。筆者は、アジア総局長・大野良祐氏だ。今日は、この記事に学ぶことにした。

 まず筆者は、「緑の芝生に整然と並ぶ幾列もの墓碑、英、豪、オランダなどの兵士約7千人が眠る。

 タイ西部、ミャンマー(旧ビルマ)国境カンチャナブリの連合軍共同墓地である。

 第二次大戦中、日本軍がビルマの補給路として密林を開き、山を削って1年余の突貫工事で敷いた泰緬鉄道は「死の鉄道」と呼ばれた。過酷な労働、疫病など6万人の捕虜のうち1万3千人が死亡した。映画「戦場にかける橋」の舞台だ。

 だが、アジア人労働者の存在は顧みられずにきた。英領マラヤ、ジャワ、ビルマ・・・その動員数は27万人とされるが、最近の研究にはそれを上回る可能性を指摘するものもある。正確な死者数はわからない。労働者の大半は読み書きができず、記録も乏しい。

 その「忘れられた歴史」に光を当てたい。そんな動きがあることを最近知った。」と切り出した。

 つづけて筆者は、「セカランさん(54)はインド系マレーシア人。英領マラヤのゴム農園などにいた南インド・タミル人労働者の多くが鉄道建設に駆り出された。彼はその子孫である。

 父のボンヌサミさん(故人)が鉄道補助員としてタイに行ったと知ったのは学生時代。愛煙家の父に「お前は吸うなよ」と注意された。「でもお父さんは吸っている」と反論すると、父は「一度吸うとやめられないものさ」と、いきさつを話し始めた。

 泰緬鉄道では、働けなくなった者は死を待つだけだった。絶望した労働者がある夜、資材用線路に首を載せて横たわった。知らずに列車を動かした父は妙な音を聞き、線路に降りて轢断死体を見た。罪の意識に苦しんでいた時、日本兵がたばこをくれた。断ればまた殴られると思って吸うと、つかの間、心の痛みから逃れられた。

 関心を持ったセカランさんにタイを訪れる余裕ができたのは2年前だ。しかし、落胆の旅だった。祖先の膨大な犠牲の記述がない。日本軍が1944年に建てた慰霊塔に「病を得て倒れたる南方各国労務者・・」と刻まれ、敷地内にタミル語の小さな碑文があっただけだ。「これでは歴史から消えてしまう」。資料収集など本格的に始めた。」と教えてくれる。

 さらに筆者は、「インド系シンガポール人の保険会社員、ラジシャンカルさん(39)らも動き出した。労働者の子孫ではないが同胞の歴史に衝撃を受け、生存者たちの証言を集めた記録映画「Sian Burma Death Railway」を今年完成させた。

 生存者の高齢化が進む。

 クアラルンプールのポナムパランさん(80)は8歳の時、父とタイに連れて行かれた。労働者は建設現場まで何日間も密林を歩かされた。3日ほどすると、道の両側に転がる死体がみるみる増えていった。弱って歩けなくなった者がいても日本兵は助けることを許さなかったという。それが父であっても、兄であっても。そう話して、ボナムパランさんは泣き崩れた。」と教えてくれる。

 最後に筆者は、「英国人のデビット・ボゲット京都精華大学名誉教授(アジア地域研究)は「アジア人労働者に光を当てれば、連合軍捕虜が苦しんだ死の鉄道という物語は筋書きが変わるかも知れない。しかし、正しいストーリーを残すことの方が大切です」と話す。

 10月で鉄道完成から71年が経った。植民地からの独立や経済発展を経て、東南アジアの人びとが自らの歴史を訪ねる時代が来たとも言えるだろう。」と締めくくった。

 読んで初めて、泰緬鉄道のことを知った。現地に立ち自分の目で見てみたくなった。30年も前のことであるが、敗戦後シベリヤに抑留され亡くなった人々の墓が、ハバロスク、ウランウデにあり、シベリア観光団を組んで行った時、覚えたての般若心経を唱えてお参りをしてきたことを、思い出した。日本軍が捕虜を過酷な労働で死に追いやったことを知ってショックでもあった。捕虜の墓は、戦争が、人間を気狂いにすることの証しのような気がした。改めて、戦争は絶対してはいけないことなのだと思った。


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by sasakitosio | 2014-11-08 07:05 | 朝日新聞を読んで | Trackback