憲法の良いとこ発見しませんか?


by sasakitosio

”凡庸な悪”について 週のはじめに考える

 11月17日付東京新聞社説に、「“凡庸な悪”について」という見出しで、岩波ホールで上映された、ドイツ生まれのユダヤ人哲学者「ハンナ・アーレント」の映画についての記事がのった。今日は、この社説に学ぶことにする。
 社説は、「映画は戦後米国の大学教授となっていたアーレントによる、1961年にイスラエルで開かれたアイヒマン裁判の傍聴が中心です。そこで見出した“凡庸な悪”あるいは“悪の陳腐さ”について諄々と説いてゆくのです。」と切り出した。
 つづけて社説は、「アイヒマンは、ナチスによるユダヤ人虐殺責任者の一人。ガス室のある、絶滅収容所へ送る列車移送を指揮。犠牲者、推計600万人。逃亡先のアルゼンチンからイスラエル諜報機関が拉致し、世界注視の中、裁判にかけられ、絞首刑。映画には当時の映像が出てきます。
 法廷のアイヒマンは、濃色の背広にネクタイを締め、前頭部は禿げ上がり、メガネをかけ、ごく普通の役人か会社員風。
 こう言います。 
 「将校は忠誠を誓います。誓いを破るものはクズとみなされます」
 これに対し検事は問います。 
 「では総統の死は、その宣誓から解放されましたか」
 アイヒマンは答えます。
 「自動的に解放されます」
 そしてこの移送指揮者は言い切ります。
 「私は手を下していません」
 世界はアイヒマンを怪物と見ようとしていました。
 アーレントは違いました。映画ではこう言います。
 「そう単純じゃない。彼はどこにでもいる人よ。怖いほどの凡人なの」
 そこで凡庸な悪という言葉が記されます。しかし大論争を巻き起こします。彼女はアイヒマンの擁護者だ、という非難を激しく浴びせられるのです。」と教えてくれる。
 さらに社説は、「アイヒマン裁判は、日本の作家開高健も見てました。傍聴記はアーレントよりも早く「声の狩人/裁きは終わりぬ」という題で発表しています。有能な小役人の、凡庸だが深い罪を慎重に観察しています。 <中略>
 開高は、アイヒマンは釈放すべきだった、と結論づけました。焼きごてで彼の額に鉤十字を烙印して追放すべきだあった、と。
 分かりにくい凡庸な悪を、彼自身をもって悟らしめ、語らしめ、それを私たちは決して忘れまいという主張でしょう。」とも、教えてくれる。
 最後に社説は、「残念ながら、凡庸な悪は、今いくつも見つかります。たとえば、米国の無人機は非戦闘員も殺して、遠隔操作者は血の匂いすらしらない。若者をテロに誘うものは、自分らの正義の名の下に若者に人道を忘れさせようとしている。排外と差別です。
 戦争ではないが、世界に格差社会をつくっている強欲資本主義は人間の軽視において同列であります。
 原子力、核兵器の潜在的かつ永続的な怖さに目をつむり、また核を拡散させる者たち。
 もちろん、それらをナチスの非道とその残酷さにおいて同一視しようとは思いません。
 しかし、悪が凡庸、または陳腐であるがゆえに身近にあるかもしれないことは、十分恐れなければならないことです。その悪に落ちいらないために、アーレントは、ひたすらにこう言うのです。考えよ、と。偉大な恩師で愛者でもあった哲学者ハイデッガーの教えたように。」と結んでいる。
 アイヒマン裁判の時、高校生であった。おぼろげながら、アイヒマンがイスラエル諜報機関に拉致されたことも思い出した。
 しかし、大学受験や国家試験に集中して人生を使い、開高健の名前は聞いたことはあるが、小説も読んだことがない。
 恥ずかしながら、この社説で初めて「凡庸な悪」という言葉を知った。そして、映画「ハンナ・アーレント」に人々が長い行列をつくっていることを知り、うれしくなった。
[PR]
トラックバックURL : http://sasakitosi.exblog.jp/tb/19982943
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by sasakitosio | 2013-11-20 13:21 | 東京新聞を読んで | Trackback