憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

第一次大戦100年

 1月12日付東京新聞朝刊4面に、「時代をよむ」という署名入りの囲み記事がある。今日の筆者は、東大名誉教授・佐々木毅氏だ。
 今日はこの記事に学ぶことにした。
 筆者は、「日本では第一次大戦は欧州での大戦であり、当事者感覚や関心は今一つであるが、20世紀の歴史の動向を決めたのが第一次世界大戦だったことは世界の常識に属する。明治維新のころ西洋列強といえば、米国を別にすれば欧州の国々であり、19世紀は「欧州の世紀」であった。ナポレオン戦争以後、欧州全体を巻き込む戦争がなく、欧州経済は成長を遂げ、国際的な相互依存関係が深まり、膨大な植民地の領有によって国内の政治的・社会的圧力を緩和する体制が続いてきた。世界中の資源が欧州に集中し、一種の「力の過剰」状態ともいうべき事態が生まれた。ノーマン・エンジェルという人が、戦争はもはや経済的に合わないという掲げたのは、それなりの理由があった。」と切り出した。
 つづけて筆者は、「第一次世界大戦はこの「力の過剰」状態にあった国々が互いに始めた自殺行為ともいうべきものであった。政府の要職に在った人々は基本的に19世紀のベル・エポック(良き時代)の産物であり、その後の大量殺戮時代とはおよそ違う環境で生きてきた。戦争が命の価値を加速度的に急落させること、その社会的意味に対する想像力を基本的に欠いていた。
 また、戦争から革命がおこり、それがさらに戦争に転嫁していくという「戦争と革命の20世紀」の政治的な激動にほとんど無縁な人々であった。民主政の洗礼さえうけていないリーダーも珍しくなかった。
 よく知られているように発端はサラエボ事件であった。処理の見通しの誤りから連鎖的に軍事的な起爆装置が動き、妥協型政治に慣れたリーダーにそれを止める覚悟も力量もなかった。戦争は数か月で終わるというのが、彼らの口から出た最後の気休めだった。また、政治の行き詰まりにいら立っていた人々にとって開戦はむしろ解放感をもって受け止められたという。第一次大戦は「犯意なしに」始まったのである(これに対し第二次世界大戦は「犯意をもって」はじめられたというべきであろう)。」と、指摘した。
 最後に筆者は、「第一次大戦から百年して、欧州の「力の過剰」は過去の話となった。20世紀が実質的に1914年に始まり89年のベルリンの壁の崩壊で終わったとして、「米国の世紀」である20世紀を支えてきた米国一極体制にも陰りがみられるようになった。そこでも徐々に「力の過剰」は現実味を失ったということかもしれない。 
 それに代わりアジアの急速な経済的・政治的台頭が注目されるようになり、そこでの「力の過剰」の行方が注視されるようになった。安易な類推は慎まなければならないが「力の過剰」は上手く活用しないと自殺行為とも思える帰結につながる。ハプニングを予防するのは大切だが、いったん起こったそれを処理する政治的能力について、地域の国々は十分なテストを受けていない。セルフコントロールのきかない「力の過剰」にはおおきなリスクが伴うことを百年前の欧州の苦く重い経験は教えている。」と、結んだ。
 読んで大変勉強になった。第一次大戦前の状況と、今のアジアの状況が似ているとの指摘は、納得しながらも、驚いた。
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by sasakitosio | 2014-01-14 11:14 | 東京新聞を読んで | Trackback