憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

ともに生きようとする倫理観

 4月13日付東京新聞朝刊4面に、「時代を読む」という署名入りの囲み記事がある。筆者は、立教大学大学院教授・哲学者・内山節氏だ。今日はこの筆者に学ぶことにした。
 筆者は、「よりよい社会とは何かを定義するなら、それは安心感や信頼感のある社会のことだと思う。もっとも大事なのは平和であり、平和のなかには戦争の可能性がないだけでなく、生命が脅かされない社会であることも含まれている。
 放射能の危険を感じながら生きる社会、環境の悪化や食品の安全性に不安を感じるような社会は、平和な社会とはいえない 。
 安心感のある社会とはこの社会の中に居れば誰もが生きていけるという、信頼感のある社会のことなのである。そのためには、ともに生きようとする倫理観が必要なはずである。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「現在の日本の社会は、この安心感や信頼感を失いつつあるように見える。倫理観のない、すさんだ社会が広がっていると言ってもよい。とすると倫理観とはどこから生まれのであろうか。それは、ともに生きようとする結び合いのなかから芽生えるものであって。国が教えるようなものではない。
 自然とともに生きようとすれば、自然に対する倫理観も芽生えてくるだろう。家族とともに生きようとするときも、友人とともに生きようとするときも、家族や友人に対する倫理観が自然に生まれていくだろう。かっては地域とともに生きようとする都市社会や農村社会があって、ここにもその地域特有の倫理観が存在していた。
 以前の企業にもともに生きようとする雰囲気があって、それがそれぞれの企業の倫理観を醸成していた。もっともそれは、企業人間を生み出すという負の側面ももっていたのだが。」と教えてくれる。
 さらに筆者は、「今日の日本では、ともに生きようとする結び合いが壊れてしまっているのである。だから、社会を支えているはずのさまざまな倫理観も消えて来て、それが信頼感や安心感の無い社会を生み出している。原発被害者とともに生きようとするより、原発再稼働に邁進する社会からは、倫理観など芽生えてくるはずもない。すこし前までは普通に使われていた「弱者の立場に立って考える」と言う言葉さえ、いまでは消えてしまったかのようだ。ともに生きようとする倫理観がなくなってしまえば、個人の論理や組織の論理が社会を引っ掻き回し、他者への配慮をもたない自己主張が横行するようになる。そしてその態度は、国内だけでなく諸外国に対しても向けられるようになる。
 およそ200年前に活躍したドイツの将軍クラウゼビッツは、有名な「戦争論」の中で、戦争は対外的な関係から発生するのではなく、国内的要因によって起こると述べている。
 国内の在り方が、戦争を必要なものにしまうというのである。
 とすると、ともに生きる国内社会をつくろうとしない精神からは、さまざまな国々と一緒に、ともに生きる世界 をつくろうとする精神もまた生まれてこないことになる。」と教えてくれる・
最後に筆者は、「 私たちは、ともに生きる社会を再創造しなければならないのである。今日の弱肉強食のような社会ではなく、誰もが平和な一生を遂げられる安心感のある社会をつくり上げなければならない。そのことが、世界の平和を希求する社会をも生み出すのである。
 自然や他の人びととともに生きようとする様々な営みこそが、倫理観のある社会、平和で安心感や信頼感のある社会をつくる基盤なのだということを、私たちはもう一度想起する必要がある。」と、締めくくった。
 筆者の「倫理観は、ともに生きようとする結び合いの中から芽生えもの」との指摘は、大いに共鳴できた。
また、「自然や他の人びととともに生きようとするさまざまな営みこそが、倫理観のある社会、平和で安心感のある社会をつくる基盤なのだ」との指摘もその通りだと納得した。
筆者の「 誰もが平和な一生を遂げられる安心感のある社会をつくり上げなければならない。そのことが、世界の平和を希求する社会をも生み出すのである。」との考えは、新鮮な感じがした。
 自分的には、還暦を過ぎ、子どもへの学資の仕送りが終え、ローンが完済できたころから、人は、ほとんど他人の「作ったもの」で生きていること、世間のことで知らないことが「ものすごく多い」こと(無知の量の多さ)に気づいた。それからは、周囲に感謝し、ともに今実在している「もろもろ」に興味を感じ、感謝をしている毎日だ。
[PR]
トラックバックURL : http://sasakitosi.exblog.jp/tb/20605676
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by sasakitosio | 2014-04-22 07:27 | 東京新聞を読んで | Trackback