憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

「市民感覚」とは何か

 8月24日付東京新聞社説に、「「市民感覚」とは何か」と言う見出しで、広い意味で民主主義・国民主権のことが載った。
 今日はこの社説を学習することにした。
 社説は、「時々新聞の記事に登場する「市民感覚」と言う言葉は、裁判員裁判の始まるころ、よく聞いたものです。
司法に市民感覚を反映させようという改革でした。
 小さなようで大きい成果はすぐに現われました。女性に対する暴行事件の裁判がそれまでいかに被害者に配慮なく行われ、また軽い罰で裁かれていたか。それを教えてくれたのです。
 言い換えれば、それまでの裁判が社会の常識に反していたということです。言葉を強めれば、不公正。さらにいうならば、司法権力は自らを省みることなく、そのゆえに社会とずれたままだったということです。
 最近も、「市民感覚」という言葉を聞きました。先月末、福島原発事故に対する東京第五検察審査会の判断の出たときでした。
 検察審査会は、検察官の独占的な起訴権限に対し、市民の側から再審査できる制度です。
 東京第五検察審査会は、東京電力の元会長ら三人に対して、11人中8人以上の多数をもって業務上過失の致傷罪で起訴すべきだと議決した。市民側の明確な反論と言い得るでしょう。
 検察の不起訴判断を不服とし、審査を申し出た側からは「市民の常識にかなった」とか「市民の正義感に合う」という声がいくつも聞かれた。
 対して法律家たちからは、危険を放置したとまではいえない、とか、会社ではなく個人の責任は問いにくい、などと不起訴支持論も出ました。」と教えてくれる。
 つづけて社説は、「議決理由をいま一度振り返ってみよう。
 まず大津波を予見できたのか。
 検察は、「東電は具体的には予測できなかった」と判断したが、検察審査会は「(可能性の一つして)東電は津波の高さ15.7メートルを試算していた」ことに着目。具体的予測は無理にせよ、危険性は認識していた、というのです。
 次に津波対策は十分だったのか。
 検察は、「規制当局から具体的指摘はなく、ほかの電力会社も対策は取っておらず、直ちに対策工事をしても間に合ったか分からない」などとした。まあ、もっともにも聞こえます。
 しかし、検察審査会は、これを否定しました。電力会社は、原発の重大な危険性をチェルノブイリ事故などに照らしても十分に認識できたのであり「分電盤の移設や防水対策は時間的にも可能だった」と判断。つまり取るべき対策を怠っていたじゃないか、と。
 どちらも理屈が立ちそうですが。
 つまり検察は判例に基づく法の安定性を重視し、検察審査会は東電首脳の無責任ぶりを問うているのですが、そこで市民感覚とは何なのか。
 市民感覚を、社会の常識、英語でコモン・センスと言い直せば、18世紀、独立前のアメリカでベストセラーとなったトーマス・ベイン著「コモン・センス」を思い出される方もいるでしょう
 雑誌編集者だったペインは、英国から独立をためらっているアメリカ人に対し、英国の政治制度は世界的にみても優れているけれど、その実態は国王をいただき、非民選の貴族院が存在し、下院も実は富裕者ばかりが選ばれているではないか。それでは不公平じゃないか、と説いたのです。
 考え方の基本は、万人の自由と平等つまり自然権の思想です。
 思想ばかりでなく、独立しても経済的自立は十分に可能だと具体的にも説きました。慎重に匿名で出版したのですが、当時のアメリカの植民地人口約300万の中で50万部が売れたと言います。平明な文章はペインの力に違いありませんが、広く読まれたのは人間の公平、社会は公正であらねばならないという常識を気付かせたからでしょう。」と教えてくれる。
 最後に社説は、「市民感覚とは、そういう見えない壁を時に打ち破る手段でもあるでしょうう。常に最善かどうかは歴史の判断に委ねるほかはないが、もし市民感覚が多くの賛同を得ながら無視されるようならば、非民主国家と言うほかないでしょう。
 長崎の平和式典で市長は集団的自衛権に触れ、被爆者代表の女性は抑えきれぬ不安を述べました。それらも市民感覚、または市民の常識の表出の一つに違いありません。権力の側がおかしければ、当然ながらおかしいいと言わざるを得ません。
 それが社会の常識をよく保たせるのは、歴史の教えでもあります。」と締めくくった。
 読んで勉強になった。市民感覚と言う、万能包丁のような代物を、裁判員裁判や東京第五検察審査会の例を挙げ、理解を促してもらったような気がした。
 「市民感覚とは、そういう見えない壁を時に打ち破る手段でもあるでしょう」との指摘は、」大変示唆に富んでいると思った。市民感覚は、社会の発展とともに成長・変化する、生き物のような気がした。法治国家の枠も伸縮があるが、それは為政者感覚という「既得権益擁護」に流れがちな点が異なるような気がしてきた。
 行政が強権的、独断的に、憲法解釈を変え、「集団的自衛権の行使容認を閣議決定」したり、国会が、自らの国政調査権を放棄するような「特定秘密保護法」を通したり、ナチスの全権委任法のようなものが世に出たときに、司法が「市民感覚」を根拠に、憲法や法律を解釈し「判例法」で国民の権利を守ることが出来るかもしれないと思った。
 国会や内閣が機能不全に陥ったた時に、司法が「憲法の番人」として「市民感覚」を基に裁きができるかもしれないという気がしてきた。
 
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by sasakitosio | 2014-08-29 06:10 | 東京新聞を読んで | Trackback