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by sasakitosio

違和感の残る慰安婦論争

 9月21日付東京新聞朝刊4面に、「時代を読む」という署名入りの囲み記事がある。筆者は、「ソウル大学国際大学院教授・パクチョルヒ氏だ。今日はこの記事に学ぶことにした。
 筆者は、「日本において、慰安婦をめぐる論争は収束に向かうどころかいっそう激しさを増している。河野談話検証に続く朝日新聞による記事修正が火に油を注いだようだ。」と指摘した。
 つづけて筆者は、「慰安婦論争を注視していると、違和感の残る論点が多くある。
 まず、強制性。
 日本の「右より」の見解は、慰安婦動員の際、それに直接かかわったのは民間業者で、官憲や警察などの国家権力による物理的強制はなかったという点に絞られる。
 しかし、当時の帝国・植民地という構造的強制性を考慮する必要がある。たとえ物理的な力の行使がなかったにせよ、憲兵や巡査といった存在は恐怖の対象であったし、慰安所の設置、慰安婦の輸送と運用に当時の日本軍が深く関与したことは否定しがたい。私自身が幼少の1960年代後半ごろまでも、子供が泣くと「巡査が来るよ」と泣きやませたのを記憶している。それほど植民地時代の官憲に対する恐怖心は韓国社会に深く根付いていた。
 次に、自発性。
 慰安婦が金銭目的で自発的に働いたという主張は、当時の時代認識とはづれがある見解ではないか。お金を稼ぐという労働目的で業者の誘いに応じた女性がいても、それが慰安所における「労働」であると知らされず、実際の現場でも慰安婦として自らが「ノー」と言える状況であったのか、また現実を知った上でも「仕事」の場から離れる自由があったかは非常に疑わしい。総じて「自分の意思に反して」慰安婦になった彼女らの悲壮な経験に、多くの人が同情し、また慰安婦の人権尊重と名誉の回復が求められる理由もそこにある。
 そして、不作為。
 この論争にあってもっとも惜しまれるのは、日韓両国政府が問題可決に向けた取り組みを90年代から誠実に行ってきたにもかかわらず、その点を誰も評価しないことである。
 日本政府による河野・村山談話を通じた痛切な反省の表明とそれに基づくアジア女性基金の設立は、人道的補償の可能性を探るうえで評価すべき試みであった。
 韓国政府も、道徳的優位をもって日本の直接支援に頼らず、慰安婦被害者の生活保障を国の政策として実行してきた。
 一方、昨今の議論では両政府によるこれまでの対応をないがしろにするような主張だけが目立つようになっている。
 これらはこの問題の解決のために尽力した両政府関係者やその支持者に対する不遜ではないかと思う。
 最後に、客観性。
 国際社会に対して、日本軍だけが慰安婦制度を導入したのではないと主張することは、果たして問題の本質に迫った議論であろうか。世界のどの国であれ、戦時中軍隊のために女性を強制的環境へ動員したという事実は弁護できないことであろう。国際社会が慰安婦問題に関心を寄せるのは、韓国が日本を激しく糾弾しているからではない。この問題の本質が「女性の人権」という普遍的な価値の追求にあるからだ。」と教えてくれる。
 最後に筆者は、「慰安婦問題は日韓関係改善のためには避けて通れない。また女性の人権問題として国際化していることを踏まえると、今後さらに普遍的角度からのアプローチが必要となってくる。
 互いに相手に対する中傷に終始することを避け、未来に傷痕を残さないという寛容と抱擁の精神を基に、これまでの相互の努力を尊重しながら円満な解決策を導き出す努力が求められる。」と結んだ。
 読んで、慰安婦問題の本質が、「女性の人権問題」であることがわかった、また、「強制性」、「自発性」、「不作為」、「客観性」の論点につても、筆者の指摘で理解が深まった。
 何よりも「互いに相手に対する中傷に終始することを避け、未来に傷跡を残さないという寛容と包容の精神を基に、これまでの相互の努力を尊重しながら円満な解決を導き出す努力が求められる」との指摘は、大いに共感できた。
 双方に、包容力のある・おおきな人間が指導者・権力者が、今はいないということか?
 ただ、「韓国政府も、道徳的優位をもって日本の直接支援に頼らず、・・・」の文脈が理解できないもどかしさが残った。
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by sasakitosio | 2014-09-26 07:48 | 東京新聞を読んで | Trackback