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by sasakitosio

国民が納得する再捜査を 福島第一原発事故

 9月6日付朝日新聞朝刊13面に、「私の視点」という署名入りの囲み記事がある。筆者は、元京都地検検事正・元内閣法制局参事官の古川元晴氏だ。
 今日はこの記事に学ぶことにした。
 筆者は、「福島第一原発の事故をめぐり、検察審査会は7月末、検察が不起訴処分にした東京電力の勝俣恒久元会長ら元幹部4人について、業務上過失致死傷罪による起訴を相当、あるいは不起訴を不当とする議決をした。もっとも本質的な論点は、東電が事故前に津波による全電源喪失及び過酷事故の発生を予測し、回避措置をとるべきだった、という点である。
 事故前に予測されていた津波の高さは、①土木学会の指針を受けて東電が想定した5.7メートル②政府の地震調査研究推進本部の予測に基づき東電が試算した15.7メートルの二つがあった。
 しかし東電は②は不確実なもので「想定外だった」と主張。検察が不起訴処分にしたのも、過失については具体的、確実な予測が可能でなければならず、刑事責任は問えないと判断したからだ。」と教えてくれる。
 つづけて筆者は、「原発は一度事故が起きると被害は甚大で、その影響は極めて長期に及ぶ。事業者に「万が一にも過酷事故を起こさないように万全(最善)の処置を講じる」という高度な注意義務が課されていたことは、誰もが当然と認識していたであろう。確実でなくとも、少なくとも科学的、合理的な根拠よって「万が一」の可能性が予測される場合には、回避義務を講じておくのが自明の理ではないのか。
 検察審査会もこうした考え方に立ち、東電の「想定外」という主張について、「一般常識からもずれているといわざるを得ない」と指摘している。この指摘は、そっくり検察の不起訴処分にも向けられているといえる。」と指摘した。
 さらに筆者は、「過失の罪を問う場合、刑法学には、「具体的予見可能性説」と「危惧感説」という二つの考え方がある。
 前者は危険を具体的に、確実に予測できることを必要とし、後者は高度の注意義務が課せられている事業者については、不確実であっても合理的・科学的に危険が危惧される場合で罪に問えるとする。
 危惧感説は、1956年森永ヒ素ミルク事件や68年発覚のカネミ油症事件の裁判でも採用されたが、福島第一原発の事故について、検察は具体的予見可能性説に基づき不起訴処分にした。しかし、「絶対安全」を標榜し、国策として推進された原発が起こした被害を、想定外を理由に不問に付すのは疑問があまりにも多い。今回こそ危惧感説を採用する方が国民の常識にかなうのではないか。」と指摘する。
 最後に筆者は、「検察の正義は、条理(物事の道理、筋道)すなわち国民の一般常識から乖離してはあり得ない。
 検察は今後、検察審査会の議決と同様に危惧感説の考え方を採って、真に国民の納得が得られる再審査と処分をするべきである。」と結んだ。
 このコラムを読んで、気持ちがすっきりした。しかも、根底にしっかりした論拠が示されていることに、感心した。
 ①過失を問う場合、刑事法学には「具体的予見可能性説」「危惧感説」があること。
 ②後者は高度の注意義務が課せられている事業者については、不確実であっても合理的・科学的に危険が危惧される程度で罪に問えるとする。
 ③危惧感説は、1955年に起きた森永ヒ素ミルク事件や68年発覚のカネミ油症事件の裁判でも採用された。
 筆者からは①~③の新しい知識を得た。
 そして、福島第一原発事故の責任は、刑事だけでなく、民事でも、東電幹部も、経産省も、政治家も、誰も責任をとろうとしない指導者達にあきれていた。責任は、人に言われて取りものではない、自分から自発的にとるものだと思っています。そのとり方で、その人の器量が決まるものだと思っていた。
 どこにおいても、指導者たる者、自己の権限と、権限の影響力を考え、周囲の人たちがそれほどまでも感じなくていいよ、と思う程度の誠意を見せなければいけないのではないか。
 いまだに、指導者の中から、福島第一原発事故に対する「自己の責任」をとる人がいない以上、「危惧感説」を使って、刑事・民亊の責任を追及しなければならない、と思った。
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by sasakitosio | 2014-09-09 18:29 | 朝日新聞を読んで | Trackback